◆ 渋い大家 ◆ 藤原定頼は、かの平安中期に於ける歌学の大家藤原公任の息子として生まれ
たため、彼に和歌の才能があって当然と見られます。いたずらっぽいところもあったと見えて、逸
話に依れば、六十番歌歌人小式部内侍をからかい、「大江山」の歌を生み出させる結果になった人
物と言うことになっています。 お父さんが綺羅星の如き平安朝才媛群の真っ直中(五三番歌から
六二番歌までは女流歌人の艶歌が続いている)に、男性ではただ一人で頑張っています。歌は男女
間の艶色を帯びた内容のものでなく、旧蹟の滝を詠ったものであることに見習って、息子の定頼も
恋歌ではなく墨絵を画いているような歌を作りました。「あさぼらけ」「川霧」「絶え絶え」など
と思い浮かべてみますと、まさしく墨絵を見ているような印象を受けます。
詠い出しの第一句で墨絵としての全画面を構成する基調色を示していると見られます。色は灰色で
上空の方が白に近く、画面下部は白よりむしろ黒色に近いものです。
「朝ぼらけ」の歌い出しには百人一首でもう一首、三一番坂上是則の歌があり、「宇治の川霧」
に対して「吉野の白雪」を詠っています。「朝ぼらけ」とは「曙」のことで、夜がほのぼのと明け
てくる頃ですから、この明るさでは未だ日の光による風景の輪郭ははっきりとはせず、どことなく
物がぼやけて重なって見える状態を言うのでしょう。
第二句ではその墨絵に二重にぼやかしを与える物として霧を画き、第三句でその状態を示してい
ます。すなわち、下の川面から上空に向けて淡い白色の霧が、一様に漂う様でも全面を覆うでも
なく、ところどころ切れかけた状態で懸かっています。
百人一首の中で、このように墨絵を見るような印象を受ける歌は、他に二八番歌(山里の冬)、
八七番歌(村雨の露)、九四番歌(み吉野の山の秋風)等がありますが、さしずめ八七番歌がこの
定頼の歌に匹敵する墨絵の歌と言えましょう。両方の歌に共通の用語を見ますと、まず「霧」を
詠い込んでいるところで、霧に薄れている風景はやはり墨絵のようになるのです。それに加えて
「網代木」に対する「真木」の「木」も墨絵には欠かせない物です。
一方、対比される言葉としては、「朝ぼらけ」に対する「秋の夕暮れ」であり、「現れ渡る」に
対する「立ち上る」でしょうか。「朝ぼらけ」「宇治」「川霧」「網代木」等の用語は全て墨絵の要素になっています。
さて第五句でこの墨絵の主体物である網代木を、「あらわれわたる」と描き込んでいます。宇治
河の辺にて詠んだ歌として有名なものに柿本人麻呂の、「近江の国より上り来たりしとき」の一首
として次の歌があります。
「もののふの八十宇治川の網代木にいさようふ波の行方知らずも」(万葉集・巻三・二六四)
宇治の網代木はこのように昔から歌に詠まれていたようです。
◆ 宇治の世界(その一)・宇治の地理 ◆ 現在の宇治は地区の一部に名所旧跡を残し、他は
市街地に移り変わろうとしています。つい最近まであった巨椋池が干拓地となり、池が農地となり、
農地が人の居住地になり、道路が伸び、高速道路が名所旧跡を分断し、都市化しようとする時代で
すから、五十年や百年の都市計画を考える前に、千年、二千年の長さで民族の文明の伝承体制を整
えておく必要があります。
巨椋池の東岸宇治の地には、氏族社会時代には宇治氏が勢力を張っており、その後桓武天皇が平
城京から七八四年に遷都した十年間のみの都長岡京は、ちょうど西岸にあたります。その桓武天皇
は巨椋池の北岸桃山陵に埋葬されて、京の都の南口を見守っておられます。
◆ 宇治の世界(その二)・古典の世界 ◆ 宇治の世界とは、少なくとも古今集時代は八番歌
(喜撰法師)にあるように僧侶の隠棲の地であったものが、平安中期貴族にとっては別荘地であり
遊楽地であったことにより、文学の世界の「源氏物語」と大いに関係が出てきました。
「源氏物語」五十四帖は前半(桐壺の巻から雲隠れの巻)が都内の貴族社会に於ける光源氏の生
涯を、後半(匂宮の巻から夢の浮橋の巻)は都を離れた宇治の地の草庵におけるその子薫や匂宮の
生活を描いており、宇治が現実の世界以上にロマンの世界として浮かび上がりました。
西暦一000年頃、「源氏物語」が貴族社会に出されて、その「宇治十帖」に描かれた宇治の地
が貴族社会の中では噂の地になり、当時の貴族は、今で言うロマンを感じ、我も我もと別荘地にさ
せていったのではないでしょうか。明治以降、軽井沢や湘南海岸などが別荘地になったのも「現代
の宇治」に当たるのではないでしょうか。
◆ 宇治の世界(その三)・宗教の世界 ◆ この現世における極楽浄土を再現するための
「平等院」は、今から九百四十年前(一0五三年)、関白藤原道長の子頼通が、末法思想の浄土
信仰に基づき、構築したものですが、今に至るまで鳳凰堂は美しい平安建築を伝え、十円銅貨と
化けて平成の世界の公衆電話代として支えていますから、別の意味で平成の世に情報の極楽浄土を
作ったとも言えます。頼通さんも満足しているのではないでしょうか。
◆ 宇治の世界(その四)・茶 ◆ 黄檗禅宗の本山万福寺は、隠元禅師の開創になり、長らく
中国僧によって法灯が守られてきたとされています。お茶と禅宗は切り離せません。今から七七0
年前(一二二0年)栄西禅師が中国宋から持ち帰ったお茶を、京都栂尾に植えたのですが、後に宇
治に分栽されたもので、江戸時代に大名並に江戸へお茶壺道中されるに到っています。
この宇治の地がなぜ茶の栽培に適していたのでしょうか。道長、頼通、定頼らは浄土思想は知っ
ていても、お茶の味は知らずじまいだったわけです。
お茶はますます日本人の文化の代名詞のようになっており、近代になって紅茶やコーヒーは広が
っても、お茶は捨てず、それらをも併せ飲むという日本人の混成文化の代表例となっています。従
って千年後も、日本人の中ではお茶は消えることなく、日常の必需品として長らえていくことで
しょう。
◆ 宇治の世界(その五)・戦いの世界 ◆ 平安朝の栄華を極めた藤原道長や頼道の時代
(十一世紀前半)からちょうど百年後、仏の世界の宇治の平等院に変わって、宇治川が武士の戦場と
化してしまいます。平家物語巻第四の「橋合戦」(以仁王、源頼政の挙兵)や巻第九の「宇治川戦陣」
(源範頼、義経の義仲落とし)は、同物語の中でも一つのクライマックスを構成しています。「源
氏物語」から平成までの約千年間で、宇治が歴史の舞台に出てきたのは、この二つの出来事のみ
です。
◆ 宇治の世界(その六)・観光の世界 ◆ 近江の海(琵琶湖)から瀬田川、南郷洗堰を流れ
下った水流は、宇治川となって宇治平等院の辺を流れる琵琶湖国定公園の一画をなしています。八
番歌と関係ある喜撰山(四一六メートル)を背にした天ケ瀬ダムの下流に現在の宇治川・川中島が
あり、石像美術として有名な十三重塔のある塔の島と中之島が左岸の平等院に対峙しています。
宇治と言えば、極楽浄土の彌勒菩薩様がおいでになる平等院、禅宗万福寺開創隠元禅師の輸入さ
れたお茶と言うことになりますが、いずれも仏教の世界と密接な関係にあります。西国三十三ヶ所
十番札所の三室戸寺も、喜撰山に対峙して宇治橋の北にあります。
第十番 山城国宇治郡 本山修験宗 明星山 三室戸寺 千手観世音のご詠歌に
「夜もすがら月をみむろとわけゆけば宇治の川瀬に立つは白波」
宇治市は観光のキャッチフレーズとして、「源氏物語の里」をあげ、古都奈良・京都の中間点に あって観光客誘致に力を入れると共に、平成八年には宇治橋を掛け替え、周辺整備を行っています。 さらに、平成七年には、宇治平等院が世界文化遺産に指定され、ますます平安朝の歴史の町として、 観光地として名を馳せることになりました。
*** 百人一首の道草 ***
この歌には上の第一句と下の第四句の頭に「あ」を使い、それ以外でも「あ音」及び「あ列音」
が多く、三十一文字中十三文字ですから、約四割強を占めております。
「あさぼらけ うじのかわぎり たえだえに あらわれわたる せぜのあじろぎ」
「あ音」及び「あ列音」というのは、「お音」と同じように、日本人は発音しやすく、耳に聞き 取りやすい音だと思いますが、逆にこれだけあ音が多いと、あ音とあ音の間の他の音は消えてしま って、歌全体がぼやかされたような印象となり、まさしく墨絵の世界を詠い読みとったと言えるの ではないでしょうか。
平成六年五月四日
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