平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 60 歌   丹後の風景 (小式部内侍)
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

◆ 親の七光り ◆  小式部内侍は橘道貞の娘というより、和泉式部の娘さんと言った方が分り やすいわけですが、残念ながら五十番の義孝の二十一才、五二番道信の二十三才に次ぐ若年の二十 六才で亡くなり、和泉式部を次のように嘆かせたものです。

 「とどめおきて誰をあはれとおもふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」
             (後拾遺集・巻第十・五六八)
 彼女は才覚たけた女性であっただけに、和泉式部の期待も大きかったと思います。僅か二十六年の 生涯では大歌人として名高い親の七光の恩恵も十分に受けることなく、まさしく博学薄命に終わっ たのです。この六十番歌はその博学と才覚を示す最たるものでしょう。
 親の七光りと「未だふみも見ず」には大いに関係があるわけです。一般に「親の七光り」という 場合、世間ではその子の出来の悪さを遠回しに言っていることに使われています。そのような意味 では彼女には親の七光りは不必要な才女だったようです。
 中納言定頼より、「歌合わせの代作をお母さんに頼みましたか」とからかわれて、「文も見ず」と やり返すだけの才能を持っていたということです。

◆ 歌 枕 ◆   この歌には歌枕が多く詠み込まれているところが特徴です。京の都から丹後 まで旅の道順に歌枕を三個所も並べた上、「大江山」、「生野」、「天橋立」と母音の「お」、 「い」、「あ」を連ならせています。また、縁語の群としては、大、山、生(行、幾)野、道 (未知)、遠、文(踏む)、見、橋、立などで、特に、「いく」と「ふみ」が掛詞になっている わけです。
 三語も歌枕を使っているのは百首の中でこの一首のみで、三十一文字のうち何と約半分の十五 文字を振り当てております。
 都から丹波や丹後方面への歌枕としては、この三語以外に十六番在原行平及び四六番曽爾好忠の 次の歌があります。

 「立ち別れ 因幡の山の 峯に生ふるまつとしきかば今帰りこむ」
「由良のとを 渡る舟人かぢを絶え行方も知らぬ恋の道かな」

 以上の五歌枕(大江山、生野、天橋立、因幡、由良)を並べて、山陰紀行和歌を試みてみるた めに、かなり強引に歌枕を繋ぎに繋ぎますと、つぎのようになります。

 「大江山 生野ゆ由良の とを巡り 天の橋立ち 因幡の国へ」
                   (註)歌枕の旅は「百人一首の談話室」に触れます。

 この歌頭が「大江山」であるのに対して、歌尾は「天橋立」になっています。第一句の大きい山 から下り始め、第二句では生野を過ぎて、第五句では海岸近くの橋の近くに立つことになり、句を 追うごとに標高が下がって山から海へ滑っていくという感じが出てきます。
 一首全体で大江山と天橋立を一度に鳥瞰図に見ているような印象さえ受けます。誠にうまく道順を 絵にし、歌に仕立てた物だとただただ感心させられるばかりです。
 ちなみに歌尾に「天の・・・」を持ってきているのは、二番持統天皇の「天香具山」の歌で、この 歌では逆に手前の目に映る景物から順に遠くの景色へと視点が動いていることが分かります。すな わち身の回りは未だ春と思っていたのに、はや庭先は夏の気配が感じられて、衣の翻る香具山の麓 から、更に空高く、香具山が聳え立つのが見え、ついには青い初夏の空が目にはいってくるといっ た流れです。
 「大江山」の歌のような道中歌枕和歌は親しみやすいため、人に覚えてもらいやすい特長があり ます。他の道中風歌枕づくしの語りに「平家物語」・巻第十・「海道下り」があり、京の四宮河原 から鎌倉まで詠い込まれています。
   明治以降の道中歌の代表例は「鉄道唱歌」でしょう。この歌は、大和田建樹補作(作詞は無名氏と のこと)、多梅稚作曲で、明治三三年(一九00年)に世に出され、「汽笛一声新橋」から「神戸の 宿」まで東海道五十三次に十三宿加えて六十六節に詠い込まれています。

◆ 丹後路 ◆  この歌が詠まれた当時、小式部内侍の両親は丹後へ赴任していたわけですが、 都から丹波・丹後への道順はいかがなものであったのでしょうか。現在鉄道では山陰本線に沿って、 国道では旧山陰街道九号線に沿って京都から丹後へ抜けることが出来ますが、都の出口「老の坂」へ の上り口には大枝の関蹟があります。因幡の国府(鳥取付近)に出掛けるのに、現在では列車(ディ ーゼルカー)で二、三時間の所を、約一週間もかかっていたようで、摂津、明石、播磨国府(姫路 付近)から北上している例もあるようです。(「時範記」笠原一男・日本史・山川出版社)
 天橋立は言わずと知れた日本三景の一つで、平成の現在天橋立の入り口の公園の一画には三景を 集めた広場を設けています。丹後・宮津の天橋立、陸前・釜石の松島、安芸・広島の宮島の三名所 は江戸時代寛永二年(一六四三年)に林春斉によって「日本三景」と称されるようになったのです。
 百人一首では三景の内天橋立だけが撰歌されましたが、松島の歌詠みの例としては、

 「塩釜にいつかきにけむ朝凪に釣りする舟はここによらなむ」
                                      (伊勢物語・八十一段・在原業平)  「松島やしほ汲む海士の秋の袖月はものおもふならひのみかは」
                                      (新古今和歌集・巻四・秋上・四0一・鴨長明)  「君まさで煙絶えにし塩釜の浦寂しくも見え渡るかな」
(古今集・巻十六・哀傷・八五二・紀貫之)

 一方、安芸の宮島の歌詠みは、「平家物語」巻第四・還御の語りの部分に次のような和歌が出て います。

ー(三井寺の)公兼僧正一首の歌詠んで拝殿の柱に書き付けられたり。ー

 「雲居より落ち来る滝の白糸に契りを結ぶことぞ嬉しき」(巻四・二0)
 ー厳島の内、ありの浦に留まらせたもふ。・・・隆房の少将、ー

 「立ちかへる名残もありの浦なれば神も恵みをかくる白波」(巻四・二一)

*** 百人一首の忘備録  *** 「山頭歌」
◆ 山頭歌 ◆  歌の頭に「大江山」と山の名前が出ていますが、ちなみにこれを「山頭歌」と 名付けますと、百人一首の中には他に山頭歌は二首あります。

 二六番 「小倉山峯の紅葉ば心あらば今一度のみゆきまたなむ」
 五八番 「有馬山猪名の笹原風ふけばいでそよ人を忘れやはする」

 山頭歌の三山は、小倉山(二九三メートル)、 有馬山群(約六00メートル)、大枝山・老ノ坂(約三00メートル))で、これ以外の山としては他に次の十一山が在ります。       宇治山(喜撰山、四一六メートル)、因幡山(二四九メートル)、富士山(三七七六メートル)、  香具山(一五二メートル)、 三笠山(二八三メートル)、   手向山(三四二メートル)、  三室山(八二メートル)、  筑波山(八七六メートル)、   伊吹山(一三七七メートル)、  末の松山(数十メートル程度)                          更に奥山や外山、初瀬山(四五五メートル)、吉野山(八五八メートル)を加えますと合計十八山になります。  この十八山の中で最も高い山は、当然富士の高嶺の標高三七七六メートルであり、他はいずれも低い山ですが、ことわざの通り、「山高きをもって貴しとなさず」です。  低い山の方では、三室山や香具山などになりますが、深山や奥山に対する外山(端山)で、奥山が里を離れた比較的高い山としますと、外山は里近くの小高い山でせいぜい百メートル以下でしょうか。  いずれにしても、「山なくば、名歌生まれず」というところでしょうか。

◆ 歌 枕 ◆  (都、東国、西国)  万葉の昔より、歌に詠まれてきたいわゆる歌枕は、その代表的な場所だけ挙げてみても二百個所に なるようです(久保田淳「古典和歌必携」学灯社 昭和六十一年)。北は陸奥から西は筑紫まで 平成現代まで継がれて来た地名が多いようです。
 百人一首に出てくる歌枕は約五十程度有りますが、これを都とその周辺、古都(奈良、大和)、 難波とその周辺、東や西国に分けますと次のようになります。


 一。古都(奈良、大和) (十一ヶ所)
   天香具山(二番)、三笠山・春日(七番)、龍田川(十七番、六十九番)、
      手向山(二十四番)   みかの原・泉川(二十七番)、吉野山(三十一番、
      九十四番)、奈良(六十一番)、御室山(六十九番)、初瀬(七十四番)
 二。都とその周辺 (四ヶ所)
      宇治山(八番、六十四番)、逢坂(十番、二十五番、六十二番)、
      小倉山(二十六番)、なら   の小川(九十八番)
 三。難波とその周辺 (四ヶ所)
   難波(十九番、二十番、八十八番)、住之江(十八番)、高師浜(七十二番)
 四。都を離れたところ (十二ヶ所)
   因幡山(十六番)、高砂(三十四番、七十三番)、伊吹山(五十一番)、
      有馬山・猪名野(五   十八番)、大江山・生野・天橋立(六十番)、
      由良(四十六番)、須磨・淡路(七十八番)、松帆の浦(九十七番)
 五。東・陸奥 (八ヶ所)
   田子の浦・富士(四番)、筑波山・男女川(十三番)、陸奥・信夫(十四番)、
      末の松山(四   十二番)、雄島(九十番)

 これらの歌枕の中三首に詠まれているものは「逢坂」と「難波」、二首に出て
くるものは「龍田川」、「吉野」、「宇治」、「高砂」の四ヶ所で、一首に三ヶ所も
詠み込んだものは小式部内侍(六十番歌)の歌です。なお山は十一山有り、川は三川、
海浜は六ヶ所有ります。
 山:天香具山、三笠山、手向山、御室山、宇治山、逢坂山、小倉山、有馬山、
      伊吹山、因幡山、大江山
 川:龍田川、泉川、ならの小川
 海:難波、住之江、高師浜、天橋立、須磨、松帆の浦

 百人一首の歌枕の音には「あ」音、「あ行」音及び「あ列」音が多く、約五十のうち二十近 くありますが、やはり詠んだ時の響きがよいからでしょうか。この五十所近くの場所は現在でも その土地の風光明媚な観光地であり続けている場所も多くあります。逆に百人一首に詠まれた場所 だから保存され続けてきたとも言えるかもしれません。山や川は千年前の状態を保っているでしょ うが、最も変貌が大きいのは海浜ではないでしょうか。僅かに天橋立の景観が保存されているもの の、難波江、住之江、高師浜、須磨、松帆の浦等はすべて、人工物(埋め立て、建物、港湾)に 姿を変えてしまったようです。次は川も変貌する可能性が有ります。千年後に歌枕の山々は残って いるのでしょうか。

***  百人一首の百人家族  ***
 百人一首の中には十六組ほどの親子の歌が入っていますが、いずれの息子や娘とも親に対抗で きて、親以上に実力を発揮している例が多くあり、親の七光りによって百人一首への潜入を謀った 人物は一人も見られないように思います。この歌より二番若い五八番の大弐三位も母紫式部を凌 ぐ歌道の力を持っていたようです。小式部内侍をからかった六四番歌人藤原定頼も五五番の大学 者藤原公任の息子に恥じない歌人としてなかなか渋い日本人好みの「わび」や「さび」の利いた 和歌を残しています。 ちなみにもう一組の娘さんとのペアマッチは四二番清原元輔と六二番清 少納言です。以上娘さんとのペアマッチは三組になりますが、五八番大弐三位、六十番小式部内侍、 六二番清少納言といずれも平安朝の女流才女が綺羅星の如くならんでいると言ったところが興味 のある点です。

           (註)ペアマッチの話は「百人の歌苑」に言及します。

平成六年四月五日


掲載 平成16年4月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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