平成六年は平安遷都から数えて千二百年目になりますが、平安京より更に古い都は平城京(七一0
年遷都)や藤原京(六九四年遷都)で、平安京より更に百年昔、すなわち平成の世からは約千三
百年昔に遡ることになります。この歌はその二つの古都である奈良と京都を詠っています。平安
朝の人でさえ、奈良の都を「いにしへ」とみていたわけで、平成の人々からすれば、更に「遥か
ないにしへ」ということになります。
◆ 大仏殿の音楽会 ◆ 平城京の東大寺において大仏開眼供養が執り行われたのは、天平勝
宝四年(七五二年)で、今を去る一二四0年ほど前になります。
平成六年五月二十日の夜、その東大寺大仏の前で、国際的な音楽祭が催されました。それは国際
的な団体であるユネスコ(国際連合教育科学機関)が主催した「THE ’94 AONIYOSHIー二十
一世紀への音楽遺産を目指して」と題した各種音楽の演奏会で、毎日三時間半に渡り三日連続して
音楽家二百名が競演し、世界四十五カ国に同時衛星中継されました。平成の現在ではこの地球上の
人類は、どの地にあってもテレビジョンの画面を見ながら同時に音楽を楽しむことが出来るように
なりました 奈良の昔では音楽は見ることも蓄えておくことも、遠くへ送ることもできなかったこ
とを思いますと、大変な進歩を成し遂げたわけです。大仏さんはどんな気持ちでこの音楽祭を見て、
聞いておられたのでしょう。確かにお生まれになった七五二年も華やかな舞楽や雅楽が披露された
はずです。当時は五彩色の天幕や流し物の色布類がはためいていたことでしょう。平成の音楽祭で
は、「色彩布」に代わって「色彩光」が、大仏殿や大仏様と音楽舞台を照らし出し、催し物を盛り
上げたのです。
この祝祭計画は世界文化発展のため、二000年まで毎年、中国の柴禁城、エジプトのピラミッ
ドほか七故地に於いて行われる予定で、その初年度に当たる平成六年に、出発地を極東の西欧文化
終着地にあたる奈良の古都が選ばれたわけです。「いにしへ」の世界文化の流れをまさしく遡るよ
うにシルクロードに沿って、奈良から中国を経由して、人類の先祖ギリシャやエジプト文明を辿っ
ていくことになるのでしょう。壮大な人類文明の融合を目指した文化活動と言えましょう。
◆ 万葉集・古今集に見る古都 ◆ このように世界的にも注目されることになった奈良は、その 昔わずか七十年ほど都であったわけですが、平安朝や万葉の時代にはどのように詠われていたので しょう。まず古今集では、次のように「古里」が詠われています。
「古里となりにし奈良の都にも色は変わらず花は咲きけり」
(古今集・巻二・春下・九0・奈良の帝(平城天皇))
ー初瀬にまうづる道に奈良の京に宿れりける時よめるー
「人ふるす里をいとひてこしかども奈良のみやも浮き名なりけり」
(古今集・巻第十八・雑歌下・九八六・源いたるの朝臣の女二条)
万葉集では、寧楽京の荒れた墟を傷み惜しんでの歌として、
「世の中を常なきものと今ぞ知る平城の京師のうつろふ見れば」
(万葉集・巻第六・一0四五・作者審かならず)
この奈良の都も、かっては太宰少弐小野老朝臣が、次のように謳歌した繁栄の都であったわけ です。
「あをによし寧楽の京師は咲く花のにほふが如く今盛りなり」
(万葉集・巻第三・三二八)
奈良の都も七一0年藤原京より遷都されてから約三十年後、恭仁京、難波宮、信楽宮と転々とした
あげく、元の奈良に戻り、更に約四十年後再び長岡京の十年を経て、平安京へ七九四年落ち着きま
した。その後は明治維新に東京へ遷都されるまで千百年間朝廷は動きませんでした。奈良の都は遷
都された後、人がまばらになり廃れたわけですが、京の都は幾たびもの戦火で壊されては又興り
して、平成の現在の歴史に繋がっています。平成の人々から見ますと、奈良朝にはいとも簡単に
国の首府の遷都が繰り返されていたと思われます。
平安朝の都の持っていた機能とは比べ物にならないほど、平成の都である東京の役割は大きく
複雑で簡単に右に左に移せなくなりました。歴史を振り返ってみますと、神武天皇が日向の国高千
穂の峯に降臨され、その後大和朝廷が成立し、飛鳥、藤原京、平城京、平安京を経て、東京へ遷都
されてきたことから、都が西方から東の方へ、東の方へと移動して来たことが分ります。東京も約
一二五年でその機構が肥大化し機能が低下し、遷都の声も時々聞くようになりましたが、もはや昔
のように全て移動するのではなく、都としての機能を有効に分散する方向で考えられています。
戦争などの人為的な物でない大地震などの天災による損害は計り知れないものがありますから、
千年の防備体制が望まれます。幸いにして、太平洋戦争時は敵国の良識ある配慮で日本の古都であ
る奈良や京都は戦火から免れ、古都の姿を後世に伝えることが出来ました。平成の私達は平安の文
化を継承しているように、東京という都を平成の文明と共に壊すことなく千年後の子孫まで伝承し
ていく義務と責任がありましょう。
*** 言葉の世界への散歩 ***
◆ 今 日 ◆ 第一句の「いにしへ」に対して「今日」の言葉があり、第二句の「奈良」
(新都)に対して「九重」(新都)の場所の対比をうまく並べております。又、奈良の都の昔の匂
いが今日の都に桜に乗って運んでこられたという詠い込みで、桜の匂いが南から北へ漂い流れてい
る感じを受け非常に技巧的な歌になっています。
「いにしへ」を詠った百人一首はこの歌だけですが、「今日」を使った歌は他に五四番歌「忘れ
じの」(儀同三司母)があり、その中に「今日を限りの命」と詠み込まれており、「今日を盛りの
八重桜」と対照的な二首になっています。
◆ にほひ ◆ 「にほひ」についても、やはり二首あって、この歌と三五番歌「人はいさ」
(紀貫之)です。この歌が奈良の八重「桜のにほひ」に対して、貫之の歌は、初瀬の長谷寺の梅の
「香」で、共通点はいずれもむかし(古里、いにしへの奈良)を偲ぶため又思い出すための「にほ
ひ」になっている点です。
花に対する人の気持ちや感情は激しく変わるのに対して、花の「にほひ」そのものは平安も平成
も変わることがありません。桜の花にあるいは梅の花に顔をそっと寄せ、匂いを嗅ぐとき、この
同じ香りを貫之も伊勢大輔も歌に詠んだのだと思うとき、千二百年の昔もほんの今日か昨日の事の
ように感じます。
さて、末席を穢す事になるかもしれない鼻をつまむような甚だしき話として、「いにしへ」、
「なら」、「にほひ」と聞いて、てっきり「おなら」の「におい」と思った下素人が替え歌として、
鼻をつまみつつ述ぶる歌一首。
「去にし辺に 確かに聞きし ならの音 今ここの辺に にほひぬるかな」
伊勢大輔さんが臭さと下品さとに嫌気をさして、ぷいと横を向いて袖で空気を追い払いました とさ。
*** 百人一首の道草 ***
◆ 数え歌 ◆ この歌の音には「な」行音が三十一文字中約三分の一あり、特に「に」と
「の」の音がよく響いてきます。
「いにしへのならのみやこのやえざくらきょうここのえににほひぬるかな」
更に数の音声も多く使われており、「奈良」の「な」も「七」の音に通じると見れば、、七、 「八重桜」、「九重」と連音になるわけです。数数え歌として全文字を数字のように変えてしまう と次のようになります。
「一、二、四重の、七等の三八五の、八重三九等、けふ九重二、二ほ一ぬるか七」
い に しへ なら みやこ やへさくら ここへにに ひ な
八八番歌にも数字当てをしますと
「七に八への、あ四のかりねの一四ゆえ、三をつ九して八、五一わたるべき」
な は し ひとよ み く や こい
と六以外全ては入りました。
なお、百人一首で数に関係ある歌は二三番歌「月見れば」(大江千里)の「ちぢ」と「ひとつ」、
二六番歌「小倉山」(貞信公)の「ひとたび」、四七番歌「八重葎」(恵慶法師)の「八重」、
五三番歌「なげきつつ」(右大将道綱の母)の「ひとり」、八八番歌「難波江の」(皇嘉門別当)
の「ひとよ」、九一番歌「きりぎりす」(後京極摂政前太政大臣)の「ひとり」などですが、
「八」、「九」と二数字を盛り込んでいるのはこの歌だけのようです。
平成六年五月二十一日
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