◆ 平均寿命 ◆ この歌の作者藤原義孝は、九五四年(天暦八年)〜九七四年(天延二年)の
わずか二十一年の短い人生を駆けて逝った人物です。天暦・天延の九00年代後半の時代において
も、人の一生は少なくとも五十歳程度は保ち得たと思われることから、彼の一生は如何にも短い人
生であったと思わせます。百人一首百名の作者のうちでも、最も短い人生を送ったことになり、最
長寿の歌人たち、八十二番歌歌人道因法師(藤原敦頼)は九十二歳、八三番歌歌人皇太后宮大夫俊
成が九十一歳の天寿を全うしたことに比べますと、その数分の一という短さです。事故死でなく病
死とはいえ、子供の死を見とらねばならなかった義孝の親藤原伊尹、特に母親の気持ちは、如何ば
かりであったろうかと思わざるを得ません。なお、義孝についで早逝した人物は、二番あとの五二
番藤原道信(二十三歳)です。
百人一首百名の作者のうち、寿命不明の三十九名を除き六十一名の平均寿命を計算しますと、
平成現代では七八歳から八十歳であるのに比して、五八歳強と二十歳ほど少なくなるものの、七十
歳代で亡くなった人も十八名もいることからみますと、結構長寿であったことがわかります。もっ
とも、和歌を残し、かつ勅撰集に選ばれているほどの人物群ですから、衣食住面でその日暮らしの
生活ではなかったことから考えると、納得がいくように思います。
『薄幸の義孝』は、その血筋からみると、平安上流貴族社会の中でも、とびきり恵まれた家柄に
あります。すなわち、二六番歌人貞信公(藤原忠平)を曾祖父とし、右大臣師輔を祖父とし、四五
番歌人謙徳公(藤原伊尹)の息子として、また藤原行成の父親として短い生涯を送りました。義孝
の周辺には、きら星の如き超上流貴族がひしめいていたのです。「天は二物を与えず」。まさしく、
寿命は足らずとも二十年の人生そのものは充足したものであったと思います。
藤原定家は、短命の義孝の一生を代表させるかのように、義孝に「長くもがな」と歌わせてい
ます。二十年の人生のうちで何首を詠じたかはわかりませんが、その中に奇しくも自分の短命を
予感した歌を残していることに感慨をおぼえます。
◆ 君がため ◆ 義孝の言う「君がため」とは、単純に恋歌と解釈すれば相思の相手とな
りますが、「君」とは親であり、妻であり、あるいは子供でありと読み替えますと、この歌は平安
・平成いずれの世でも全く同感とうなずかざるを得ません。義孝の言う「君」は、多くの意味を
含めた「君」ではないでしょうか。したがって、拡大解釈して、「君」がためとは「社会」のた
め「国」のため「人」のため、天から自分に与えられたこの世での自分の役目を探すまで、少しで
も長く尽くしたいとなれば、大変気高い和歌に転身します。
「君がため」なら、「惜し」くない「命」も、何時の世でも平安の人も平成の人も、「命」は
「惜し」いのです。だれしも「長くもがな」と思いつつ、この世を去らねばなりません。この辺の
気持ちを義孝は平易な凝らない用語でさらりと歌っているため、千年後の平成の世でもすんなりと
心情が伝わってくるのです。彼の人生が短かっただけに、一層実感を伴って平成の現代にも訴える
ものをもった和歌といえます。
◆ 死 因 ◆ 義孝は痘病(天然痘)で早逝したと伝えられています。千年の昔の人々は、
成人するまでに現代に共通する慢性の病気、また当時はやった伝染病によって、あるいはもともと
体力がなく健康状態が優れず、死亡する場合が多かったようです。現代では医学の技術・知識が
発達し、死亡の事情が変わってきました。社会体制が複雑になるほど、病死等の非人義的な死因が
減少し、逆に人義的な争いや諍いによる死亡が増加するように思えてなりません。戦争による大
量の死傷者が出るのは、人類の歴史が始まって以来のことで、これは人間がこの地球上に存在する
かぎりなくなることはないでしょう。
この平成の時代において戦死以外での特徴的な死因は、現代社会病の一つとされている交通事故
死でしょう。
人が造り出した物で、人が人を殺傷する現代社会の典型的な弊害です。平安の時代と平成の時代
では社会のスピードや生活のリズムが違うといえばそれまでですが、まさか、国会議員が牛車に乗
って議事堂へつめかけるわけにはゆきますまい。すでに加速されつつあるこの現代社会の動きを
減速するわけにはいかないわけで、考え方や気持ちの持ち方だけでも「ゆとりをもって」とは言
うものの、現実には容易に実行が伴いません。
義孝は親しい人に見送られて病床で死を迎えられたと思いますが、現代では老いも若きも自分の
家では死ぬに死ねない事情になってきました。最近の一例として、義孝と同じ二十歳前後の青年の
痛ましい事故死として、外国の地において殺害された数例です。
平安の時代には、外国へ留学生を派遣することは、八九四年(寛平九年)菅原道真の建議による
遣唐使廃止以降なくなってしましました。平成の現代では、国費留学より私費遊学の事例が多く、
外地の事情に慣れないことから事件に巻き込まれ、ついには銃火器による死亡事故になってしまう
事例が多発するようになりました。畳の上で死にたいと思うことが、日本人の一つの願望であるこ
とは、千年の昔の人には当然およびもつかないことかもしれません。
◆ 義孝集 ◆ 五十番歌と同じように、人生観の一端を示した義孝の歌としては、次のようなも のがあります。
Zゆく方も定めなき世に水はやみ小舟をさほのさすやいづこぞ
Zいのちだにはかなはかなもあらば世にあらばとおもふ君にやはあらぬ
Zいつまでのいのちも知らぬ世の中につらきなげきのただならぬかな
Zみをつみて長からぬ世を知る人はひとへに人をうらみざらなん
まさに、風前の灯の如き我が命を、なんとか持ち堪えて、人生を詠って去っていったという感じが
します。
以上のように義孝の歌も、じっくり読みこなしてみますと、人生観の一つとして深い印象を受ける
ものですが、今日の言葉で、かつ大阪弁で訳してみますと、一度に落語的なユーモラスな歌になって
しまいます。
「あんさんためやったら、死んでもかめへんとおもたけど、よう考えたら、長生きしていつま
でも いっしょにいたいしなあ」
現代語でやりかえしますと、だいぶ雰囲気が変わります。
「ひとのためには、この身を惜しむものではないものの、この世での自分の使命を全うするまで
は死ねないのです」
*** 百人一首の忘備録 ***
義孝の歌と同じような命の限りをよんだ百人一首としては、
(五四) 忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
(五六) あらざらむこの世の外の思い出に今ひとたびの逢ふこともがな
があげられます。これらの歌も単なる恋歌の一種として見るのではなく、その人の人生はそのひ ととき、すなわち「今日」や「今」に凝縮しているとみますと、深い読みが出てきます。明日や 行く末を思わず、「今日を限り」と思い、今後は「この世の外に」あるつもりで生きていた儀同 三司母(高階貴子)や和泉式部の気持ちは、平成の現代ではすっかり忘れられた、ある意味で悟 りの境地とも言えるのではないでしょうか。
平成六年四月二十四日
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