平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 77 歌   運命の狂ひ (崇徳院)
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

◆ 清盛と義朝 ◆   平成六年七月二十一日、NHK夜十時のテレビ歴史番組「ライバル日 本史」に於いて、ー源平対決・リーダーの決断ーと題して、保元の乱及び平治の乱を通して見た 平清盛と源義朝が採り上げられ、両人が氏族の棟梁として戦った背景や模様を話題にした内容が 放映されました。清盛は義朝より五歳年長で、一一一八年に生まれ、奢る平氏の氏族を隆勢に導 いた後、氏族の滅亡する模様を見ることなく去って行きました。
 一方、義朝は保元の乱に於いて上皇側の崇徳院を攻めて配流の身に追い込んだにもかかわらず、 一緒に戦った清盛ほどの論功行賞に預かれず、後に清盛と戦うことになる平治の乱の因を作って しまうのです。人の運命とはふとしたことから狂いはじめ、ついには自分を窮地に追い込み、自 滅しなければならないことが多いものです。運命の狂いは僅かでも生涯の結果から見れば大変な 違いになるのが常です。

◆ 保元の乱 ◆  保元の乱(一一五六年七月十一日)は、上皇方(兄・崇徳院、弟・藤原頼長、 源為義、弟為朝、平忠正)と天皇方(弟・後白河天皇、兄・藤原忠通、兄・源義朝、平清盛)との、 皇室と三氏族兄弟間の闘いとなりましたが、戦術(焼き打ち)に長けた義朝の働きにより、崇徳院 側が敗退したものです。保元の乱も元はと言えば崇徳院が父鳥羽天皇から継いだ皇位(在位十八年) を弟・近衛天皇(三歳で即位)に譲位させられたのを不満としたことに端を発した怨念の闘いだっ たわけです。讃岐へ九年間の配流の身となって亡くなってのちも、保元の乱の失敗に対する憤りは 収まらず、天下を乱し、朝廷を悩ますいろいろな出来事が全て彼の祟りとして噂されたようです。 もともと崇徳院は讃岐院と称されていましたが、御霊を慰めるために治承元年(一一七七年)に 追号されたもの(尾崎雅嘉「百人一首一夕話」)で、「崇」は高いとか貴いあるいは尊敬する (敬う、尊ぶ、崇める)などの語です。

◆ 崇と祟 ◆  よく似た漢字に祟り(たたり)がありますが、後世の人々は崇徳院のたたりを 恐れて、崇敬するために諡(おくりな)をしたわけです。同じ様な背景で、崇の字で諡のある天皇が おられます。桓武天皇の弟の早良親王で、七八五年藤原種継暗殺事件に関与したかどで、淡路島へ 配流の身となり、途上絶食して絶えたことにより後世に祟りがあり、大和国に移葬され、崇道天皇 と追号されたという事です。「崇」の字は諡用の漢字のようです。ちなみに「崇」の字のお名前の 天皇は、崇神(第十代)、崇峻(第三十二代)、崇光(北朝第三代)、それに崇道天皇の四人です。

◆ 詞華集 ◆  皇位継承の面で不運な立場に立たされた崇徳院ですが、天養元年(一一四四年) 院宣を発し、藤原顕輔に第六番目の勅撰和歌集として「詞華集」を仁平元年(一一五一年)に撰集 させています。総歌数は四百首強と二十一代集中最少で、作者百八十九名中、曽禰好忠(十七首)、 和泉式部(十六首)、大江匡房(十四首)、源俊頼(十一首)など百人一首の作者が並んでおり、 崇徳院御自身も四首撰歌されています。 「瀬を早み」の歌以外の三首とは、次のものです。

 巻第一・春・  四八 惜しむとて今宵書きおく言の葉やあやなく春の形見なるべき
 巻第三・秋・ 一二四 秋深み花には菊の関なれば下葉の月ももりあかしけり
 巻第九・雑上・二九0 月清み田中に立てる仮庵の影ばかりこそ曇りなりけれ

 百人一首に採られた「瀬をはやみ」の歌も含めますと、何と入集した歌のうち三首まで、第一句 が「・・・・み」の形を採っているところからみますと、崇徳院の十八番技法だったのかも知れま せん。その証拠に千載集や新古今集に次の歌があります。

「秋深み たそかれ時の藤袴にほふは名のる心地こそすれ」(千載集・巻五・秋下・三四四)
 「山高み 岩根の桜散るときは天の羽衣撫づるとぞ見る」(新古今集・巻二・春上・一三一)

 傲慢無礼で不遜の輩の名もいとわず、前記、新古今集四八番歌も「・・・・み」の形式の替え 歌としてみましょう。

 「春惜しみ しるす言の葉 あやなくも またの桜の 形見なれかし」

◆ 落 語 ◆   「崇徳院」で思い出すのは、前述の「保元の乱」ともう一つ、百人一首や 保元の乱ならずとも、落語の一つ「崇徳院」でしょう。人によってはまさか、百人一首の歌から 引いてきた落ちのある落語とも思っていないし、さらには天皇のお名前ともみないで、単なる落 語の題目とのみ思っている人も無きにしもあらずでしょう。
 お名前に「徳」のつく天皇は、懿徳(いとく)(第四代ー六世紀以前)、仁徳(第十六代ー六世 紀)孝徳(第三十六代ー七世紀)、称徳(第四十八代ー八世紀)、文徳(第五十五代ー九世紀)、 崇徳(第七十五代ー十二世紀)、安徳(第八十一代ー十二世紀)、順徳(第八十四代ー十三世紀) と八名の方がおられますが、崇徳、安徳、順徳のお三人が最もご不幸の時世に在位され、配流や入 水の身になられたわけです。そのためか、順徳天皇以降今上天皇まで、徳の字の天皇はおられない ようです。順徳天皇以降治世の威徳を示されたのは徳川家のみでしょう。
 さて、その生涯は波乱に満ちた不幸な人の歌がどうして落語の本歌になっているのでしょうか。 落語は一目惚れの男女の話ですが、落ちは床屋の鏡を割った職人が、怒っている床屋の親方に向か ってこの歌の「われても末にあわむとぞおもふ」を「割れても末に買はむとぞおもふ」とすり替え たところにあります。もっとも鏡と崇徳院は無関係ではなく、元暦元年(一一八四年)に後白河帝 の勅により、造営された崇徳院の御廟の御正体は鏡となっている(尾崎雅嘉「百人一首一夕話」) とのことです。
 ちなみに百人一首の中で徳の付いた名前の人は、四五番歌歌人謙徳公、八一番歌歌人後徳大寺左 大臣(藤原実定)及び一00番歌歌人順徳院の三名です。崇徳院を落語に流用するくらいなら、後 徳大寺左大臣の方が川柳にも

 「時鳥鳴くつる後にあきれたる後徳大寺の有明の顔」

となっているように、よほど落語的ではないかと思いますし、確かに藤原実定は、なにかと話題の 多いお方(第八十一話参照)であったようですから。もっとも実定の八一番歌は平明で、平成現代 の子供でも理解できる詠み内容ですから、かえって落語の本歌にはしにくいのかもしれません。 その点一00番歌順徳院の歌は背景がいろいろに想像できますから、将来(失礼ですが)落語の 本歌になるかもしれません。

***  百人一首の忘備録  ***
 崇徳院の編集した詞華集から百人一首へは、崇徳院の歌(七七番歌)を含めて五首、すなわち 源重之(四八番歌)、大中臣能宣(四九番歌)、藤原忠通(七六番歌)、伊勢大輔(六一番歌)が 取られていますが、なんと源重之の歌も、「風をいたみ・・・」と「・・・・み」の歌になってい るのです。四八番歌と七七番歌の二首には、共通の語が多く「岩」、「われて」、「砕けて」、 「思ふ」などです。なお、百人一首の中で、他に「・・・み」の用語は天智天皇の「・・・とま をあらみ・・・」があります。

   平成六年七月二十一日

                             

掲載 平成16年5月5日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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