平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 58 歌   津の国の風 (大弐三位)
有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

◆ 歌の時節 ◆  この歌の季節はいつなのでしょうか。歌では「そよ」という言葉を引き出す ための有馬山からの風と言うことでありますから、人の耳元でささ(笹)やきかけるような、いわ ゆる頬をなでるような柔らかな微風と言うことになりましょうか。さすれば春の風が相応で、人を 包む暖かさを感じますが、この歌の詠おうとしている心には、相応しくありません。やはり晩秋の 何か物寂しく、逆に人恋しく感じるようになる時期にふと感じる風ではないでしょうか。大伴家持 の歌を思い出します。

 「我が宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも」(万葉集・巻十九・四二九一)

 「そよ」と言う声掛けも大変印象的です。文法的には「そ」は指示代名詞、「よ」は感動の終助 詞になります。従ってこの歌では、「いで」と「よ」と言う二語も感動の用語を使っています。こ のような例は百人一首では他に四五番歌謙徳公の「あはれ・・・・かな」があります。
 各句の頭は「あ」、「い」、「か」、「い」、「わ」で、母音「あ」、「い」の音が充てられて いるため、大変耳には響きが良いのでしょう。
 平成の言葉で言い換えてみますと、次のようになります。
 ー有馬の山から猪名野笹原へ吹いてくる風が耳元で「忘れないでね」と囁くように、どうして、 私があの人を忘れるものですか。ー

◆有馬と猪名野◆  「有馬山」は現在の神戸市有馬町、「猪名」は伊丹市猪名川の流域を指して いるとしますと、有馬山から吹き降りてくる風が猪名野の笹に吹き渡っている風景を思い浮かべます。
 上の句から下の句へいくにつれて、風が山から野へ吹き過ぎていく感じがします。「猪名の笹 原」とは、「猪名野笹原」の意味も含まれているのでしょう。ちなみに現在の猪名川流域で「いな」 とつく地名としては、伊丹市猪名野町があり、電車の駅には「稲野」(私鉄)、「猪名寺」(JR 西日本)などがあります。
 有馬山は地理上で細かく言えば、神戸市周辺での最高峰六甲山(標高九三一メートル)の北側に 位置し、武庫川や猪名川の流れる平野から見れば六甲に隠れてしまっています。従って歌に言う 「有馬山」とは大きく見れば六甲山を含めた六甲山塊全体を指しているのではないでしょうか。
  平安時代では人に囁く六甲山塊の風も、平成の現在になりますと「六甲おろし」と称して、冬 場に神戸から伊丹にかけての平野に吹き降りてくる冷たい身を切るような厳しい寒風を指していま す。
 「六甲おろし」で思い出すこと。平安の時代では、貴族には暇つぶしの娯楽はあっても大衆の 娯楽というものは無かった時代です。その当時の人々には想像もできない平成の時代の娯楽は、 相撲、野球、蹴球(サッカー)が三大人気スポーツです。最も蹴鞠は藤原朝の時代からあったそ うですが。相撲についで歴史の長い、とは言っても外国から輸入され、又職業スポーツとなって からでも半世紀しか経っていない野球は、国民最大の人気スポーツです。その関西地区で最も永 い球団史を有する電鉄会社所有の野球団応援歌は「六甲おろしに颯爽と・・・」と歌い始めるの です。

◆ 津の国 ◆  津の国(摂津)は、西は六甲山塊を境として播磨の国と接し、東は水無瀬や 山崎の天王山と男山で淀川が狭まっているところで山城の国を隣国となし、南は住之江、高師之 浜以南の和泉を國隣りとし、北は能勢の山並みを丹波の国との境にしていました。
 明治の廃藩置県制度による現在の府県境はかなり昔の国境を参考にしているものの、すこし区 切りを変更したところもあります。昔の国域の方が自然派生的なものだけに、その地域の社会活 動にあったものになっていたのではないでしょうか。もっともそれは交通手段を人の足のみに依 るとした場合の地理的条件のことですから、現在のように、電車や航空機の路線を主体に人や物 が流れている時代の国境と言うのは、在ってないようなもので、むしろ昔の道単位(東海道、東 山道、北陸道、畿内、山陰道、山陽道、南海道、西海道)程度の方が行政単位としては便利では ないかと思います。現に電力事業や鉄道網が広域的営業形態を採っている如くです。

***  百人一首の忘備録  ***
 歌から想像するに、大弐三位のような平安時代の女性の頭の中で理解できた世界は、せいぜい 畿内周辺ではなかったでしょうか。百人一首の女性群に詠まれた世界の広さを考えてみましょう。
  二番 持統天皇   藤原京ー天香具山ー大和国 (畿内ー数キロメートル以内)
 十九番 伊  勢   平安京ー難波潟ー摂津国   (畿内ー数十キロメートル以内)
 五八番 大弐三位   平安京ー有馬山、猪名野ー摂津国  (畿内ー数十キロメートル以内)
 六十番 小式部内侍  平安京ー大江山、生野、天橋立ー丹後国 (山陰道ー百キロメートル程度)
 六一番 伊勢大輔   平安京ー奈良の都ー大和国  (畿内ー二十キロメートル程度)
 六二番 清少納言   平安京ー逢坂の関ー山城国  (畿内ー数キロメートル以内)
 七二番 紀  伊   平安京ー高師浜ー和泉国   (畿内ー五十キロメートル程度)
 八八番 皇嘉門院別当 平安京ー難波江ー摂津国  (畿内ー数十キロメートル以内)
 九十番 殷富門院大輔 平安京ー雄島ー陸奥   (東山道ー千キロメートル以上)
 九二番 二条院讃岐  平安京ー沖の石ー陸奥  (東山道ー千キロメートル以上)
 一説には、若狭国  (北陸道ー百キロメートル程度)
九十番の雄島は耳学問の世界ですから、これは女性群には実感のもてない地域です。山陰道の 天橋立でも、「・・・まだふみもみず・・・」ですから、東山道または北陸道の沖の石も同じで しょう。としますと、彼女らが実感を持って詠い得た世界はせいぜい畿内どまりという事になり ます。特に体験に基ずいていると見てもよい歌は、天香具山、難波潟、猪名野、高師浜や難波江 でしょう。更に作者自身が、現場で直に、見て、聞いて、触れているのは、大弐三位のみと言う ことになりましょうか。

***  言葉の世界への散歩  ***
◆ 感嘆詞のリズム ◆  「あ、い、か、い、わ」   この歌に独特な生き生きした感じが滲 み出てくるのは、語りかけ言葉が挿入されているためで、一度聞いたら「忘れない」「いでそよ」 の歌と言うべきです。まさしく「いでそよ歌を忘れやはする」。
 上三句まではそっと風が舞い降りてくるごとくに詠っているために、下の句でもおとなしい歌の 「止め」にするのかな、と思いきや、いきなり「いでそよ」と読み手に呼びかけて目覚めさせてい るのです。非常に面白い詠いぶりと言わざるを得ません。
 「いで」は打ち消しを表現する「いや」という感動詞ですが、「いな」も「否」と無関係ではな いでしょう。百人一首で、感動詞は他に、「あはれ」、「や」、「よ」等がありますが、「いで」は この一首だけに、なおさら印象深い歌です。
   (註) 感動詞の「あはれ」は第七十五話に触れます。

【百人一首の談話室】
  ◆ 母子才女 ◆   大弐三位は、藤原宣孝の娘と言うより、紫式部の娘さんと言った方がわか りやすいと思います。平安時代でも現在でも、親があまりにも有名であると周りの者の影が薄くな ります。大弐三位も紫式部の頭の良さを受け継いだかなりの才女であったとされていますが、母親 の名声を越えることは出来なかったようです。
 百人一首でも親子の組合せは十数組有りますが、いずれもがいわゆる「この親にしてこの子有り」 の見本のような人ばかりで、特に母親と娘の組み合わせにそのことが言える例としては、紫式部ー 大弐三位、和泉式部ー小式部内侍の組み合わせで、いずれの母子でも母親の方が、あまりにも有名 であります。これらは、公任ー定頼、俊成ー定家の父子組み合わせ以上の超一流ペアと言うことに なりましょう。  (註)百人一首の作者のペアについては「百人の歌苑」に述べます。

◆ 女性躍進 ◆   現代女性の社会への進出は政治や経済はもとより、学問の面でも、職業の 面でも多種多様になってきました。平安朝の当時も百人一首の順序から言いますと、五三番から 六二番までの時期は、十首中九首が女流歌人の歌という女性群大躍進の時代になっています。
 貴族の上流社会に於ける女性の活躍という限定された体制内ではありますが、外国の物まねでは ない独自の日本文化の中に於ける女性の才能の発揮ですから、大いに評価されるべきものであると みなければなりません。
 十世紀から十一世紀の世界(神聖ローマ帝国、サラセン帝国、宋国の時代)において、女性群に よる国民文化が華々しく、かつ現在でも世界に誇りうるレベルのものを残しているのは、日本だけ ではないでしょうか。当時の日本の文化は才女群に支えられていたと言っても過言ではないでしょう。
 平成の現在、日本人は模倣文化人として、真似に真似を重ねた文化にあぐらをかいていると他の 國から、侮られている面も見られますが、どうしてどうして、千年前の才女群から判断すれば決し て創造文化人であり得ないことはないのです。「どないしはりましたん。きばりはったらどうど す。」などとお尻を叩かれそうですな。平成の女性群よりむしろ男性群の方がふがいなさを感じ るくらいです。 考えて見れば大和民族は物質文明に弱いのではないでしょうか。精神文化では 自らの才能を培養し、熟成する力があるのに、外国の物質文明には目が眩んでしまうのでは、と 思えます。

              ***  百人一首の道草  ***「行 歌」

 大弐三位の歌の各句の音は、「ありまやまーいなのささはらー・・・・」と耳に心地よく「あ」 ー「い」音が響いてきます。この歌をそのまま「あーいーうーえーお」の頭音で詠んでみたらどう なるでしょうか。これを称して「行歌」としましょう。

 「ありまやま いなのささはら うちいでて えんにをかしき おしてるつきみむ」

 このような調子で、他の行音について行歌を詠んでみます。

 「かくとだに ききしごりやく くちづたえ 気高き教え 子供孫まで」
 「風をいたみ 岸による波 砕け散り けふの船出は 心波立つ」
 「寂しさに 知る人にせむ 須磨の松 せめて一言 そよと囁け」
 「立ち別れ 千々に物こそ つれなくて てすさびの文 とくと交へむ」
 「ならびなき にきのみたまに ぬさささげ 念じつ祈る 望み叶えと」
 「初霜は 光届かぬ ふる庭の へにへにおくや ほどろほどろに」
 「槙の葉に 乱れておつる 村雨を 目止むでなく 物おもふかな」
 「やすらひて ゆめばかりなり よもすがら 行方も知らぬ 夜半の月かな」
 「楽世こひ 利益に利得 類類の 霊験あれと 六時勤めむ」
 「わりなしや ゐあかすままに うまさけを ゑひしりはてし をぢなきまでに」

平成六年五月三日


掲載 平成16年4月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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