平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 90 歌   あまの袖 (殷富門院大輔)
見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変らず

◆ 袖の濡れ ◆  恋の涙に袖を濡らした女流百人一首歌人は、相模(六五番歌)、紀伊 (七二番歌)、讃岐(九二番歌)と国名の付いた女房ばかりの中にあって、この歌の作者は殷 富門院大輔で、国名の入った名前になっていませんが、歌の中に地名雄島(陸奥)を取り入 れています。
 この歌では、自分の袖の濡れ(自分の涙)を直接詠まず、都はるかに離れた陸奥・松島の中に ある雄島のあまの濡れた袖をたとえにもってきていることです。
 この歌の本歌は源重之の歌です。

 「松島や雄島の磯に漁りせしあまの袖こそかくは濡れしか」(後拾遺集・巻第十四・恋四・八二八)

源重之も歌においては自分の袖の濡れを「かくは」と言及するだけで、雄島のあまの袖の濡れ から、自分の袖の濡れを連想させるという技法を採って詠んでおります。重之の歌と大輔の歌の 違いは、あまの袖と比較して、涙を連想させる点において、単に濡れ(あまは海水に濡れ、自分 は涙に濡れる)という点のみに留まっているのに対して、大輔の歌は、「濡れに濡れて」さらに は色の問題にまで、踏み込んでいる点です。
 あまの袖の濡れは単に海水に濡れているだけ(「袖だにも」)で、変色していない(「色は変 らず」)のに反して、<自分の袖のことは一言も言及しないで、悲しみの涙で変色してしま った>ことを言いたいのだ、ということを分らせようとしています。従って紅涙(血涙) (血のような色の涙)が袖の色と言うことになります。例えば、古今集に見る素性法師の歌 では、白川が紅川に代わるようだと詠んでいます。

 「血の涙落ちてぞ激つ白川は君が代までの名にこそありけれ」(古今集・巻十六・哀傷・八三0)

 この歌は、白川に住まいした藤原良房を葬送する歌で、悲しみの血涙が白川を赤く染めることだ。 良房在世の時の白川は清い流れであったのに、と言う漢詩的大言壮語です。
 源重之の生きた時代は、殷富門院大輔の生きた十二世紀より二百年も前の十世紀になるわけです が、すでに雄島の海士は、その付近が風光明媚の松島であるため、人々によく知られていたので しょう。もっとも重之は亡くなる数年前に陸奥守として赴任する藤原実方(五一番歌)に付いて 陸奥へ行っていますから、陸奥の事情に詳しかったのでしょう。

◆ 袖の役目 ◆   百人一首の中で袖の語は六首に用いられておりますが、「涙に濡れる袖」 を「涙を流す」と言う動作の代名詞に使っているものは、四二番歌、六五番歌、七二番歌、 九二番歌で、職業を意味しているものは、この歌(あまの袖)と九五番歌(墨染めの袖)に なります。あまにとっての袖は一体何を意味するのでしょう。
 あま(海士)の服装は、職業上の目的とユニフォーム的な意味があると思われます。平成の 私達が見ている女性の海女のかの白衣の姿は昔から余り変わらないのではないかと想像しますが、 海中で目立ちやすいこと、袖で大きく見せて鱶等に襲われないようにする、あるいは海から上が ったときの体温の維持などの目的があると思います。
 一般に着物の一部としての袖にはどういう意味があるのでしょう。普通着物における袖は、洋 服等と比較しますと、まさしく無用の長物としか見えません。
  袖の役目は「袖」の次のような使い方を見ればよく理解できます。
 (一)涙に関係した言い方として、「泣く」あるいは「涙する」という使い方
    袖に余る:流れる涙が包みきれない、嘆き悲しむ
    袖の柵:流れる涙を袖でせき止めること
    袖の雫、袖の露、袖の涙、袖を絞る、袖を濡らす:いずれも、泣く、涙する
 (二)身振りに関係した使い方
    袖掻き合はす、袖うち合はす:身なりを整えること、相手を敬う気持ちを表す
    袖にする:手を袖の中に入れる、省みない、疎かにする
    袖の几帳:顔を隠す
    袖振る:惜別の挨拶、舞を舞う、
    袖を引く:誘う、注意を引く
    袖をひろぐ:物乞いをする
袖触れ合う:「袖触れ合うも他生の縁」(一寸した事も宿世の縁)
(三)男女の仲を意味する使い方
    袖の別れ:一夜を共にした男女の別れ
    袖巻き干す:共寝して涙に濡れた袖を干す
   袖を片敷く:片袖を敷いて独り寝すること
    袖を反ず:袖を裏返しにして恋しい人の夢を見る
 袖は装飾的な物ではなく、言葉に代わって人の気持ちや感情を相手に伝える道具になったり、生 活用具になっていることがわかります。
 平成現代では、袖と言えるような服装をしていないのに「袖」の言葉のみは活き活きと飛び 回っているのです。「袖の下」(内密に渡す金品、賄賂)なるものは、袖移し(内密に渡すこと) されるため、幾らだろうかと期待するものです。「無い袖は振れない」とはよく言った物で、こ のように「袖」は、全てお金のことに纏わり付いているわけです。

◆ 袖の意味 ◆   着物は体にぴったりと沿った服装でなくて、あちらこちらにゆとりの 生地があるために、物を隠し持つにはいくらでも工夫が出来ます。一方、洋服の方は決めれた 寸法の物入れ部分(ポケット)がありますが、入れる物には寸法や重さで限度があります。この ことは、風呂敷とバッグとの関係でも同じ事が言えます。風呂敷は、手のひらに載る物でも、大 きい物では酒の瓶二、三本でも手に持つように包むことが出来ますが、バッグではある限られた 大きさの物までしか入れ持つことが出来ません。使っていないときの風呂敷は折り畳んで持てま すが、バッグは折り畳めません。
 英語で「袖の下」に当たるよく似た用語に「卓の下」(アンダーザテイブル)というのがあり ますが、洋服では身の回りに隠すところがないため、机や卓の下で内密に金品を渡さざるを得な いと言うことでしょう。袖のある着物は何と便利ですね。

***  百人一首の忘備録 ***
 陸奥の地名(雄島と末の松山)を詠み込み、袖を引用し、かつ恋の歌として対になる百人一首 の歌は、四二番歌「契りきな」(清原元輔)です。 この二首の第一句は、「契りきな」「見せ ばやな」と「な」を用いていることが共通していて、大変歌の印象を鮮明にする効果を持って います。

                               【百人一首の談話室】 「袖」
 「袖」の漢字と類語すなわち「衣」へんの漢字群を見ますと次のように分類できます。
一。着物の部分を示す用語として:衿(えり)襟(えり)裾(すそ)袖(そで)衽(おくみ)
                 袂(たもと)裙(もすそ)
二。着物の名称として:袷(あわせ)襖(うわぎ)袴(はかま)裕(ゆかた)
            袍(ほう、ながいしたぎ)袿(うちかけ)裙(もすそ)襌(ひとえ)
三。国字として:裃(かみしも)裄(ゆき)襷(たすき)
四。その他の衣類として:褌(ふんどし)

 「袖」の語を用いた百人一首の歌六首のうち九十五番(墨染めの袖)以外は全て涙をぬぐうた めの着物の一部としての袖で、袖そのものが歌の対象ではなく、むしろ「涙」の方を詠みたいた めの代用語として用いられているわけです。
      (四十二番歌)袖ー絞る・・・・涙を絞る袖
 (六十五番歌、九十二番歌)袖ー乾す・・・・涙で乾かない袖
 (七十二番歌、九十二番歌)袖ー濡れ・・・・涙に濡れる袖
 ちなみに「袖」でぬぐい取られる「涙」の方はどのように詠まれているかと見ますと、百人一首 の中では二首(八十二番歌、八十六番歌)に詠まれており、「憂きに耐えず流す涙」であり、「かこ つ涙」になっています。
これらの五首は後拾遺集、金葉集、千載集から採られたものです。「袖」を詠んだ歌は八代集内 には三百七十八首見られるそうです。(学灯社・国文学誌「小倉百人一首」第三十七巻一号・一二 四頁) 又、古今集より新古今集の方が全体の和歌数に占める「袖」を詠んだ歌の数の割合が 高くなっているようですから、八代集でも古今集より新しくなるにつれ、「袖」に代表される涙 が多くなったのでしょう。
 平安朝以前より、いわゆる大和民族の服装なる物が着物風になってより、西欧文化が一般庶民の 服装にまで浸透した昭和の戦後まで、我が国に於ける服装は和服すなわち着物が主体であったわ けです。 着物には袖がありますが、洋服には袖がありません。袖なし服では、涙の拭いようも ありません。悲しい涙は何処で拭けばよいのでしょうか。
 律令制度下での服装はまさしく官位職制を表わしていましたから、服装も非常に重要な物であっ たわけです。推古天皇期の「冠位十二階」では、中国・隋に倣って十二色の衣服が定められ、 「衣服令」により、礼服・朝服・制服などの区別がつけられ、平安宮廷では、衣冠(朝服の略礼 装)・束帯(朝服の和風化した物)と変遷し、武家装束へと変装していったのです。
 服装はその時代・時代の政治体制であると同時に庶民風俗の具体的な表れであったのです。そう であればこそ、平安遷都の日である七九四年十月二十二日を記念して、毎年催される時代祭は服装 の変遷の歴史絵巻きでもあるわけです。祭りの装束は平安宮廷の王朝衣装から始まって明治維新に よる東京遷都(一八六八年十月の行幸)の官軍の服装で約千百年の服装の歴史を一度に見ること が出来るのです。言い換えれば日本人の服装の歴史千百年を約一時間で、映画を見るように観覧 することができるのです。この祭りの伝統を継いでもう二百年か三百年経つと、今度は東京遷都 五百年記念として明治以降の洋装に関する日本人の歴史を見る祭りが催されるようになっている かもしれません。
 明治維新によって明治天皇自ら洋装を正装たる礼服として着用し、官僚も洋服、軍人も洋風装 備をしました。庶民の服装も着物着用の時と場所が少なくなり、平成現代ではついに「着物」その ものが女性の礼装になってしまいました。千年後の日本人の服装はどう変貌しているのでしょうか。
 「時代祭」も「大々時代祭」と名ずけて、二千年の服装の歴史を見ることになるのではないで しょうか。

***   百人一首の忘備録   ***
◆ 重ね言葉 ◆  第四句の「濡れにぞ濡れし」は重ね言葉と言われています。
 他の百人一首の歌でも、
 「寄る波よるさへ」(十八番)、「知るも知らぬも」(十九番)
 「折らばや折らむ」(二九番)、「しの原忍ぶれど」(三九番)
 「さしも草さしも」(五一番)、「絶えなば絶えね」(八九番)
等に見受けられますが、二重に動詞を重ねているのは九十番歌のみです。
 重ね言葉によって得られるものは、動作を効果的に響かせる効果音ではないでしょうか。従って この歌の効果語は第一句に付けられている詠嘆の終助詞「な」と、この「濡れー濡れ」になると思 います。

***  百人一首の百人家族   ***
 この歌の作者藤原信成女は、後白河天皇の皇女亮子内親王(殷富門院)に仕えた女房で殷富門 院大輔と呼ばれているわけです。ちなみに、大内裏には多くの門がありますが殷富(盛んにして 富む)門は内裏の真西の大内裏を守る門で東の陽明門に対しています。
 この歌より一番前の八九番歌「玉の緒よ」の作者はやはり後白河天皇の皇女の式子内親王で、 亮子内親王とは母親を同じくする実の姉と妹です。したがって八九番歌と九十番歌は殷富門院で 繋がっているわけです。
 また、「見せばやな」、「雄島」(松島)、「袖」、「色」などからも連想される物は、か なり多彩な、且つ色鮮やかな背景が作者名である殷富(盛んにして富む)門院大輔と合わせて、裏 に隠されているようです。

平成六年七月二十三日

                             

掲載 平成16年5月7日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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