平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 68 歌   煩ひと浮き世 (三条院)
心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな

◆ 心にもあらぬ事態 ◆ 自分の身辺近くに死亡率の高い血管系統の病気に罹ったり、癌などの 不治の病で亡くなったり、はたまた交通事故などの不慮の事故による死傷の話が出てくると、つい つい「明日は我が身」と思わざるを得ないのは誰しもでしょう。人間はいずれあの世へと旅立つこ とは確実で、これには例外は何兆分の一もない事実であります。遅いか早いか又どこでどのように この世に別れを告げるかに差があるだけで、まさしく人様々多種多様であるわけです。
 親しき人が癌の手術を受けるという事態になって、改めて近年の癌という病気に対する戦いのす さまじさを感じ、撲滅への努力とその成果に期待せざるを得なくなります。当の本人にしてみれば 「こころにもあら」ぬ事態であるわけで、癌と知れば「憂き世にながら経」ている実感をひしひし と感じることでしょう。三条院も今日の瞬間を生きているという実感を月の美しさに結びつけよう としているのです。 癌の告知を受けた人は、その瞬間からほぼ全ての人が「人の命の尊さといと おしさ」を知り、一刻一刻を有意義なものにし、充実した又自分に納得のいく時間の過ごし方をす ると言われ又書いている人も見かけます。

◆ 病気と不慮の死 ◆  健康な人が健康に感謝し、毎日毎日充実した生活を送っているかとい えばほとんどがその反対でしょう。まず健康であることが、金や地位など問題にならない財産で あり、自慢出来る点であるのに、人は健康を無視しがちです。山上憶良流に人生の何たるかを見 直す必要がありますね。

 「金や銀 地位や名誉は 何せんに 優れる宝 恙なきこと」

 万葉の時代から平成の世まで、人は真に大切な物を見ようとしない悪い癖が、千年経っても直っ ておらず、千年後の人々も同じ様なことを言っているでしょう。その頃は薬と医術に支えられた長 老人類がうようよしていて、身体の自由が不十分なことにもかかわらず、金や銀、地位や名誉への 気持ちだけ一人前に持ち続けているという困った状態ではないでしょうか。
 物理的な身体の病を治す前に精神的な「患い」を矯正する医術が必要なくらいです。これは容易 なことではないでしょう。

◆ 三条院の背景 ◆  百人一首に選ばれた八人の天皇の内、天智天皇、持統天皇以外は何か と不遇の立場に置かれた方が多いようです。三条院は目を患っておられたということですから、 ただでさえ気持ちが晴れず、物憂い日常生活の状態へもってきて、天皇としての地位も不遇を 極め、その上、御在位五年の間には、色々不吉な出来事が続いた事など、誠にお気の毒の一言に 尽きます。皇女当子内親王と藤原道雅の許されぬ恋の事件も父親としての悩みに加えさせられま した。「心にもあら」ぬ「憂き世」から眺める「月」を恋い、出来れば「憂き世」を脱して「月」 に移ってしまいたいと思われていたのではないでしょうか。三条院は目は患っておられたでしょ うが、心眼は患っておられなかったのです。
 概してこの世の中の人は時代を問わず、平安朝の人でも平成の現代人でも「心ここにありて、 この世に永らえている」と言える人は、一体何人いるのでしょうか。古くは皇位を軽るんじた 弓削道鏡、この歌の三条院を苦しめた藤原道長、おごる平家の棟梁平清盛、近くは戦国の世を 統一した織田信長や豊臣秀吉などは「この世は我が世」の意気込みで生き抜いたことでしょうが、 一時たりとも「心にもあらで」「ながらへ」ていると感じたことがないと言えば嘘になりましょう。
 人は物心ついた頃から、「心にもあら」ぬ事の多いこの世は「憂き世」であると感じるよう になり、反対に心に叶う物を願い、追い求めるようになるものです。そのうち「心にもあらで」 「ながらへ」る事がこの世に生きているという事実の証であるという諦観を自分に言い聞かせら れるようになり、ようやく自分なりに納得した頃には「憂き世」に別れを告げさせられて、 「あの世」へ移住させられるというわけです。逆に「心にもあらで」「ながらへ」ることに納 得しない間は、この世に居らせてもらえるものの、心に叶う物を追い続け、内心との葛藤に戦い 続けていなければなりません。
 誠に人間は何時の時代に生きても、心の安まる時はなく、どこに生きていても心の安まる所が ない悲しい定めに縛られている生き物であるわけです。三条天皇は、そのお立場で、その時代に あれこれと悩まれたと同じく、千年後の平成の一庶民といえども、その人の環境において、その 時代の中でいろいろな悩みと戦い、「ながらへ」て居ると言えます。

***  百人一首の忘備録  ***
◆ 心にもあらで ◆  第一句と第二句の「心にも」「あらで」とは、平易な歌語であるため 平成の人々にも誠に分かり易いピンと来る用語です。
 この語句を受ける第三句の「ながらへば」を用いた歌は、百人一首の中では他に二首有り、八四 番歌と八九番歌です。八四番歌は、この三条院の「ながらへば」の尻取りをしたような歌で、 「ながらへば」、「憂き(し)世」、「恋し」などの語が共通している上に内容も似通った ものになっています。この三語を使い込んでみますと次のような歌になります。

 「心にも あらでかひなく ながらへば かの世の夜半の 月ぞ恋しき」

 正しくは次のような歌になります。

 「かくばかり憂き世の中の思い出に見よとも澄める夜半の月かな」
                     (千載集・巻十六・雑上・九八七・久我内大臣)

◆ 夜半の月 ◆   第五句が「夜半の月かな」と括っている歌は、五七番歌「巡りあひて」 (紫式部)で、夜半の月を巡ってみますと、

 「心して それと見ぬ間に 雲隠れ 巡りあひたき 夜半の月かな」

 三条院は詞華集(巻第三・秋・九五)にただ一首撰歌されて同じように月を詠っています。

 「秋に又逢はん逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだにみん」

 月を恋しく思われるとともに、山人も恋しく思われた一つでしょう。

 「忘られず思ひ出でつつ山人をしかぞ恋しく我も眺むる」(後拾遺集・巻十七・雑三・一0三四)

◆ ながらへば ◆  六八番、八四番、八九番ともに同じ「ながらへば」という語句を用い、且 ついずれも「ながらへ」た結果は良くないことを暗に詠っています。
 この六八番歌では「心にもあらで」「ながらへ」ているわけですから、何時亡くなるかも予測でき ません。今眺めている月も「恋しかるべき」すなわち恋しく思うようになるでしょう、すなわち、 もはや今眺めているこの月は、これ限りで、見られなくなる(眼病のために)でしょう、従って よけい今眺めている月をよく見ておきたいという気持ちになるわけです。
 八四番歌でも、やはり「憂き世」のこと故、「ながらへ」ても今以上良き世に逢えるとは言い 得ない。今から昔を思うとき、やはり憂き世とはいえ、今よりよかったと「偲ばれ」るから、今の 時も後になって良かったと「偲ばれ」る事になるでしょうと見ています。
 八九番歌では、もはや「ながらへば」、「しのぶ」事も限度は過ぎて「弱りも」してくると言っ ています。

    【百人一首の談話室】 「憂し」
 「憂きもの」として、三十番歌では「有明の別れ」、六十八番歌と八十四番歌では「世」、七十 四番と八十二番では「人」になっています。百人一首の人々にとっては、思う人との別れであり、 世間であったわけですが、「憂きもの」はそればかりではなかったと思われます。殊勝にも何とか 浮き世を恋しかるべきものに見たい気持ちも分からないではありません。時代と共に憂きものは変 りこそすれ、数は少しも減ることはなく、むしろ物心就いた頃から、既に「憂きもの」は人の身に まとわりつき、この世に別れを告げる時まで、内容を変え重さを加え、両肩に又心にのしかかって きます。
 確かに平成現代でも世間や他人はうっとうしいものですが、それ以上に家族制度と家庭生活 (核家族と高齢化社会)、職業選択とサラリーマン社会(学歴社会と出世主義)健康と医療制度 (癌死亡と安楽死)あるいは貨幣による階級社会の中では憂き物ばかりです。
 普通のサラリーマンにとって結果的に憂き物は賭事、女、酒などとも言われますが、むしろこれ らは憂き物に対する回避の道になっているものです。喜撰法師のように「世の中はうぢ山という 都の辰巳方向の庵にしかと棲んで憂き物はありません」と楽々と隠遁生活に入るのも一つの手で すが、現代ほど一人で生活出来ない時世はないでしょう。いわゆる世間の柵があちこちに立ちは だかってその人の自由を拘束する結果、心は金縛りにあってしまうのです。
 その時代時代に憂きものを何とか乗り越えようとしてきた人の儚い努力は尽きることはなく、 人類が続く限り続けられることでしょう。

平成六年六月十九日


掲載 平成16年5月2日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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