◆ 月見の歴史 ◆ 顕輔がこの歌を詠んだのは、約八百五十年前の十二世紀前半ですが、平
成現代歌としても何の違和感もなく受け入れられる内容の歌になっています。秋の月を対象にした
純粋な叙景歌であるため、何時の時代でも、すなわち八百五十年前でも八百五十年後でも、月を愛
する人々には、同時代人的な印象を受ける、平明かつ静寂な世界を詠った歌になっているからです。
この歌の醸し出す情景は明らかに中国風でない日本的墨絵の世界に位置していて、月見する顕輔の
後姿が思い浮かべられます。
月と共にに人生を送ってきた日本民族は、いろいろな形で月を歴史の中に刻み込んできました。
それらは和歌、漢詩、物語、俳句、歌謡、民謡、さらには日記、随筆、紀行、戯曲、演劇、小説の
類です。
日本人は昔から月を愛し、月を友としてきたように、中国人も同じく月を詠ってきましたから、
月に対する姿勢は東洋民族特有ものかもしれません。
漢詩に見る一例は次のようなものです。
月夜(杜甫)、峨眉山月歌(李白)、月下独酌(李白)、静夜思(李白)
八月十五日夜禁中独直対月憶元九(白居易)
「この世に月がなかったら」と考えたとき、月が地球上の人類に何万年にも渡って与えてきた
物質的、精神的影響は計り知れないものがあります。太陽は地球の生命の源であるのに対して、月
は地球の憩いの世界でもあるわけです。地球の誕生から四十五億年経った現在、人類はこの地球上
に出現して、その十万分の一以下しか経っていませんから、まだまだ千年や二千年で宇宙の中の太陽
や月と地球の関係に大きなアンバランスが生じるとは思いませんが、もっと心配なのは、地球と人
類の関係で、この千年間で月を見上げる人の心の持ち方は変っていないのに、人の住まいの場であ
る地球の環境を人類は自らの利己的な目的のために破壊し続けていることです。
地球の歴史の中で、いろいろな生物が繁殖して滅亡してゆきました。そのことを知っている人
類そのものも滅亡していくのかも知れません。顕輔のような心持ちで、月を、また地球を慈しみ
続ける限りは問題はないでしょうが。
◆和歌集の月々◆ 万葉集で、秋の月を雲と組み合わせて詠んだ例としては、
「秋の夜の月かも君は雲がくりしましも見ねばここだ恋しき」(巻十・秋・相聞・二二九九)
作者は秋の月はすぐに雲に隠れやすいと見ているのでしょうかね。
古今集の秋の歌の中に見る「秋」、「雲」、「月」を詠んでいる歌は次の一首のみです。
「白雲に羽根打ち交はし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月」(巻四・秋上・一九一・読人不知)
新古今集(巻四・秋上)になりますと、ぐっと数が増えますが、いずれも「雲」と「月」のみの 組み合わせです。
「敷島や高円山の雲間より光り射しそふ弓張りの月」(秋上・三八三・堀河院)
「月影の澄み渡るかな天の原雲吹き払ふ夜半の嵐に」(秋上・四一一・大納言経信)
「龍田山夜半に嵐の松吹けば雲にはうとき峯の月影」(秋上・四一二・左衛門督通光)
「山の端に雲の横切る宵の間は出でても月ぞなほ待たれける」(道因法師・秋上・四一四)
◆ 秋・雲・月 ◆ こうしてみますと、簡単なように見える「秋」、「雲」、「月」の歌を 作るのは、かなりむづかしいのではないかとさえ思います。どのような状態の雲を月と組み合わ せれば「秋月」の深い趣を歌えた歌になるかはむづかしい選択です。顕輔は「たなびく雲」をそ の組み合せとしたのです。棚引く雲の際を見え隠れしながら空を行く月を見るのも楽しいもので すが、厚くあるいは所々薄くかかった霞渡る空を、その影を時にはくっきり見せたり、あるいは 時にはぼんやりと隠れたりしながら、雲の向こうを行く月も又ひとしお(一入)です。
「秋空に 霞み棚引き 見まほしき 雲のあなたの いざよひの月」
夜空に転々と散在する雲から雲へ月を見る自分と「かくれんぼう」でもするかのように見え 隠れするような月は又追いかけたくなるものです。
「秋風の 中にいざよふ 群雲を 追いつ追われつ 月と我とは」
◆ 月見の方法 ◆ 顕輔は明らかに棚引く雲間の月を直接見上げているわけですが、月見の 方法もいろいろ工夫があるもので、池や湖の面にあるいは川面に移る月を、さらには草葉の上の 露に光る月を最高の月見とする粋人もいますし、手水鉢に映し取った月を、あるいは夕立の後の 水たまりに映った月を我が物なりと自慢する歌人もいたようです。
<湖辺月> 「におの海や月の光のうつろへば浪の花にも秋は見えけり」
(新古今集・巻第四・秋上・三八九・藤原家隆)
<水上月> 「秋山の清水に汲まじ濁りなば宿れる月の曇りもぞする」
(詞華集・巻第三・秋・一0三・藤原忠兼)
<池の月> 「秋の池の月のうへ漕ぐ舟なれば桂の枝に棹やさはらむ」
(後撰集・巻第六・秋中・三二一・小野美材)
*** 百人一首の道草 ***
◆ 秋 風 ◆ 第一句の「秋風に」の用語を採り上げてみましょう。「秋風に」よって
「棚引く雲」なのか、「秋風に」より「もれいづる月」なのか、両方に取れるとされていますが、
両方に懸かると見れば趣が増すでしょう。「秋風の」などとすればどうなりましょうか。
「秋風の そよぐ 雲居の との間より 漏れ来る月の 影やさやけし」
「秋風は なびく薄の 穂に捲きて 雲の端つかむ 月影さやか」
「秋風も 棚引く雲も 月影も 秋の夜長の 憩ふ友かも」
「秋風」も「春風」となりますと、やや風情は変わります。
「春風に 霞み棚引き おぼろにも ほのかに浮かぶ 宵の望月」
◆ 月見の視点 ◆ 月の鑑賞の姿勢を変えるべく、顕輔の歌に若干の工夫をしてみます。 じっと座って流れる雲と月影を見ているのでなく、積極的に雲間の月影を追いかける望遠鏡のよ うな目で、かつ眼光を鋭くしますと次のようになります。
「秋風に たなびく雲の 切れ間より 垣間見る月 影やゆかしき」
逆に月を見る目をぐっと後ろに下げて、月見の薄の後ろに回りますと、
「秋風に なびく薄の 穂の間より 賞づる望月 影おくゆかし」
ちなみに古今集・巻四・秋上・一八四では、次のように詠っています。
「木の間より漏れ来る月の影見れば心つくしの秋は来にけり」(読人不知)
さらに月の光を滝の水のような一幅の絵に描き変えますと、
「秋風に たなびく雲の 狭間より 降り来る月の 光さやけし」
やはり、一片の雲なき中秋の名月より雲が脇役となる月見のほうが、絵に描きやすいし、風情 があるように思います。
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 顕 輔 ◆ 敷島の道の六条家始祖修理大夫顕季の子供で、八四番歌「ながらへば」の
清輔の父親です。六条家の面目を保つために勅撰和歌集「詞華集」を崇徳院(七七番歌「瀬をは
やみ」の歌人)に撰進し、自らの歌も数首取り入れました。
顕輔は空を見上げるのが好きであったようで、詞華集で天の川や月を詠んだ彼の歌を拾いますと
次のようなものがあります。
「天の川よこぎる雲やたなばたの空だきもののけぶりなるらん」(巻三・秋・八六)
「夜もすがら富士の高嶺に雲消えて清見が関にすめる月かな」(巻九・雑上・三0一)
「難波江の葦間に宿る月見れば我が身一つもしづまざりけり」(巻九・雑上・三四五)
これらの叙景としての月以外に顕輔は本当の月を歌にしています。現代の人々も、後世千年後 の人々も、このような心の月を持って生きたいものです。
「いかで我が心の月をあらはして闇に惑へる人を照らさん」(詞華集・巻十・雑下・四一0)
*** 百人一首の忘備録 ***
百人一首の中で月の歌は十二首有りますが、月を見る歌(三首)、夜半の月(二首)、有明の
月(二首)、物思わする月(一首)、それに雲と月は三首有り、雲に宿る月(三六番歌)、雲に
入る月(五七番歌)、それに雲より出づる月(七九番歌)となっています。
百人一首の中では、普通名詞としては、風(十四首)に継ぐ歌数の多さです。十首の中で一首
以上は月の歌という百人一首の選定結果に於いて、藤原定家は、かなり月の歌を重要視していたこ
とを意味します。
「花鳥風月」と言う風雅の代名詞がありますが、まさしく百人一首の中では四題だけで、風
(十四首)、月(十二首)、桜・紅葉(十二首)、鳥(五首)とほぼ半数弱の歌数になるほど、
自然情景に感情を写し取る対象として用いていたことが分かります。
前に挙げた月の歌十二首の中、純粋な「秋の月」の叙景歌は、この顕輔の歌と三六番歌「夏の夜 は」(清原深養父)の歌ぐらいで、その他の歌は月を見て故郷を思い(七番歌)、人待ち月(二 一番歌)であったり、人との別れ月(三0番歌、五七番歌)であったり、あるいは物思いの月 (二三番歌、六八番歌、八六番歌)になったり、月は物言わぬその時代の人々の生涯の友にな って、問いかけられ、詩に詠まれてきたわけです。
平成六年九月十一日
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