◆ をしとうらめし ◆ 平成六年六月十四日付新聞の一面記事は、天皇・皇后両陛下が米国を 公式訪問され、ワシントンに於ける歓迎式典に臨まれたという内容です。式典での天皇陛下のお 言葉は、太平洋戦争を「悲しむべき断絶」とされた上、「太平洋が真に名前のパシフィックの 通り、『平和の海』になれ、と述べられました。これに対する米国大統領は、「陛下の御代は平 和の達成の平成」であること、江戸時代福井藩の国学者橘曙覧(たちばなあけみ)(一八一二〜 一八六八)の歌、
「楽しみは朝起き出でて昨日までなかりし花の咲ける見るとき」(志濃夫舎歌集・五六一)
を引用して「日毎に新しい花が咲き、日米両国民の間の友情を育む」事を望む旨の挨拶を交わし
たわけです。このような場に和歌が引用されると言うことは、敷島の道が日本に留まらず、外国に
おいても生き続けていることを意味します。
ここに到るまでの日米両国には、ペリー提督率いる米国艦隊が一八五三年(嘉永六年)神奈川
県の浦賀に入港して、翌年日米和親条約を締結して以来、百四十年が経過していたのです。その
百四十年間には、太平洋を挟んで、両国間にはまさしく「恩」と「讐」が入り乱れる数々の出来
事が行き来したわけです。特に、昭和十六年から二十年にかけての太平洋戦争は日本のハワイ真
珠湾奇襲攻撃で開戦し、米国の広島・長崎への二発の原子爆弾で終戦を迎えるという憎しみと憎
しみが異常なほどにぶつかりあった戦争に終始し、結局日本二百五十七万人、米国五十五万人に
上る貴い命を犠牲にしたのでした。
人はどうして、憎しみあい、諍い、ついにはお互いの命を懸けて戦うのでしょうか。人類の
歴史とは闘いの歴史であって、平和に見える時代は単なる休息の一時期にすぎないように思えます。
また時が経てば、潜在していた人間の本心がむらむらと顕かに沸き起こってくると共に、見る見る
うちに穏やかな様相も鬼面と化して、血で血を洗う無益な行動に走ってしまうのです。その度に
武器を捨てよう、手を繋ごうと言う気持ちが現れるように見えるのですが、長続きしないという
のが人間の最大の欠点です。
◆ 百人一首の八天皇 ◆ 千百年前、王朝で有れば民の上に立つべきはずの天皇の身と
して、又人として「物を思う」感情を人並み以上に多く持ち合わせておられた後鳥羽天皇は「人
もをし」と思う一方「人もうらめし」とも思うという心の動揺に苛まれたわけです。感情が豊か
なため、一人一人への思いでは足らず、天皇として世を思うため、余計に「あぢきな」かったの
でしょう。
百人一首では八天皇の歌が撰歌されていますが、一番歌(天智天皇)から代が下るに従って不
遇をかこったり、不幸を嘆いたり、挙げ句の果てには、遠流の罪人として島流しの憂き目に遭わ
れたわけです。
同じ日本の本土を離れるにしても、隠岐島ではなく、反対の大平洋の彼方米国大陸まで、国際
親善のために飛んで行かれた平成の天皇は、平安朝では想像も出来ない行幸をされたことになり
ます。従って今上天皇の「世をおもふ」は、世界の国々であり、日本国民のみならず、外国の人
々との友好の大望であり、平和を維持するための努力を怠るべからずとの呼びかけを行えるよう
な、後鳥羽院とは比較にならない広い視野での大きな物の見方が出来る恵まれた立場からの思い
であるわけです。まさしく後鳥羽院の世界や活動範囲(当時の行幸はほとんど地方に及んでいな
かったでしょう)と、今上天皇のそれでは雲泥の差があります。
確かに今上天皇もその少年期は、先ほどの太平洋戦争の犠牲者として不遇な時期を体験された
わけですが、まさかそれからほぼ半世紀後、天皇として戦争当時の敵国の首都に立ち、相手の
大統領と平和維持に全力を傾けましょうと言えるとは思ってもみられなかったのではないでし
ょうか。
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 後鳥羽院の生涯 ◆ 後鳥羽天皇は、都こそ京には残ったものの政治の実権は、東国の
鎌倉幕府へ持ち去られてしまい、否応なしに世の変動期に身を翻弄されてしまったのです。四才で
第八十二代天皇に即位され、在位十五年で土御門天皇に譲位され、それからの二十年は武士政権
打倒に奔走の挙げ句、承久の乱(一二二一年)に失敗し、四十才より五十九才の没年までは、隠岐
島での罪人の生活を余儀なくされると言う、まさしく波乱万丈の不運な生涯を送られた天皇と言
えます。
敷島の道にも造詣深く、和歌所の開設と新古今和歌集の撰集を命じ、自らは「御集」と歌論書
を著しておられるように文武両道に秀でた方であられたわけです。
◆ 後鳥羽院の歌 ◆ 歌に対して持てる全知全能を注ぎ込んだ後鳥羽院の「新古今集」は、
八代集の最後として、一九七九首を撰歌し、四年の歳月をかけて一二0五年(元久二年)に完成し
ています。中には十二世紀最大の歌人西行の九十五首を筆頭に定家四十六首、後鳥羽院三十四首
を選んで、貫之、好忠、和泉式部、人麻呂も十六首から三十二首も含めています。
後鳥羽院の歌は大変感情に溢れていて、感銘を受けるものが多いように思います。ちなみに、
霞がお気に入りであったようです。
「ほのぼのと春こそ空にきにけらし天香具山霞棚引く」(巻第一・春歌上・二)
「見渡せば山本霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(巻第一・春歌上・三六)
「み吉野の高嶺の桜咲きにけり嵐も白き春の曙」(巻第二・春歌下・一三三)
はたまた激しい思いの歌々は、まさしく院の生涯そのものを切りくづして歌に綴ったという 感じのものです。特に、「遠島百首」では、その感情が最高に高揚していった時期と思われます。
「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」(「百人一首一夕話」・巻の九)
「同じ世に又住之江の月や見ん今日こそよそに隠岐の島守」(増鏡・二七)
*** 言葉の世界への散歩 ***
後鳥羽院の歌では同語が「繰り返し」使われ、且つ「対」になって並べられています。すなわち
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「人も を し 人も うらめ し あぢきなく 世を おもふ 故に 物 おもふ 身は」
(一) 第一句の「人」と、第二句の「人」には多くの意味があります。
(その一) 或一人の人のことであるとすれば、時にはその人をいとおしいと思うが別の折りには
うらめしいと思う心を詠っている。
(替え歌)「子らもをし 子らもうらめし あぢきなし 家思ふゆえに もの思ふ身は」
(その二)第一句は自分のことで、第二句は他人のこととすれば、自分はかわいいが他人は
恨めしい、さて誠に人は勝手な物よと言う意味合いで詠んでいる。
(替え歌)「人はをし 人はうらめし わがのまま 利を思ふゆえに 金思ふ身は」
(その三)ある人の群の中で、をしと恨めしに分けて判断するとすれば、あの人は愛しいが、
この人はうらめしいと色分けして人を見てしまいがちだと言っている。
(替え歌)「人もをし 人もうらめし ままならず など人は皆 我が意ならずや」
(二) 後鳥羽院流の練習歌を二、三作ってみましょう。
「この 地 にてかの 地 の君を 思ふ時 逢 ふには遠し夢にて 逢 はむ」
「晴 天 の 青 丹に映える 天 王寺聖 地 に緑太子の大 地」
「天 心を輝き流る 天 河に 恋 の架橋 恋 星二つ」
「天 中の 天 河 越し の 星 二つ 声 かけ交わす 声 の限りに」
*** 百人一首の忘備録 *** 「人と我が身」
百人一首の中で、「人」や「我が身」を拾ってみますと、次のように一対でよく似た用法のも
のが揃っていることが分かります。
「知る人」:三十四番・・・にせむ、 六十六番・・・もなし
「我が身」:九番・・・世にふる、 九十六番・・・なりけり
「みをつくして」:二十番・・・も、 八十八番・・・や
「身ー思」:三十八番・・・をば思はず 、九十九番・・・物思ふ
「人ー身」:四十四番・・・をも・・・をも、二十八番・・・人も・・・も
四十五番・・・いふべき、・・・のいたずらに、 九十七番・・・来ぬ・・・も焦がれつつ
「人目」:十八番・・・よくらむ、 二十八番・・・も草も
「人の」:三十八番・・・命の、三十九番・・・恋しき、四十番・・・問ふまで
「人に」:十一番・・・は告げよ、二十五番・・・知られで
「人は」:八番・・・言ふなり、三十五番・・・いさ
「人ー知」:二十五番・・・にーられで、四十一番・・・れずこそ、
九十二番・・・こそーらね
「人を」:五十八番・・・忘れ、七十四番・・・初瀬の
「人こそ」:四十七番・・・見えね 、九十二番・・・知らね
「人ーで」:二十五番・・・に知られ・・・、六十三番・・・づてならで・・・
これらの中で「人」と「身」を複数語用いている歌は、四十四番歌(人・身)、四十五番歌
(人・身)、九十七番歌(人・身)、九十九番歌(人・人・身)の四首になり、特に後鳥羽院の
歌は他人と我が身とが入り乱れて、心の複雑な不安定さを詠んでいます。
ちなみに「人・身」二連歌は四十四番ー四十五番歌で、「人の」の三組は三十九番ー四十番ー
四十一番の三連歌になっています。又百人一首には「人」の字は、二十三文字用いられている
わけですから、おおよそ四首に一首は「人」の文字が読まれていることになります。最も
「人」語密度の高いところは、三十四番から四十七番歌までの十四首の間で、そのうち十
首も「人」語が入っていますので、普通名詞の中でも最も使用頻度の高い単語になっている
のではないでしょうか。
又用いられている「人」の意味は次の辞書(三省堂「古語辞典」)による分類の中でも(二) や(三)の意味が多いようです。
(一)人間 (二)人間一般、大人(成人)、世間一般の人、相当な人、人柄、身分、家来、 人気 (三)親友、恋人、あなた、他人 (四)他の、よその
使用頻度の問題を古今集と新古今集に於ける恋歌で比較してみましょう。
百人一首 二十三首(全百首)・・・・・・・・・・・二割三分
古今集 百十八首(恋歌一〜五・三百六十首)・・・三割三分
新古今集 九十九首(恋歌一〜五・四百四十五首)・・二割二分
古今集での「人」の用語が多いと思われる恋歌の五つの巻きを見ますと、少なくとも二割三分に
「人」の用語があり、特に恋歌五では八十二首中三十二首(三割九分)にもなり、三首に一首以
上は「人」が用いられていることが分かります。
最も多く用いられているのは「人の心」(八首)であり、「来ぬ人」(四首)以外に、
「つれなき人」、「たづぬる人」、「辛き人」、「あだ人」、「おもはむ人」が詠われています。
新古今集では「人」の使用頻度は一割程度低下して二割二分になり、百人一首での頻度と同程度 になるとともに、恋歌一〜五までほぼ一定割合の使用頻度(一割九分〜二割五分)になっています。
平成六年六月十四日
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