◆ 湾岸道路 ◆ 平安遷都千二百年目の平成六年四月に、難波津の大阪湾岸沿いに神戸から関西
新空港まで、高架高速自動車専用道路である阪神高速大阪湾岸線が、新空港の開港半年前に全線開
通しました。併せてその沿線では、若干の記念行事も予定されているところです。この高速道路は
景観上、大阪湾という大きな池に沿った堤防のような人工物ですが、高度に発達した大都市の象徴
と見なすか、人を海に寄せ付けない白い巨大な鉄格子と見るか様々です。
今を去ること四十数年前、この高速道路の占める海岸線は、ほとんど全て美しい砂浜であり、松林
であり、夏には海水浴客の人々でにぎわう海水浴場であったわけで、さらには、この紀伊の歌に詠
み込まれた高師浜の当時は美しい白砂青松の浜辺だったのでしょう。
当時大阪湾岸沿いに、大阪港以南の海岸での海水浴場としては、北から大浜、浜寺、高師浜、助松、
二色の浜などが並んでいました。それが昭和三十年代の後半から、日本経済の高度成長と共に重工業
地帯として埋め立てられ、海水浴場は北から順次消えてゆき、南へ南へと逐いやられ、ついには大阪
湾岸では名のある海水浴場は消え、人々は和泉山脈を越えて和歌山の地まで行くか、あるいは丹波高
原を越えて丹後の海まで出かけなければなりません。気軽にちょっと海水浴へというわけに行かな
くなりました。
これは何も二十世紀後半に始まった現象ではなく、もっと時代を遡り、万葉期の難波津周辺すな
わち、高師浜、大浜から更に北上して、住吉神社の住之江、葦やみをつくしの難波江や難波潟も同
じ事情であるわけです。当時の風景を思い浮かべてみますと、美しい白砂青松の風景や海に沈む夕
日の景色があったわけで、それらは千三百年の間に全て奪い去られてしまったのです。これから千
年後の大阪湾の風景はどう変わっていくのでしょうか。
◆ 高師浜 ◆ 現在の地図で高師の浜(高石市)を見ますと、高師浜町や高師浜丁の町名が、 羽衣や浜寺という遠い昔を思わせる町名とともに残っています。その高師浜に立ってみますと、松林 の代りに工場の煙突が、あるいは海の波立ちのような工場の屋根波が見え、正しく「あだ波」ならぬ 「あだ」な景色になっています。
「音に聞く 高師浜の あだ波は あたら甍の 波とこそなれ」
これから高師浜の周辺はどうなっていくのでしょうか。多分、住吉神社や大鳥神社はいささか
なりともその形跡を残しているでしょうが、埋立てによる海岸は遥か沖合へ遠のき、昔の海岸線は
記念碑にのみ知るところとなり、記念海浜公園は、高層建築物の中に囲まれて窒息しそうになって
いるのでしょうか。和歌と和歌を詠む人の心情は変ることがないのに、生活の場がどんどん変化し
てしまうという典型的な現代日本の変貌です。
高師の浜の周辺には、歴史を偲ぶ旧跡があちこちに探し出せます。
まず、東南方向の丘陵地は葛の名所である信太山で、未だ自衛隊の演習場や溜め池群が残り、か
っての「信太の森」を思わせる風景もごく一部に残っているようですが、北側からは広範囲に、住
宅開発による市街地化の波が、東側からは高速道路(近畿自動車道)の開通による自動車の波が
押し寄せてきて、昔の面影が消えつつあるようです。わずかにかの有名な狐の信太の歌からの町名
「葛の葉」が細々と残っているようです。
「恋ひしくば訪ね来てみよ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」(浄瑠璃「芦屋道満大内鏡」)
その葛の葉町内には葛葉稲荷神社があり、狐妻の信太を偲んでいるようです。
◆ 仁徳陵 ◆ 次いで、東北方向には大鳥神社があり、住之江の住吉大社のように毎年初詣に
賑わう場所になっています。更にその東北方向には、仁徳天皇陵のこんもりんとした森があります。
堺の街は仁徳天皇陵のできたずっと後の世の十五世紀に、外国貿易のよって港として発達した街で
す。既に縄文期や弥生期の遺跡も近辺に発見されている地ですが、堺は仁徳陵を拠り所に、何時と
はなしに集合してできた村落から、街や都市へと発展してきたのではないかと思います。
では、どうして、仁徳天皇陵がこの地に置かれたのか、何かの理由があってのことと思いますが、
造営された当時の難波津沖からの風景を思い浮かべてみますと、何か分かるような気がします。北に
四天王寺の五重塔が、南にはこの壮大な仁徳陵がある景観が考えられ、当時外国から大和の国を訪
れた人々は、まず、沖合からこの巨大な墳墓群(他に五陵ほど集中しています)を見せられること
になるのです。
この景観の時代から千二百年後の平成六年九月には、平安朝以前は外国からのお客さんが海から
入国したのに対して、平成時代には空からのお客さんを、寝るまもなく、それこそ四六時中受け入
れる空港を完成させ、その海辺には記念碑的な高層建造物を建立しようとしています。四天王寺が
千年以上の風雪に耐えて生きながらえてきたように、この平成の人々による人工物が後世の、願わ
くは千年後の人々への遺産になればと思うところです。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ あだ波と袖の濡れ ◆ さて、この歌の一口言葉とは「あだ波」と「袖の濡れ」というこ
とになるでしょう。 掛詞としての「あだ波」は、五五番歌(藤原公任)で使われている「滝の音」
が一本調子であるのに対して、「あだ波」の音は、波の寄せては返す音が如何にも押したり引い
たりの心の惑いに調子を付けているような響きに聞こえてきます。
「袖の濡れ」の場合、百人一首では「袖」を使った歌が六首有り、そのうち本歌と九十番歌が海
水や波に「袖」の「濡れ」ることを言っています。泣く涙で袖が濡れるという平安朝の人々独特の、
やや大げさな表現になっていますが、現代平成の人々はどのような用具を使い、どのように表現
することになるでしょうか。普段着物を着る習慣がほとんどなく、洋服では袖もありませんから、
涙を拭うものは「ハンカチ」という外来の身廻り品に変化したわけです。従って、人と別れる
ときも「袖を振る」代わりに、「ハンカチを振る」となるのです。例えば、
「春日野の若菜つみにや白妙の袖振りはへて人の行くらん」
(古今集・巻一・春上・二二・紀貫之)
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
(万葉集・巻第一・二十・額田王)
等の歌において、袖の代りにハンカチではやや風情に欠けますね。
*** 言葉の世界への散歩 ***
<掛詞と縁語> この歌に使われている語句にはお互いに縁のあるものが意図的に使われ、かつ
掛詞になっているようです。
(縁語)音に連なるもの:「聞く」「高し」「波」→「うわさ」「(波の)音」
(掛詞)高に連なるもの:「(音が)高し」「高師浜」
(縁語)浜に連なるもの:「波」「(かけじ)」
(縁語)仇に連なるもの:「あだ波」「かけじ」
(縁語)あだ波に連なるもの:「かけじ」「袖」「濡れ」
(掛詞)あだ波に含まれるもの:「あだ」「あだな」「あだなみ」
すなわち、第一句から第五句まで、言葉をどんどん懸けていくと共に、縁語を引き出していくと
いった調子の詠みの流れになっています。
この歌の出だしの「音」は第一句から第三句までの上句の全体の素地に当たる用語と言え、上述
のように音→聞く→高し→波→かけ→濡れとつながっていきます。
百人一首で「音」は三首(五五番、六二番、七二番)で使われていますが、この歌と同じ「噂」の
意味と、物理的な「音」の意味の掛詞として使われているのは、五五番歌の「滝の音」です。いず
れの歌でも共通して使用されている語句は、「音」と「聞く」の二語です。敢えて加えるとすれ
ば「濡れ」、「こそ」さらには「れ」止め(けれとすれ)になります。
元々「音」の意味は、物音(音も無し)、声(音高し)、便り(音もせず)、噂(音に聞く)な
どで使われ、六二番歌の音(ね)となると、泣くことや泣き声のように具体的になります。同じ漢
字「音」でも「おと」と「ね」と読み分け、意味を使い分けるという典型的な和漢言語の特徴と言
えます。
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