◆ 人づてとマスメデイア ◆ 平成六年六月十八日付産経新聞の一面記事に、二十一世紀に
は光ファイバー網が社会の情報伝達手段として大いに発達し、利用されることになろうと言う予
測が出ています。平成の時代での情報伝達には、多種多様の通信技術が駆使されており、マスメ
ディア(大量情報伝達手段)では、新聞、ラジオ(「電音」と名付ける)、テレビジョン(映画に
対して「電画」と名付ける、中国語では「電視」)、さらには電話(「電声」と名付ける)、電
信、ファクシミリ(「電図」と名付ける)など、声の調子や色彩まで克明に伝達できます。その
上録音、録画による過去の情報の蓄積と再生も可能な、まさしく情報化社会に相応しい各種の手
段が出来上がり今後さらに高精度な情報伝達手段となって更に発展を続けるでしょう。
百人一首の世界でどのような通信方法を使っているかと言いますと、まず「言ふ」という直接
手段ですが、ほとんどが伝えたい内容を伝えていない場合が多いようです。例えば二一番歌(言
ひしばかりに)、四五番歌(言ふべきひと)、五一番歌(えやはいぶき)、などで、いずれも目
的を達成していません。
「人づて」の手段は、十一番歌「わたの原」(小野篁)とこの歌、「文」の手段は、六十番歌
「大江山」(小式部内侍)です。変わったところでは夢を手段として、十八番歌「住之江の」
(藤原敏行)があります。
さてこの歌に言う「人づてならでいふよし」には、ありついたのでしょうか。
大昔は「のろし」が遠隔地の視覚に訴えた通信に使われた時もあります。平安朝当時の人々が、
その意思を伝達する方法は、直接伝えたい人に会って自から伝えるか、誰か代わりに会いに行って
もらう「人づて」か、あるいは「人づて」でない方法としての「文」類や「和歌」類の書き物に依
るしかなかったわけです。
現在では、自から伝達する場合でも、直接会う以外に電話による方法、書き物による場合でも、
葉書、手紙、電報、電信、さらにはファクシミリなど、多種多様になってきました。さらには多く
の人々に同時に大量の情報を伝達するには、ラジオの音声による方法やテレビジョンの画像による
伝達の方法などがあります。伝達の方法は多くありますが、伝えたい情報と伝えたい相手によって
使い分けられているのですが、やはり人間と人間のお互いの意思伝達には、直接当人同志が会って
話をするのが一番なのです。
「人づて」、あるいは何かの情報手段を介しますと、どうしても誤解を含むことになり、僅かの
誤解から伝えたい意志を全く受け取ってもらえない場合も出てくるのです。個人間の意志伝達でさ
えそうですから、集団と集団、社会と社会、さらには國と國との意志疎通はたいへむづかしい問題
になってくるわけです。言って見れば人間の歴史とは、如何に他人や他集団に、あるいは他民族や
他国に自分及び自分らの意志を告げ、理解してもらうかの繰り返しであったと言っても過言ではな
いと思います。
◆ 意志の伝達 ◆ 平成六年六月十八日(土曜日)付け産経新聞の一面記事は、北朝鮮(朝鮮
民主主義人民共和国)の金日成主席へ米国(アメリカ合衆国)カーター元大統領の原子力による核
兵器製造疑惑に関する国際連合を後ろ盾とした制圧と、その反発としての交渉を北朝鮮の首都平城
で行っているというものです。これだけ発達した情報化国際社会にあっても、交渉ということにな
りますと、電話やテレビジョン、まして書簡類ではどうしても処理できないやりとりが必要になり、
直接会って会談するしかないという事を意味しています。
現代国際社会に於ける外交は、会談が主たるまた確かな方法ですから、地球上の國と國の問題は
全て国際連合という大きな集会の場を設けて、直接顔を見ながら相互に意志の伝達と確認を行って
いるのです。千年前の國と國の情報のやりとりも直接人間が会って行なっていました。現在も、又
千年後の人間社会の情報伝達も、やはり直接会談と言うことになるでしょう。
人を理解すること、人を理解させることのむづかしさは、ギリシャやローマの時代も現代も未来
でも変わることはないのです。ところが同時代人の間での意思の伝達は、会うことが最良ですが、
昔の人に会うためにはやはり大半は書き物に記録して残しておく必要があるわけです。現在では映
像も音声も残せるのですが、千年前では唯一書き残すことだけでした。しかもその最良の方法が
「敷島の道」だったのです。
言い残した人も言い残された人も、容易に後世に言いたいことを伝え続けてきたのが和歌の数々
です。この道は大切な情報手段として、千年後にも伝えて行かねばなりません。
◆ 道雅の恋 ◆ さて、道雅の歌は自分の心の問題ですから、これこそ「人づて」でなく、自
分自身で処理しなければならない問題で、それが出来ないいらだたしさ、悲しさをこの歌にこめて
詠っているわけです。五一番歌(藤原実方)は「えやはいぶきのさしも草」と詠んで、自分の思い
を知って欲しいと願ったわけです。
さて第四句に言う「ひとづてならで」言いたい道雅の気持ちは、四三番歌「あひみての」の藤原
敦忠が先に詠っています。
「如何にして斯く思ふてふ事をだに人づてならで君に語らむ」(後撰集・巻十三・恋五・九六二)
又第五句の「よしもがな」と同じ語は二五番歌にもあり、この歌もやはり「人に知られで」直接
逢いたい人に会えないかなあと言うもので、同じ様な目的での「よしもがな」になっています。道
雅の「思ひ絶えなむ」相手は三条天皇(六八番歌「心にも」)の皇女当子内親王で、彼女に対する
「許されざる悲恋」で、勅勘を被っています。
「人づてならでいふよし」もないまま、彼の思いは図らずも和歌という「よし」に乗って千年後
の平成の人々にもひしひしと伝わってきます。彼の歌と詠われた背景にあれこれと想像を膨らませ
かつ、同じ様な「許されぬ悲恋」話を重ね合わせながら、平成の人々も道雅を偲ぶことが出来るの
です。
*** 百人一首の百人家族 ***
左京大夫道雅(正暦四年(九九三)〜天暦二年(一0五四))は、藤原伊周(儀同三司百人一首
第五十四番歌人高階貴子の子息)の子息ですから 関白道隆の孫に当たります。関白道隆側室高階
貴子(〜長徳三年(九九六))は、儀同三司(伊周)、隆家、一条天皇中宮定子を生んでいます。
(第四十五話の「百人一首の百人家族」参照)
この歌の背景になっている当子内親王との許されぬ恋の事件により、三条天皇の勅勘を受ける話
は「栄華物語」に語られています。道雅の幼時の時の様子は、何と百人一首のお隣りの賢女清少納
言「枕草子」に記録されているのです。その第一0四段ー淑景舎(しげいさ)の君、東宮に参られ
ることーの所に、「松君」の幼名で言及されています。清少納言の筆になると次のような人物描写
になります。
「・・・・朝から晩まで冗談めかしていらっしゃるうちに大納言様{伊周)と三位中將(隆家)
が松君を連れてお越しになった。殿様(関白道隆)は待ちかねたようにお抱きになって、お膝の上
にお据えになったのが大変なお可愛らしさ。狭い縁に物々しいご装束の下襲などが広げられる。
・・・・・・松君のかた、ことのお可愛さは誰にも喜ばれた。殿様は、「宮様のお子さまに差し出
してもちょうどいいですな」(中宮定子に皇子が誕生していない)などとおっしゃる。・・・・」
(田中澄江・日本古典文庫十・河出書房新社版)
おじいさまの関白道隆以下「中の関白家」の親族が栄華の絶頂にある様子が述べられています。
この幸せも道隆の死(道雅四歳の時)とともに、儀同三司としての伊周の運命も暗転し、道長との
権力闘争に敗れて、その母を嘆かせています。道雅も父の若死(三十八才)によって運命の追い
落しに拍車を駆けられ、結局当子内親王との不倫の恋に崩れ去っていくのです。 叔母の中宮定子
も一条天皇の崩御(寛弘八年(一0一一年)とともに実権は道長の娘中宮彰子側に移るとともに、
ますますもって道雅の中関白家没落の因を成す道長に対する怨恨のような気持ちが三条天皇の皇女
当子内親王への許されざる恋愛事件となっていったのかもしれません。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ とばかりを ◆ この歌はいわゆる平成現代から見た古語らしい古語の集まりで、言い換
えると、大和言葉を詰め込んでいる歌といえると同時に、非常に平易な言葉でなお平成に生きて
いる言語を使っているため、道雅の言わんとすることが非常に分かり易いわけです。
名詞は「今」「人づて」「よし」の三語で、動詞は「思ひ絶ふ」と「言ふ」の二語で、他は助動
詞、助詞、副詞です。「思ひ絶ふ」という言葉の裏には、それこそ多くの「思ひ」が含まれている
わけです。又「絶え」という用語も百人一首では七首ほどに使われておりますが、絶える主体は全
て違います。それらは、四四番歌(逢ふ)、四六番歌(舵)、五五番歌(音)、六三番歌(思ひ)、
六四番歌(露)、七九番歌(雲)、八九番歌(命)などです。
第三句の「とばかりを」は、百人一首の中で唯一引用を示す格助詞「と」を句頭に用いている例
で、同じく「を」の格助詞と共に「ばかり」の副助詞を挟み込んでいる助詞群のみの句になってい
ます。この類似を百人一首の中に探しますと、五一番歌「かくとだに」(藤原実方)の「かく」
(副詞)「え」(副詞)「さ」(副詞)と、五句中三句も句頭に副詞を使っている例のみです。
その意味で 五一番歌は言葉の上で最高に技巧を凝らした歌と言うことになります。
平成六年六月十八日
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