◆ 春 霞 ◆ この歌に絵画的な印象を受けるのは、上句の高砂の「尾上」の「桜」と対照的
に、下句に「外山」の「霞」が詠まれているからでしょう。上句で遠景を描写し、下句で近くの風
景を取り込んでいます。絵画で言えば遠近法を用いて、遠山の桜と近郊の山の春霞とが描かれてい
る構成を思い浮かべます。しかし、この画は、全体がぼんやりと霞んでいる感じで、遠山の桜はは
っきり見えず、白い雲のように見えているはずです。ですから「咲きにけり」(咲いたのだな)と
なっているのです。
一方、画面の手前の「外山」は、霞のような「春のもや」の状態にあり、遠山も霞んでいるよう
に見えるのでしょう。安東次男氏は気象学的に、この歌の情景を次のように解説されていますが、
まさしく当を得た説明でしょう。(安東次男「百人一首」新潮文庫)
『「春の桜狩りは、外山から奥山へ、秋のもみぢ狩りは奥山から外山へ」、ですから、詞書に言
うところの、「うちのおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみはべりけるに、はるかに山
の桜を望むといふ心を詠める」とあるように、都の中にあって洛北あるいは洛東の尾上に桜が咲く
頃には、外山はすでに霞がちな日が続く』
匡房の歌を映画の一シーンで言うなれば、遠山の桜を写してのち、カメラの焦点をずんずん近く
に移してきて、遂に近くの山が霞む状態を捉えていると言ったところでしょうか。このカメラの焦
点の移動と逆の方向に歌を詠んでみましょう。
「高砂の 外山の霞 春を逐い 尾上の花も 散り急ぐかな」
「高砂の 外山に霞 立ちにけり やがて尾上の 花も咲くらむ」
勅撰集に入集している歌の中には、彼が詠んだ桜の歌は余り見当たりませんが、次のように絵画 のキャンバスを宇宙にまで拡げた壮大な構想の歌があります。
「初瀬山雲居に花の咲きぬれば天の川波立つとこそ見れ」(金葉集・巻一・春・五十)
この歌では、近景が雲居で、その背後に初瀬山の桜が流れ、更にその全景を大きな天の川に置き 換えて描写された絵画的和歌になっています。
◆ 高砂の尾上 ◆ 「高砂の尾上の桜」とは、「高砂」も「尾上」も普通名詞と考えて、 「高い山の峯の桜」と解釈されています。ところが、「高砂の・・・」+「尾上の・・・」の語句 は、いろいろに用いられていて、普通名詞の場合もあれば、歌枕としての固有名詞の場合もあります。
(古今集)「かくしつつ世をやつくさん『高砂の尾上』に立てる松ならなくに」
(巻十七・雑上・九0八・読人不知)
(後撰集)「山守は言はば言はなむ『高砂の尾上』の桜折りてかざさむ」
(巻二・春中・五十・素性法師)
(拾遺集)「『高砂の』松に住む鶴冬来れば『尾上』の霜や置きまさるらむ」
(巻四・冬・二三七・清原元輔)
(後拾遺集)「『高砂』と高くないひそ昔聞きし『尾上』の調べまつぞ恋しき」
(巻十九・雑五・一一0七・源相方)
(金葉集)「『高砂の尾上』に立てる鹿の音にことのほかにも濡るる袖かな」
(巻三・秋・二一九・恵慶法師)
◆ 高砂と尾上 ◆ 歌枕としての「高砂」は、播磨国、現在の兵庫県高砂市に当たり、加古
川の河口西部の瀬戸内海に面する地域で、高砂神社にある赤松と黒松の相生の松でも有名なところ
で、世阿弥の能の一つにもなりました。百人一首三四番歌「誰をかも」(藤原興風)の「高砂の松」
はまさしくこの松です。
第二句の「尾上」もまた播磨国、現在の兵庫県加古川市の加古川河口東部の、やはり瀬戸内海に
面する地域で、尾上神社の境内に有る天然記念物の松が有名です。これも赤松と黒松が合着したも
のですから、結局高砂にも尾上にも相生の松があることになります。
平成現代でも高砂や尾上はやはり相生の松として有名であって、桜とは結びつきにくいようです。
加古川口を瀬戸内海に沿って海浜近くを走っている私鉄の山陽電鉄には、「高砂」駅も「尾上の松」
駅もあります。
百人一首では藤原興風が「高砂の松」を、大江匡房が「尾上の桜」を詠んだわけですが、百人一首
のなかで松を詠んだのは、在原行平の十六番歌「立ち別れ」の中の「因幡の山の峰の松」と二首のみ
であるのに対して、桜が詠まれた歌は六首(九、三三、六一、六六、七三、九六番)もあり、中でも
固有名詞的な桜は六一番の奈良の八重桜と六六番の大峰山の桜の二首のみで、他は全て一般的な桜の
花として詠まれています。
「目出度きは 高砂の松 緑濃く 尾上に桜 咲き誇りけり」
「誰もかも 知る人にせむ 高砂の 松と尾上の 桜ぞ友なれ」
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 小菅家 ◆ 大江匡房は、父・大学頭大江成衡、母・文章博士橘孝親の女との間に出生しま
した。まさしく学問の家の秀逸であったわけです。少年の時より天才の誉れ高く、官職では権中納
言・太宰権師・大蔵卿と歴任し、且つ本職の儒家としての才能もまた歌人としての能力も持ち、ま
さしく博学多識の人物であったわけで、言って見れば菅原道真の生まれ変わりのような印象を受け
ます。菅家は九世紀後半(八四五ー九0三年)の人ですから、大江匡房はその二百年後の十一世紀
後半(一0四一ー一一一一年)に「小菅家」としてこの世に再来したことになります。
彼の血筋を辿りますと、曾祖父が和泉式部や小式部内侍の叔父さんに当たる大江匡衡(曾孫
(匡房)が匡の字を、孫(成衡)が衡の字を受け継いだのでしょう)で、その配偶者が百人一首五
九番歌歌人赤染衛門です。匡衡を三代遡りますと、同じく二三番歌歌人大江千里が親戚筋に当たり、
その叔父さん方には、かの在原行平・業平兄弟が並んでいます。親戚には百人一首歌人が七人もいる
ことになります。本当に学問の家筋と言えましょう。 ちなみに、匡房は軍学や有識の方面の学を
究め、源義家に兵法を指南したという才も発揮しています。
大江匡房の本領は漢籍にあり、多くの著作も残しているようです。漢学の大家たることを如何な
く発揮した歌は次の「蝶の夢」の歌でしょうか。大蔵卿匡房として、
ー堀河院御時百首の歌の中に詠めるー
「百とせは花に宿りて過ごしてきこの世は蝶の夢にぞありける」(詞華集・巻十・雑下・三七六)
この歌に言うところの「蝶夢」とは「荘子斎物に、荘子が夢で胡蝶になり、自分と蝶との間の区 別を忘れたという故事から、現実と夢の区別がつかないこと」、さらには「人生の儚さに喩える こと」(新村出「広辞苑」)なのです。まさしく人の一生は、蝶が花の上にひらりと留まってし ばらく羽根を休めて、花の蜜を吸っては一瞬の夢を見ているような状態と同じわずかなかつ儚いも のなのかも知れません。学問は深めれば深めるほど、人としての悩みが増すのでしょうか、諦めが つくのでしょうか。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 「けり」と中切り ◆ この歌の中には、上句の遠景を描写した上で「けり」を付け、下句
で近くの風景を加える技法が採られています。「けり」による中切りのため、歌を詠んだ感じとし
ては、二首を圧縮したような印象を受けます。上句に「けり」を付けた歌は、百人一首の中にもう
一首「中けり」の一対とも言うべき四一番歌「恋すてふ・・・」(壬生忠見)に「けり」がついて
います。
大江匡房の勅撰集に入った歌にも「中けり」の歌が新古今集(巻十七・雑中・一六五四)にあり
ます。
「真木の板も苔むすばかりなりにけり幾代経ぬらむ勢多の唐橋」
又彼の賀歌は第二句で休憩する癖があるようです。
「君が代は曇りもあらじ、三笠山峯の朝日の射さん限りは」(詞華集・巻五・賀・一六二)
「君が代は久かるべし、度会や五十鈴の河の流れ絶えせで」(新古今集・巻七・賀・七三0)
「けり」を付けるのは中付けだけでなく、一首に「けり」を付けている彼の歌も数首勅撰集に 入っています。
「春がすみ立ち隠せども姫小松ひくまの野辺に我は来にけり」(金葉集・巻一・春・二六)
「月影に花見る夜半の浮き雲は風の辛さに劣らざりけり」(金葉集・巻一・春・五四)
「埋木の下は朽つれどいにしへの花のこころは忘れざりけり」(詞華集・巻九・雑上・三四0)
「真菰刈る淀の沢水深かけれど底まで月の影は澄みけり」(新古今集・巻三・夏・二二九)
平成六年十月十五日
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