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宮田律著 「中東イスラーム民族史」ー競合するアラブ、イラン、トルコー

 中公新書(2006年8月)


中東民族はいまや麻の如く入り乱れている。現代史の主な霍乱要因は欧米にある。

9.11同時多発テロとアフガン戦争とそれに続くイラン戦争以来、中東諸国は現在イスラム原理主義が支配する反米で一枚岩に様に見える。イスラム教対キリスト教国という所謂「文明の衝突」という見方も存在する。しかし歴史的に中東地域を見て行くとそんな単純な構図ではないことが分る。中東は大きく分類すると、トルコ民族、イラン民族、多民族からなるアラブという三大勢力が興亡を繰り返したところである。その三大勢力もイスラム教という共通の宗教(中に多数の派があるが)でくくられる。昔はイスラム王朝がこの地域全体を支配する時期もあったが、オスマントルコ帝国が1925年に滅亡以来、イギリス、フランス、ロシアが分割して支配する植民地に変わる。第2次大戦以降にはイスラエルが建国され、実に多くの国家が麻の様に乱れる(応仁の乱のように)紛争の地に変わった。その元凶は欧米の石油資源利権を求める戦略にあることは明白だ。何故イランイラク戦争が起こったか、イスラム国トルコがEU加盟を目指すのはなぜか、イラクスンニ派がイランのシーア派を極端に警戒するのはなぜか、エジプトが過激派発祥の地になるのはなぜか、対イスラエル政策でアラブ諸国の足並みがそろわないのはなぜか、など現代の諸問題を解きほぐすにはやはり過去の歴史をふり返らないと分らない。イランやトルコは一国一民族に近いので国としては分りやすいが、アラブとは多民族多国家群であるのでつかみようがない。アラブはイスラムが支配する不特定多数、トルコは西欧とイスラムの間を揺れ動く国、イランはアラブと一線を画するペルシャ民族とみておく。

中東地域の現在の紛争状態については以下の書物を読んで勉強してきた。それでもやはり根本的な理解は難しいと感じてきた。
藤原帰一編 「テロ後 世界はどう変わったか」
広河隆一著 「パレスチナ」
酒井啓子著 「イラク 戦争と占領」
藤原和彦著 「イスラム過激原理主義」
そこで今回、歴史的な大きな流れの中で現在の中東地域を眺めてみよう。島国日本からは想像を絶する民族の興亡があり、いまなお実に困難な茨の道にいることが実感できた。中東歴史をこの書評で一覧して示すことは不可能ではあるが、宮田律著 「中東イスラーム民族史」に導かれて自分の頭を整理してゆきたい。

序)中東三民族の特徴

言語による民族区分では基本的にアラブ人は「アラビア語」を、イラン人は「ペルシャ語」を、トルコ人は「トルコ語」を話す人々である。現在ではトルコ人とイラン人は固定化されて地域に住んで一民族一国家で分りやすいのだが、アラブ人は西は北アフリカから東はイラクという広い地域に居住している。アラビア語、ペルシャ語、トルコ語(1923年の文字改革まで)で使用している文字はアラビア文字である。これはイスラム教の聖典「コーラン」がアラビア文字で書かれているからである。
イスラム誕生以前はアラブは遊牧民であったが、7世紀ムハンマドがイスラム教を起こしてイスラム共同体を興した。このことがアラブ民族の永遠の自負となっている。アッバース朝がモンゴル帝国に滅ぼされるまではアフリカからイランをも含む大帝国であった。その後14世紀にオスマン帝国に占領されたが1925年オスマントルコ帝国が亡びるとイラク、シリア、ヨルダンのアラブ諸国が誕生した。アラブ人は様々な国家を作った。エジプト、スーダン、リビア、チェニジア、アルジェリア、モロッコであるがアラブ民族主義がイスラエルとの戦いで(第1次〜第4時中東戦争)権威を失墜し、アラブ諸国の足並みが乱れ西欧型経済発展にも失敗していまや保守的なイスラム主義の勃興となった。
イランは7世紀にイスラムに征服されるまでは、文化の高い王朝(アケメネス王朝、サーサーン王朝)が支配し宗教はゾロアスター教(拝火教)で民族的にはアーリア系の白人である。イランでは少数派であるシーア派が圧倒的でアラブ社会の主流派であるスンニ派とは異なる。このあたりがアラブと一線を画する伝統になっている。1979年アメリカと親密だったパフラビー王政が革命に倒れてから保守的イスラム政権になり反米色を強めた。
トルコ語はアルタイ語族で8世紀にオグズ族が中央アジアに移住した。11世紀にセルジューク朝を建国し、14世紀から1925年までの実に600年間オスマントルコ帝国が支配した。支配地は今のイラクからギリシャ、バルカン半島、エジプト、北アフリカ、スペインに及ぶ広大な地であった。ケマールがトルコ共和国を興してからは、国是は西欧化することと、イスラムから脱した世俗社会をつくることであった。アラブやイランとはかなりイスラム教内部でも異端的な立場にある。つまり前二者が伝統的イスラム主導国家であるのに対してイスラム世俗国家といえる。ということで中東三民族には同じイスラム教国とはいえ、立場や伝統が違う温度差を見なければならない。

1)アラブの歴史

7世紀にムハンマドがアッラーの神の声を聴いてアラブ共同体の建設に向かうまでは、アラブはアラビアの砂漠の遊牧民部族が散在する地で、メッカは商業交易の中心でメディナは農業の中心であった。
622年ムハンマドはメディナの地で最初のイスラム共同体を建設する。各部族が信仰する多神教を打ち破り一神教の国を打ち立てていった。ムハンマドが率いるアラブ軍はビザンチン帝国、ペルシャ、イラク、シリア、パレスチナ、エジプトを征服した。
ムハンマド亡き後は4人のカリフが立ってイスラム共同体の領土を拡大し661年にウマイヤ朝(622−750)を建国し首都をダマスクスに置いた。この頃領土は北アフリカからスペインに及んだ。統一と安定のために君主制としシリアの兵を主力とした。ウマイヤ朝は軍人と貴族が支配する王権国家である。
750年にウマイヤ朝はアッバース朝(750-1258)にとって替わられた。アッバース朝はバクダードを首都とし中央集権化を推進しイスラムの寛容な精神で指導され経済的繁栄を極めた。王朝はイランの影響を受けて壮麗な宮殿を建て8世紀末「千夜一夜物語」に見る全盛期を迎えた。
アッバース朝は1258年蒙古軍によって滅ばされついで14世紀初めオスマントルコ帝国が1925年までアラブを支配した。13世紀から20世紀中頃までの650年間はアラブ人国家(部族社会はあったが)は存在しなかった。
1880年から1930年にはオスマントルコの衰弱に乗じて欧州列強による軍事占領、委託統治、特恵条約などの植民地体制がアラブを支配した。圧倒的な軍事的優位と科学技術経済力でヨーロッパに支配された。ダマスクスはフランスに、バクダードはイギリスに占領されエルサレムはキリスト教に支配下になった。アラブナショナリズムとは「アラビア語とイスラムの文化的・歴史的遺産を共有する人間をアラブ人と呼びこれを統一する運動」を意味する。第1次世界大戦中トルコに反乱して独立を得ようとするアラブ運動はサイクスピコ条約(イギリスフランスロシアの密約)によって反故にされた。
1920年イラク、ヨルダン、パレスチナはイギリスの、シリアとレバノンはフランスの委託統治領になることが国際連盟で決定された。イラクとトルコは独立を維持した。1932年イギリスからエジプトが正式に独立した。パレスチナへのユダヤ人移民はアラブに反感を強め、1939年アラブの反乱となった。
第2次世界大戦後1948年イスラエルの建国によって第1次中東戦争が起こったがアラブは勝利できなかったが、エジプトのナセルはスエズ運河の国有化に成功し社会主義化を進め一躍アラブのヒーロとなった。1967年第3次中東戦争でアラブは完敗しアラブナショナリズムは退潮した。1979年エジプトはイスラエルと単独講和を結びアラブ連盟から除名された。
1968年に独立したイラクは社会主義を目指したバース党政権で専制的傾向が強い。1990年イラクのサダムフセインはクエートを占領しアラブ内での侵略戦争もおきた。米国に後押しされたイラン王朝は強大な軍事力を背景にしてフセインの「アラブの復権」にとって脅威となった。イランとイラクの国境の川の石油資源を廻って紛争が絶えず、1979年のイラクイスラム革命に乗じてイラクのフセインはイラン・イラク戦争を起こした。宗教的にはイランはシーア派、イラクはスン二派であることもイラク・イラン間の不仲の原因である。

2)イランの歴史

イランとはアーリア人(高貴な人)という特別な民族的自負があり、ペルシャ語はインドヨーロッパ語族に属する。アラブとは一線を画する民族的違いである。イラン人はペルシャ絨毯に見られる繊細な感覚、モスクの鮮やかな装飾模様と色彩感覚で芸術的に洗練された民族である。紀元前3000から2000年ごろ中央アジアの草原地帯からアルヤナムという遊牧民がイランの地に南下した。これがイラン人の祖である。
紀元前550年イラン人のキュロスは最初の大帝国アケメネス王朝を開いた。ダレイオス1世はアケメネス王朝の行政統治システムを完成し各地に長官を派遣した。当時の宗教はゾロアスター教である。紀元前330年アレクサンダー大王によって王朝は滅ぼされたが、続いてセレウコス朝(BC312-BC63)、パルチア王国(BC248-AC26)が起こった。
現在のペルシャの原型を作ったのはサーサーン朝(226-636)である。636年サーサーン朝はアラブのイスラムによって滅ぼされた。イラン人は300年間ペルシャ語を失い、ゾロアスター教からイスラム教になった。アラブの支配は600年間続いたが(モンゴル帝国による征服まで)イラン文化がアラブ文化に飲み込まれることはなかった。9世紀半ばアッバース朝が衰退するイランに様々な地方王朝が勃興した。ターヒル朝(821-891)、サッファール朝(861-1003、サーマーン朝(873-999)、ブワイフ朝などはアッバース朝の名の下に地方国家を作った。サーマーン朝のもとにイラン文化は医学や詩の分野で花開いた。サーマーン朝はトルコ系のカズナ朝(977-1186)に取って代わられた。1258年モンゴルのフラグはアラブアッバース朝を滅ぼし、イラク・イラン・アナトリアにイル・ハーン朝を起こし、続いてチムール朝(1370-1507)を建国した。
イスマーイールがサファヴィー朝(1501-1736)を建国しシーア派イスラムを国教とした。以後現在に至るまでイランではシーア派が主流の宗教である。現在のイラン国家の原型は16世紀のサファヴィー朝時代に作られた。サファヴィー朝がシーア派を国教としたことはスン二派のオスマントルコ帝国へのライバル意識となった。何度もオスマントルコの侵略を受けたが、アッバース1世(1587-1629)の時代に最盛期を迎えた。イスファハーンに首都を移し華麗な「王のモスク」を建設した。イラン文化は絶頂期を迎え書、織物、絨毯、陶磁器、絹など商業の繁栄をもたらした。サファヴィー朝は1722年アフガン人に滅ぼされたが、1936年アファシャール朝(1736-1747)が取って代わった。
ついでザンド朝(1765-1794)が興ったが、直ぐに衰退しカージャール朝(1796-1925)に替わった。19世紀にはいると欧州列強イギリスとロシアがイランに侵略を始めた。欧州の軍事進出で何度も戦争となりそのたびごとに条約を結んで国内資源が列強に与えられた。イギリスはイランを「インドへの道」と位置づけて戦略的重要性を認識しイランの半植民地化を推進した。歴代のカージャール朝政府は無能で腐敗し、1857年インドでセポイの反乱が起きるとイギリスは電信・鉄道・市電・鉱山利権など全てのイラン資源を獲得した。カージャール朝の改革は宰相ホセインハーンの手で進められたが、軍隊をロシアの手で創設したがかえってイギリスやロシアの傀儡となった。1906年イランは立憲君主国となったが、イギリスはイラン南部を、ロシアはイラン北部を勢力下に置いた。ここにカージャール朝は崩壊寸前になった。
1925年軍最高司令官レザーハーンはカージャール朝を廃してパフラヴィー朝(1925-1979)を創始した。イラン民族の栄光に訴えたレザーシャーはイラン神聖国家の復活とイスラムの排除政策を推進した。第2次世界大戦ではドイツの同盟国と見なされたイランはイギリスとソ連の軍事侵攻を受け、石油資源を狙ったソ連によってイラン各地に傀儡政権を樹立されたが、イギリスの援助でソ連を撤退させた。1951年首相モサッデクは王権を停止しイギリスの石油産業を国有化した。1953年にアメリカに支援された王政復古クーデターにより国王独裁体制が開かれイランは中東アメリカの代弁者になった。国王はアメリカの支援で近代国家と軍隊の増強を追及した。毎年膨大な兵器をアメリカから輸入し総額57億ドルとなり、国家財政の30%は軍事費となった。1970年の石油価格高騰により作り出されたイランの繁栄は兵器輸入と贅沢によって長くは続かず、国民生活は疲弊し反米反王政運動はしだいにイスラム運動と結びついた。そして1979年ホメイニ師の率いる革命で王生は崩壊し、イランの民族主義よりは普遍的イスラム性を強調するイスラム共和国体制が成立した。
2005年イランの大統領に「ネオ原理主義」といわれる保守強硬派のアフマディネジャードが当選して対米強硬路線を明らかにした。彼はイラン革命後腐敗や社会の困窮の源である聖職者や商人の出ではなく、庶民階層の支持を集めた。反米保守強硬派の出現によりアメリカはイランをテロ支援国家として圧迫を加えた。シーア派が主導権を握った現イラク政府とイラン政府には緊密な関係になる可能性がある。イラク内のSCIRIはシーア派がしめイラク内務省の重要ポストにあり、イラクスン二派の武装勢力との対決を強めている。米国がイラク戦争で滅ぼしたフセイン政権後は皮肉にもイランとイラクは友好的近隣国になった。ホメイニ師はイラン革命後核エネルギーを不要と考えたが、イラクイラン戦争でフセインのミサイル攻撃を受けて核開発を再開した。2006年IAEA理事会でイランの核問題は国連安保理事会に付託された。ロシアのウラン濃縮提案を拒否し、国民の体制求心力を維持するためナショナリズムに訴え欧米への対決姿勢を強調している。アメリカ・イスラエルとの軍事衝突も考えられ国際社会の重大な緊張要因となった。

3)トルコの歴史

トルコ語を話す遊牧民族が6世紀中頃内陸アジアに台頭した。チュルク(突厥)はモンゴルから中央アジアまで支配する大帝国を築いた。1037年セルジューク族のベクはガザナー朝を破ってホラーサーンを支配してセルジューク朝を開いた。1071年にはエルサレムを、1076年にはダマスクスを占領した。二代目アルスランはビザンチン帝国と戦ってシリアをそしてアナトリアを獲得した。三代目の時代には当方イスラム世界に対する支配を確立した。セルジューク朝はスン二派イスラムを採用したためアラブのアッバース朝と協調関係を結んだが、イランのサファヴィー朝とは敵対関係になった。
セルジューク朝はトゥルクーマン族をアナトリアに送りビザンチン帝国と対峙させた。スライマーンは1075年にニカエアを征服しルーム・セルジューク朝(1075-1306)を築いた。ルーム・セルジューク朝は十字軍と戦い1176年にはビザンチン帝国を撃破した。ルーム・セルジューク朝のアナトリアの支配権は14世紀になって確立したが、1308年結局モンゴル族に滅ぼされた。ルーム・セルジューク朝の末期にはトルコ文字が完成した。モスク建築物にも装飾的に優れたものが現れた。交通網の整備と橋の建設、陶器の製造が盛んになった。
中央アジアから来たトゥルクーマン族のオスマン1世はオスマントルコ帝国(1299-1922)を建国し、バルカン半島の攻略に乗り出した。ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア、クロアチアを支配した。15世紀にはモンゴルのチムール朝の攻撃を受けたが、メフィット一世がオスマントルコ帝国の権威を復活させドナウ川からユーフラテス川までの良知を支配した。1453年ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを陥落した。イスタンブールと改名して首都とした。1453年メフィット二世はビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させイスタンブールを改名した。ここを要塞化してヨーロッパとの交易に乗り出してゆく。セルビアを占領し、海軍力でロードス島を占領し中東から北アフリカまで領土を拡大した。1514年セリム一世のときイランのサファヴィー朝と戦って勝利し、シリア、アアラビア半島を版図に入れた。次のスレイマン一世の時帝国は極盛期を迎えた。1521年ハンガリーを征服し1529年ウィーンを包囲した。オスマン帝国のイスラムは正統派のスン二派であったが神秘主義宗派も含んでいた。オスマン帝国の社会はミレット製という自治制度で運営され全ての宗教の自由は保護された。オスマン帝国の文化はモスクやトプカプ宮殿、絨毯に花開いた。しかし16世紀中頃からさしも栄華を誇った帝国も衰退に向かった。それはデヴィシルメ制という奴隷制が官僚の腐敗となり、重税は農民の疲弊させ盗賊化させて中央集権制も崩れていった。17世紀に至って改革が支配層で叫ばれメフィット四世が旧秩序を回復したが、18世紀には欧州の科学技術・兵器には勝てずロシアやオーストリアに領土を割譲した。19世紀には帝政ロシアが最大の脅威になった。ロシアのバルカン半島への進出にはイギリス/フランスがこれを危惧し1953年クリミア戦争となった。ロシア・オーストリアはバルカン半島の分割に乗り出した。次々とバルカン半島のキリスト強国は独立しオスマン帝国に領土は縮小した。
オスマン帝国のトルコ人は非トルコ人を同化させることはなかった。ある意味ではオスマン帝国はアラブ社会とイスラム社会を外国の侵略から400年間にわたって守ったといえる。オスマントルコ帝国でのアラブ人はアラビア語で書かれた「コーラン」をまもって、司法制度の中で重要な役割を果たした。如何なる立法も法の執行もイスラム法に照らして合法と認める教令(ファトワー)が必要だった。ユダヤ人やキリスト教徒は都市生活のなかで銀行、商人、貿易に従事した。トルコ人とアラブ人の大部分はイスラムに束ねられるムスリム共同体を構成していた。ところが19世紀末ごろからアラブ人のなかで反トルコ意識が高揚する。アブヂュルハミト二世の暴虐とオスマントルコが衰弱するにつれトルコ民族主義によって反トルコ感情が高揚した。1908年自由・平等・同胞愛を唱える青年トルコ人運動は7月革命となって帝は退位し、立憲君主制となった。1908年から1918年に間権力を掌握した「統一進歩団」の目的は民族主義ではなく領土の保全にあった。ここに落日のトルコを守る運動は狭いトルコ主義となりアラブ民族主義と相克した。1912年のバルカン戦争でオスマントルコは全てのヨーロッパ領土を喪失した。イギリスはメソポタミアを支配下に置くことを意図した。第一次世界大戦で連合軍はアラブ人に反乱を起こさせアラブが独立を達成することを支援した。1916年「アラブの反乱」はイギリスの扇動で行われた(アラビアのローレンスが有名)。戦後フランスとイギリスはアラブを2分して委託統治領とした。しかし彼らが持ち込んだ民主主義は部族社会を主とするアラブには根つかずイスラムの慣習は容易には適応しなかった。物質面での西欧化は一定の成果があったが、文化的伝統は烈しい抵抗を生み出した。オスマントルコの滅亡と第2次世界大戦後にイスラエルが建国するに至って、アラブの民族主義は烈しい反欧米抵抗運動に転化した。
トルコ共和国は1923年に成立し脱イスラムと入欧を国家の目標にしてきた。第2次世界他戦後には殆どのアラブ諸国は独立しトルコ・アラブ関係は改善した。しかしエジプト・シリアはソ連と結んでアラブ急進派がトルコとは上手く行かなかった。トルコはイスラエルの存在を認める方針であったのでアラブ諸国との対立が深まった。1952年にはトルコはNATOに加盟し米軍の駐在も認めた。1974年のキプロス戦争や第3次中東戦争でイスラエルがエルサレムを占領してからトルコの方針が大きく変化した。トルコはアラブが唱えるイスラムの大義に同調する姿勢を見せ始めた。とはいえシリアとは難しい局面を迎える。トルコ内のクルド人ゲリラに他するシリアの支援では反目し、第3次中東戦争や第4次中東戦争では良好な関係になった。1970-1980年には再び関係は冷え込んだ。レバノン戦争、水問題であったが、さらにトルコ・イスラエル軍事協力協定(1996年)で一挙に関係は悪化した。
トルコは1949年イスラエルを承認し外交関係を樹立した。1950年代にトルコとイスラエルの関係は急速に発展した。しかし1967年の第3次中東戦争、第4次中東戦争からトルコはアラブへ回帰し1980年にはついに外交関係を縮小した。1987年トルコはパレスチナの民族自決権を支持した。ところが1992年イスラエルとの関係を正常化し改善に向かい、トルコ・イスラエル軍事協力協定(1996年)が結ばれた。トルコとイスラエルの関係はアラブ特にシリアを刺戟している。
1949年トルコはイスラエルを承認し外交関係を樹立した。1950年代は急速に外交関係は進展した。ところが1967年に第3次中東戦争、第4次中等戦争あたりからトルコはアラブ寄りになり1980年にはトルコはイスラエルとの外交関係を縮小した。1987年にはパレスチナの民族自決権を支持した。1992年からイスラエルとの外交関係は改善に向かい、1996年イスラエルと軍事協力を結んだ。この関係はアラブ社会特にシリアと緊張を生んだ。イスラエル・トルコ両国の貿易関係も好調である。このようにトルコはアラブと西欧の間を揺れ動いている。
トルコとイランは昔から競合関係にあった。第2次世界大戦後両国はソ連に対抗するためバクダード条約機構と米国との軍事同盟に加盟した。1979年イランの革命によってイランは西欧から離脱した。イランイラク戦争ではトルコは中立を守り、両国の関係は経済関係で飛躍的に伸びた。ソ連から独立した中央アジアのイスラム諸国をめぐってイランとトルコには競合関係が現れた。イラク戦争ではトルコは米軍の駐留を拒否し微妙な関係が生まれた。トルコはEUに加盟申請しているがいまだに加盟を認めてもらえない。


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