平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 69 歌   作意と作為 (能因法師)
嵐吹く三室の山のもみぢばは龍田の川の錦なりけり

◆ 龍田川 ◆  この歌の出典である後拾遺集(巻第五・秋下・三六六番歌)の詞書きに依り ますと、「永承四年(一0四九年)内裏歌合わせに詠める」となっているいわゆる題詠歌(紅葉題) すなわち、実景を見て詠んだ歌ではなく、想像の風景あるいは屏風絵を見て作歌したものであると いうことが分かります。この歌と同じ「龍田川」と「紅葉」を詠んだ百人一首の中の歌は十七番 歌「ちはやぶる」(在原業平)で、この歌も古今集の詞書きに依りますと、屏風絵の題詠歌です。  後拾遺集の秋歌の中で、紅葉の歌群に「三室の山」、「龍田の川」及び「錦」を詠んでいるのは、 能因法師一人しかいないという事を考えますと、永承四年から約百五十年前完成した古今和歌集で は、在原業平の歌に見られるように、紅葉に関する「三室の山」、「龍田の川」、「錦」それに 「神奈備の山」などは常用歌語のようになっていて、能因法師の時代には既に龍田川の紅葉は陳腐 な物になっていたと考えられます。
 古今集の秋歌(巻五・秋歌下)にその例を見ますと、次のように二または三語を一組にして用い ています。

 「龍田川もみぢ乱れて流るめりわたらば錦中や絶えなむ」(二八三番歌・読み人知らず)
 「龍田川もみぢば流る神奈備の三室の山に時雨降るらし」(二八四番歌・読み人知らず)
 「神奈備の三室の山を秋行けば錦断ち切る心地こそすれ」(二九六番歌・壬生忠岑)
 「神奈備の山を過ぎ行く秋なれば龍田川にぞぬさは手向くる」(三00番歌・清原深養父)

 能因法師の歌はこれらの先輩の歌に「嵐吹く」を加えただけではないかと悪口が言えますし、彼の 歌に「嵐吹く」を取って「神奈備の」を加えれば、もっと歌の作意が見え見えの龍田川・もみぢ用 語集のような歌に「本歌取り?」出来ます。
 「神奈備の 三室の山の 紅葉ばは 龍田の川に 錦織なす」

◆ 三室の山 ◆   万葉集では、柿本人麻呂の紅葉の歌に飛鳥川と葛城山が詠まれています。 又巻十・秋・雑歌・黄葉を詠める四十一首には、龍田山に加えて、春日山、二上山、射駒山などが 詠み込まれています。

 「飛鳥川もみぢばながる葛城の山の秋風吹きぞしくらん」(新古今集・巻五・秋下・五四一)

 古今集時代の紅葉の名所は、神奈備の三室の山であり、龍田川であったようですが、後拾遺集・ 巻第五・秋下に見られる紅葉の場所は、「宇治」や「大堰川」などになっています。更に時代が 下って、藤原定家の新古今集時代では、つぎのようになっています。

 「神奈備の三室の山の葛かづら裏ふきかへす秋はきにけり」(巻四・秋上・二八五・中納言家持)

 三室の山は「葛かずら」の秋として詠まれており、必ずしも紅葉と関係づけて詠まれていません。

 「龍田山夜半に嵐の松吹けば雲にはうとき峯の月影」(巻四・秋上・四一二・左衛門督通光)
 「龍田山梢まばらになるままに深くも鹿のそよぐなるかな」(巻四・秋上・四五一・俊恵法師)
 「神奈備の三室の梢いかならむなべての山も時雨する頃」(巻四・秋上・五二五・八条院高倉)

 紅葉の名所も時代とともに移ってゆき、紅葉を鑑賞する人の審美眼も少しづつ広がって紅葉だけに 固定されない秋の美を求めるとともに、歌の対象も変化してきた為、龍田の紅葉も平成現代から見 れば伝説の名所のようになってしまったわけです。
 新古今集の秋歌には紅葉はあまり詠まれておらず、風、露、荻、萩、女郎花、七夕、夕暮れ、月、 鹿などに秋を求めているようです。ちなみに藤原定家の教え子の源実朝は、金槐集で、能因法師と 同じ、「三室の山」、「紅葉」、「龍田川」、「錦」の四語を用いて、次のように詠っています。

 「三室山紅葉散るらし神奈月龍田の川に錦織かく」(金槐集・巻之上・冬部・三一九)

◆ 数奇者 ◆   能因法師は歌集「能因法師集」に約二百五十首の歌を、勅撰和歌集には六五 首が撰歌されている歌人ですが、百人一首に取られた「龍田川紅葉用語集」的作偽の歌よりも有名 な作偽の歌は、同じ後拾遺集・巻第九・羇旅・五一八番及び五一九番歌としての次の歌です。
ー陸奥にまかり下りけるに白川の関にて読み侍りけるー

 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」

 ー出羽のくににまかりてきさがたといふ所にて詠めるー

 「世の中はかくても経けりきさがたの海士の苫屋を我が宿にして」

 正しく旅の歌人というような印象を与えます。
 前者の歌に関する挿話が「百人一首一夕話」に載せられていますが、それに依りますと、「能因 法師は、好き者(数奇者)」のため、ふと詠んだ白河の関の歌がよく出来たと思ったため、「我が 身都にありながら」「人にも知られず久しく籠もりて、顔の色を黒くせんとて日ごとに日に当たり なしてのち、陸奥へ修行に出でて詠み」ましたと言う口上付で、「人に披露せられけり」と言うこ とです。自分の歌の作意を真に迫った者に作偽するために、手の込んだ数奇ごとを敢えて行うとこ ろが能因法師の「癖」であったようです。
 能因法師の作偽に似たことは、平成の現代でも時々、且つ所々に見受けられる手口であるよう です。すなわち現代犯罪用語に言う「アリバイ(aliーbi)工作」という聞き慣れた外来語 (元ラテン語で「他の所に」という意味)で、日本語に作意すると「現場不在証明」(新村出・広 辞苑による)と言うことになるそうです。
能因法師の場合、都の居宅を留守にした理由を「陸奥への旅に出ていたのですよ」と言って日焼 けした真っ黒な顔の工作をしたわけです。概してアリバイ工作とは、いずれ暴かれて(ばれて)し まうのが落ちのようです。
 能因法師は、その工作によって作偽が作意として成立したのかどうか不明ですが、家の庭で作った 日焼けの顔は、日向を歩いて自然にあらゆる角度から万遍なく焼けた顔と違い、どうしても一方向 からの日の光による焼けですから、手首や背筋は真っ白いままで、一見して意図的に焼いたと分か ってしまうものです。平成現代では、室内でも日焼けの顔は作れますし、京都に居ながらにして行 って来たような顔をして陸奥の土産物を買って人に渡せます。時代とともにアリバイの手口も込み 入ったものになっています。いやはや能因法師の作意は優れていても作偽が甚だ幼稚なように思え る挿話です。

***  百人一首の百人家族  ***
◆ 古曽部の法師 ◆  長門守橘元K (たちばなもとやす)の子として、永延二年(九八八年) 生まれた橘永Kは二五歳頃出家して法名を融因、後に能因と称して、摂津の古曽部(現在の大阪府 高槻市古曽部町)の里に住み着いたため、古曽部入道とも言われたようです。現在、能因法師が住 まいしたと思われる所(当時は伊勢寺の境内であった松林庵)には、墓所「能因塚」や「文塚」が 遺跡として名残りを留めており、僅かに隠者のわび住まいの里を偲ばせる所になっております。
 墳墓正面の顕彰碑は法師の死後約六百年経った江戸時代の慶安三年(一六五0年)高槻城主永井 直清が建てたもので、墳墓裏手の文塚碑は嘉永二年(一八四九年)建立で、いずれも比較的近代の ものばかりです。能因法師がどうして津の国の古曽部の里に庵を持ったのかは、敷島の道への思い 入れからだと言われており、彼の生存した約百年前、名をなした百人一首十九番作者伊勢の里を慕 っていたためと言われています。
 彼の歌の先生は藤原長能で、歌合せの歌会にも頻繁に顔を出し、公任、道済ほか多くの歌人と親交 を持ち、私撰集「玄玄集」を撰し、さらには「能因歌枕」という歌語辞典まで編集するほど和歌には 力を入れ、人には「すきたまへ。すきぬれば秀歌は詠む」と語ったと伝えられています。(久保田 淳編・古典和歌必携・学灯社)。前に紹介した挿話も、彼は秀歌を作りたいために、あらゆる努力 をしたという例え話かも知れません。
 現在の伊勢寺、文塚、能因法師墳は住宅街に取り囲まれて、鄙びた隠者の里の景色はなくなって いますが、南隣の小丘の上にある菅原道真公縁りの上宮天満宮とともに、淀川右岸の北摂平野に張 り出した小高い丘陵地帯の一画をなして、さぞかし千年前の能因の庵は、彼の二百年後、後鳥羽院 が水無瀬離宮を造ったように、美しい淀川沿いの風景を目前に望めたものと思われます。

***  百人一首の忘備録  ***
  後拾遺集以降の勅撰集に撰歌されている能因法師の歌の詞書には、「津の国」が頻りに出てき ています。

*後拾遺集・巻一・春上・四三番歌
 ー正月ばかりに津の国に侍りけること、人の許にいひつかはしけるー
 「心あらん人に見せばや津の国の難波渡りの春の景色を」

*後拾遺集・巻三・夏・一六七番歌
 ー津の国の古曽部といふ所にて詠めるー
 「我が宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりぬる」

*詞華集・巻九・雑三三二番歌
 ー津の国に古曽部といふ所に隠りて前大納言公任がもとへつかはしけるー
 「ひたぶるに山田もる身となりぬれば我のみ人をおどろかすかな」

*新古今集・巻五・秋下・五四七番歌
 ー津の国に侍りける頃、道済がもとにつかはしけるー
 「夏草のかりそめにとて来しかども難波の浦に秋ぞ暮れぬる」

                                能因法師の勅撰集に採り上げられた最初の歌は、前述の後拾遺集・巻一・春・四十三番歌の 「心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を」で、如何に津の国が気にいってい たかが分かります。 この歌に影響されて西行法師は次の歌を詠みました。

 「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯れ葉に風渡るなり」(新古今集・巻六・冬・六二五)

 能因法師が詠み込んだ津の国の世界を拾ってみましょう。
 (一)難波の浦(新古今集・巻五・秋下・五四七:能因集・上・四十八、能因集・中・一三九、
        千載集・巻八・奇旅・五0五:能因集・下・一七四)
 (二)生駒の山(後拾遺集・巻三・夏・一六七:能因集・中・八十五)
 (三)芦の屋の古屋(後拾遺集・巻七・賀・五0七:能因集・中・一三四)
 (四)住之江(能因集・上・十五、中・八十六)
 (五)交野(能因集・上・二十九)
 (六)生田の杜(能因集・上・四十六)
 (七)水無瀬川(能因集・上・五十六)
 (八)猪名野なか道(能因集・中・一三六)
 (九)難波潟(能因集・中・一五五)
 (十)えなつの海(能因集・下・一六九)
(十一)二上山(能因集・下・一九五)
(十二)ふけいの浦(能因集・下・二0一)
(十三)難波江、難波堀江(能因集・上・三十二および三十三)(上・六十二、下・一七0)
    この二首は対になっていて、能因集に依りますと次のような歌のやり取りです。
   ー(大江)嘉言、対馬になりて下るとて、津の国のほどよりかく言ひをこせたり

   「命あらば今かへりこむ津の国の難波堀江の葦の裏葉に」(能因集・三二)

    この歌の返しに、能因法師は次のように詠みました。

   「難波江の葦の裏葉も今よりはただ住吉の松としらなん」(能因集・三三)

    ところが当の大江嘉言はなくなって難波に戻れなくなったと聞き、次のように詠みました。

   「あはれ人今日の命を知らませば難波の葦に契らざらまし」 
        (新古今集・巻八・哀傷・八二三:能因集・上・三十六)

(十四)長柄の橋(能因集・上・十六、下・一九九)長柄の浦(能因集・下・二三七)
長柄の橋と能因法師については、尾崎嘉雅の「百人一首一夕話」の中に次のような逸話が紹
    介されています。
ー帯刀藤原節信と言ふものあり好事の人にて有りけるが、ある時能因に逢ひて相互に心の合ひ
    ければよろこぶこと甚だし。能因節信にむかひて、初めて見参いたしたる引出物に見せ奉る
    ものはべりとて、懐より錦の小袋を探りいでたり。その中に鉋屑一筋有りけるを見せて曰く、
    これは長柄の橋を造りし時の鉋屑なり、我これを宝の如く愛すること久し、今日君が為に取
    りいでたりー
    と言う話になっています。津の国ついては単に景物だけでなく、こういう面でも好奇の心を
    抱いていたことの喩え話としての逸話ではないかと思います。いずれにしても正しく「津の
    国の世界」に生きた能因法師であったようです。

     平成六年九月四日


掲載 平成16年5月3日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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