◆ 謎解き ◆ 「袖」をキーワードにした女性の作による百人一首の歌には、四首(六五、 七二、九0、九二番)あり、そのうちの一首が「沖の石の讃岐」と渾名された源頼政女の歌です。 この歌の目玉になる歌語は彼女の渾名に示される通り、「沖の石」でしょう。男であれば「袖」 を詠むのは似つかわしくありませんから、次のように「恋」を詠わざるを得ません。
「我が恋は 潮干に見えぬ 沖石の 人に知られで 言ふよしもがな」
「我が恋は 潮干に見えぬ 沖石の 人しれずこそ 思ひ初めしか」
「我が恋は 波間に見えし 沖石よ 忍ぶるままも 色出でにけり」
さて、この歌を「謎解き風」に言いますと、
設問 「我が袖」と掛けて何と解く・・・・「潮干に見えぬ沖の石」と解く
解答 そのこころは・・・・・「(その1)人こそしらね」「(その2)乾く間も無し」
「袖と沖の石の関係は」と問われると、一瞬全く無関係なように思いますが、讃岐さんの謎解
きで「なるほど」と感心してしまうわけです。このように沖の石の着想は、奇想天外なもので、
一度聞くと忘れられない特異な印象を頭に残してくれます。
もっともこのアイデアは讃岐さんの独創ではないと言われています。「袖」の「乾く間もなし」
の詠法は、万葉集の時代から用いられたもので、巻第一・一五九番歌の持統天皇の長歌で、
「・・・あらたへの衣の袖は乾る時も無し・・・」と詠まれています。
◆ 我が袖 ◆ 和泉式部の歌に、この讃岐さんの歌によく似た次の歌があり、どうみても この歌の本歌取りとみなしてもおかしく無いという説(吉海直人「百人一首の新考察」)があ ります。
「我が袖は水の下なる石なれや人に知られで乾く間のなし」(和泉式部集・上・恋・九四)
和泉式部には人によく知られた歌が多くあるため、この歌はそれらに隠れてしまっている和 泉式部の「沖の石」の歌かもしれませんが、「我が袖」を第一句とする彼女の歌は、この歌以外 に五首もあるところから推察しますと、やはり「我が袖」の御本家は和泉式部のようです。中 でも「我が袖は」と詠いだしているのは、
「我が袖は 蜘蛛のいがきにあらねどもうちはへてつゆの宿りとぞおもふ」(和泉式部集・九七二)
「我が袖は 暗き夜中の寝覚めにもさぐるもしるく濡れにけるかな」(同右・一0四二)
「我が袖は 涙の浜にあさりせし海女の袂に劣りやはする」(同右・一二四0)
等で、袖と涙をいろいろな用語を駆使して読み上げていることが解ります。さすがに平安朝の、 と言うより、日本を代表する女流歌人の一、二を争うほどの才女と言えます。讃岐の方も本歌取り したにせよ沖の石という宝物を掘り起こして、首飾りに仕上げたところに歌才並々ならぬものが あります。
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 源頼光と頼政 ◆ 二条院讃岐の父源頼政(多田源氏)の血筋は次のようになっています。
清和天皇ー貞純親王ー経基ー満仲ーーーー頼光ー頼国ー頼綱ー仲政ー頼政
(多田源氏)↓ ↓
(六五番歌・相模) (九二番歌・讃岐)
頼政の四代先祖には、源頼光(十世紀〜一0二一)がいます。頼光と頼政には二つの点で共通す
るものがあります。一つは武勇伝が説話として残っていること、他の一つは娘さんが二人とも百人
一首の歌人であることです。
まず、頼光は武芸に秀で、特に武勇面では大江山の鬼退治が有名です。藤原兼家や道長らと結び
つくことによって、多田源氏の勢力拡大に尽くした人物として知られています。この武勇伝とは、
大江山の山頂千丈ガ岳には、酒呑童子が棲んでいたという祠があり、能の筋書きによると、頼光は
山伏を装い、酒呑童子に酒を勧めて退治するという伝説で、一説には現在の京都市西京区大枝(山
城国と丹波国の境)の坂に出没する山賊を退治したのではないかということになっています。
一方、頼政の武勇伝は、「百人一首一夕話」に依りますと、近衛院の仁平三年四月(一一五三年)
禁裏に怪鳥(鵺、ぬえ)が舞い降りて「主上御脳あり」、「頼政に命じてこれを射さしめ給へり」
と。まさしく、「この先祖にしてこの子孫あり」とでも言えるような武勇伝を残した武将達であっ
たわけです。
一方、娘さん方も父親に負けず劣らずで、武道の代わりに文道に於いて、その名を馳せたのです。
相模は第六六代一条天皇皇女脩子内親王の女房として出仕し、和泉式部、赤染衛門などと共に当時
第一流の歌人として活躍し、歌集「相模集」を残しています。讃岐は第七十八代二条天皇に女房と
して出仕し、式子内親王と並び当代第一流の女流歌人と称され、歌集「二条院讃岐集」を残しま
した。しかも、二人の百人一首の歌で共通するものは女性の代名詞的な「袖」なのです。相模は
「干さぬ袖」であるのに対して、讃岐は「袖は乾く間もなし」になっています。歌にまで親戚関
係にあるのです。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 石と岩 ◆ 百人一首の中で「石」を詠んだ歌はこの歌だけですが、「岩」を詠んだ歌は、
四八番歌「風をいたみ」(源重之)と七七番歌「瀬をはやみ」(崇徳院)の二首です。讃岐さんの
歌が沖合で潮が引いても見えない海中の岩を詠んでいるのに対して、重之さんの歌は海岸にそそり
立つ巌を、崇徳院の歌は滝川を遮るように川中に屹立している岩を詠んでいます。
石や巌を詠んでいる最も有名な歌は、古今集・賀歌の一番歌でしょう。
「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
(古今集・巻七・三四三・読人不知)讃岐さんが詠んだ賀歌には、やはり海の言葉が用いられています。
「わたつ海寄せては帰るしき波の数限りなき君が御代かな」(玉葉集・巻七・賀歌)
又、海と袖を詠み込んだ讃岐さんの歌としては次の歌があります。
「海草こそ生ひぬる磯の草ならめ袖さへ波の下に朽ちぬる」(新古今集・巻十二・恋二・一0八四)
◆ 対の歌 ◆
百人一首の中で「我が・・・は」で詠み始める歌は、他に八番歌「我が庵は」(喜撰法師)が
あります。九二番歌では、自分だけが解っていて「人は知らない」「沖の石」であるのに対し
て、八番歌では、自分がそう言っていないのに「人が噂する」「宇治山」であるという対称的
な謡いになっています。共通する点としては、八番歌では「庵に住んでいる」ということを自
分はしかと実感しているし、九二番歌では、「袖は乾く間もない」と自分はしかと知っている
という点でしょう。
歌尾の「・・・もなし」で終わる百人一首は、六六番歌「もろともに」(行尊)で「知る人も
なし」となっています。六六番歌も花より他に知る人が居ないと同じく、九二番歌も沖の石より
他に知る人が居ないと言うことになります。
その他には、「沖」を詠んだ百人一首の対になる歌としては七六番歌「わたのはら」(藤原忠通)
の歌の「沖つ白波」です。第四句の「人こそ知らね」と同じ様な用語のとり方には、四七番歌
「八重葎」(恵慶法師)の第四句「人こそ見えね」があります。
平成六年七月十七日
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