◆ 恋と命 ◆ 五四番歌「忘れじの」(儀同三司母・高階貴子)に見られるような「命」を
命題にした百人一首の女流歌人としては、他に五六番歌「あらざらむ」(和泉式部)およびこの
八九番「玉の緒よ」(式子内親王)等が挙げられます。 これら三首は恋と命に対する考え方の
違いが出ています。恋と命を天秤に掛けているものと、命の上に恋を置いているもの、命に激しく
挑んでいるものなど様々です。
まず、儀同三司母(高階貴子)の歌は、「行く末不確かな命ゆえ、今は恋を取りたい」と。逆に
言いますと、命は長く、しかして恋も長くと言う、最も厚かましい願望になっています。
次に、和泉式部の詠みは「不確かな命」どころか「もう先が見えてきたこの命」故、恋も何時ま
でも長くとは言わない、「今ひとたびでよい」と、かなり遠慮した言い分となっています。
最後の式子内親王の「激白」は、「命を長らえれば長らえるほど、恋も少しずつ弱り」を見せる
ことになるのが不本意であるという事でしょう。従って裏返して言えば、今思い、かつ慕い続けて
いる状態で息絶えた方が、恋は固定され、昂揚されたままの不変の状態で、永遠に続くのではない
かという生に対する逆の発想になっています。
式子内親王の激しさは恋を弱らせる玉の緒に挑戦しているところでしょう。「長らへ」ると
「忍ぶ」事が「弱」るので「長らへ」ないなら、「長らへ」ないでよい、と言うことですが、どう
もそういう道理を言いたいのではなく、上の句も下の句も、言っている事の逆を言いたいのでは
ないかと思います。
上の句では玉の緒よ絶えたいのなら絶えてみるがいい、(自分は負けませんよ。絶えさせま
せんぞ。)と。下の句では、「ながれへ」れば「忍ぶ」ことが「弱」るところを、自分は弱り
そうになるところを、「弱らせませんぞ」と。
全体で見ますと「命は忍ぶ恋の中に、生きながらえている自分を奪っていこうとしますが、自
分はその命に挑戦し、命から自分を守り抜きます。長らえれば弱っていく恋も、自分は絶対に弱ら
せません」というように詠めないでしょうか。読み方が激しければ激しいほど、言いたい心の内は
口に出している言葉とは逆に聞こえるものです。
◆ 玉の緒 ◆ 「玉の緒」の「玉」は、宝石や美しい物の形容で、「緒」とは糸、紐、長 く続く物、絶えない物の形容で、「玉の緒」では、玉を貫き通す紐、短い例え、さらには命となり、 「玉の緒」という枕詞としては、古語辞典によりますと、「絶ゆ」、「継ぐ」、「乱る」、「長し」、 「うつし心」、「惜し」等に懸かる言葉になるようです。「命」の意味はこれらの懸り語句と関係 があるため、引用されるようになったのでしょう。例えば、次の万葉集・巻第十一の歌の例を みます。
「生きの緒に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも」(二七八八番歌)
「玉の緒の絶えたる恋の乱れには死なまくのみぞまたも逢はずして」(二七八九番歌)
「片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく」(二七九一番歌)
「玉の緒の間も置かず見まくほり我が思ふ妹は家遠くありて」(二七九三番歌)
平成の人々が「命」、「生命」というところを、平安朝の人々は「たま」(魂、霊)に緒を つけて、「玉の緒」と言い換えるところは、如何にもゆかしさが感じられます。「たま」と言う 言葉は、美しさを感じる多くの名詞の接頭語として用いられて、「玉垣」、「玉串」、「玉髪」、 「玉かづら」、「玉櫛笥」、「玉簾」、「玉襷」、「玉棚」、「玉垂れ」、「玉梓」、「玉章」、 「玉鉾」、「玉裳」、「玉藻」等多数あり、例えば式子内親王は、「玉水」を次のように詠って います。
「山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水」(新古今集・巻第一・春上・三)
このような「玉」ですから、女性の名前には「珠恵、珠美、たまの、玉穂、玉奈、玉ら」など
うってつけなのですが、平成有名人の中では女優の中村玉緒さん以外には、あまり芸名としても
聞きません。どうも愛玩物としての猫の名称「たま」を連想するからでしょうか。
「玉の緒よ」と呼びかける間投助詞「よ」を使った歌は、七四番歌「うかりける」(藤原俊頼)
および八三番歌「世の中よ」(藤原俊成)ですが、俊頼は俊成の歌の師、俊成は式子内親王の歌の
師ですから、関連する三人がいずれも「よ」の用語を用いた歌が百人一首に選ばれているのも
面白いところです。
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 式 子 ◆ この歌の作者は後白河院皇女「式子内親王」ですが、お名前の「式」とい
う漢字は平成の人々から見ますと大変めづらしいものです。百人一首に用いられている女流歌人
二十一名の中名前の漢字としては、持統天皇は別にして、小町、貴子(儀同三司母)、賢子(
大弐三位)、祐子、仲子(周防内侍)や式子などですが、平成の世でも、「貴」や「祐」は
名前として時々用いられるものの、「式」の字はほとんど聞かないと言ってよいでしょう。
「式」なる漢字の意味は漢和辞典によりますと、範(模範)、則(法則)(平安朝の官職の中の
八省に式部省があり、さしずめ現代の法務省でしょうか。)、礼法、方法などと言うことです
から、平成であれば、範子、則子あるいは礼子などと名付けるところでしょう。お名前の「式」
の語から、波乱の人生を送った女性とは思えないという連想を巡らす所ですが、実在の内親王の
人生は、悲しい運命に「式」されたものであったようです。
十才で賀茂の斎院、二十才で病を得て都に帰ってきて、歌を藤原俊成や定家に師事し、勅撰集
に百四十六首も採られているという、歌人としては優れた才能を認められたものの、わずか五十
二年の人生に終わっています。
兄の以仁王は治承四年(一一八0年)源三位頼政らと平氏討伐の兵を挙げ、宇治の合戦で戦死し
ています。その平氏出身を母とする異母弟には、第八十代の高倉天皇がおられ、その中宮には平
清盛の娘が合わされて、源平合戦・壇の浦に沈んだ安徳天皇、さらには承久の乱によって悲劇の
配流の身となった後鳥羽天皇と順徳天皇が系累となっています。
このように彼女の身の回りは、誠に血なまぐさい戦乱に翻弄された人々が渦巻いているのです。
その外乱に反抗するかのように、彼女は宮中で心身ともに歌道に専心し、次のように詠んでいます。
「跡絶えて幾重も霞め深く我が世を宇治山の奥の麓に」(式子内親王集)
「儚くて過ぎにし方を数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける」(新古今集・巻第二・春下・一0一)
「花は散りその色となくながむれば空しき空に春雨ぞ降る」(新古今集・巻第二・春下・一四九)
平成六年七月十日付、産経新聞の歌壇時評「をんな百人一首」(市井社・山中智恵子)で、 次の式子内親王の歌が「古今の全歌人のこの一首」として絶賛されております。
「ほととぎすそのかみ山の旅枕ほの語ひし空ぞ忘れぬ」(新古今集・巻十六・雑上・一四八四)
ちなみに八九番歌に並んで新古今集で読まれている彼女の歌を挙げてみますと、
「忘れてはうち嘆かるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を」(巻十一・恋歌一・一0三五)
「我が恋は知る人もなくせく床の涙漏らすなつげの小枕」(巻十一・恋歌一・一0三六)
平成六年七月十日
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