平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 41 歌  生き甲斐 (壬生忠見)
恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか

◆ 欠けた三十六歌仙 ◆   京都駅を降りますと北正面に京都タワーがあり、その一区画北側 には、烏丸通に面して親鸞聖人の浄土真宗東本願寺が、堀川通に面して西本願寺が荘厳な御堂を擁 して並び建っております。さらに駅の南側には弘法大師の東寺(教王護国寺)があり、御堂と対照 的な五重大塔が町の甍の波の上に吃立しています。
 さてこの西本願寺(浄土真宗本願寺派本山)は、桃山期の唐門と書院あるいは黒書院に加えて、 聚楽第から移されたという国宝の飛雲閣があります。この建物の中に「歌仙の間」という室があっ て、襖戸板には三十六歌仙の三十六人の絵が画かれているのです。この襖絵に関して、平成六年五 月十七日のNHKテレビニュースで、次のような放映がありました。
 三十六人の歌仙のうち、絵を考証することによって、壬生忠見と小大君の二人が欠けていることが 判明したというのです。どうして、この二歌仙が欠けてしまったのか、経緯は不明ですが、どうも 不運なお二人であったとしか言いようがありません。特に壬生忠見の方は、天徳四年内裏歌合わせ において、平兼盛との競い合いに負け、気落ちしてこの世を去ったと伝えられている説話とともに、 何か暗い且つ恵まれない宿命を感じます。

◆ 役 職 ◆   百人一首においては、平兼盛の歌が四十番で、忠見の歌が四一番にまわり、 後塵を排しています。忠見は、古今和歌集の選者として、又歌人(百人一首三十番歌作者)として も有名な、壬生忠岑の子息です。父子そろって三十六歌仙の一人に入ることはできたのですが、父の 名声に負けないように、官職の面でも和歌の実力の面でも、努力しようとしたのではないでしょうか。 残念ながら官職の方は天徳二年(九五八年)、例の内裏歌合の二年前、摂津大目という役職に就けた のがやっとのようです。
 この役職は、国司の職にあって、守が従五位に相当するのに対して、従八位にあたり、守、介、 大掾、小掾の下になります。父の忠岑が従六位で任を終えたわけですから、彼も官職の面ではあまり 期待していなく、むしろ和歌の道において、他にひけをとらなように頑張っていたようです。
 いわゆるいつの世でも問題になる生き甲斐を歌道に求めていたのでしょう。でなかったら、歌合せ に一度負けただけで、悲嘆のうちに食欲不振になり病気を得て死んでしまうところまで思いつめな かったでしょうから。いつの世でも生き甲斐を失ったときは不運です。

◆ 忠見集 ◆  壬生忠見にとって生きがいであった和歌は私家集の「忠見集」として残されて いるわけですが、摂津の国に関わった人生のためか、「津の国」「住吉」「淀」「淀野」「須磨」 などが詠まれています。

   「都には住みわびぬれば津の国の住吉と聞く里へこそゆけ」
 「津の国に我が頼めりし住吉にたよりなみこそ間なくたちけれ」
 「いづ方に鳴きて行くらむ敦公淀の渡りのまだ夜深きに」
 「秋風の関吹き越ゆるたびごとに声うち添ふる須磨の浦風」(新古今集・一五九七)

 さて、これらの歌はどれもとびきり有名な秀歌というほどの評価を得ていません。そのために彼は 一生一代の勝負に出たわけです。天徳歌合の負けを利用して、自分の命まで投入して兼盛との勝負を 世に残し、結果としては、百人一首に入ることを許され、永遠の命を得たのです。したがって歌合せ では負けたかもしれませんが、後世の人々の弱者に対する同情を得て、ひょっとしますと平兼盛に 評判では勝ったのではないでしょうか。
 命までかけた「恋すてふ」歌の行く末をあの世で見ているはずです。忠見は後世の人にこうして くれといいたげな、まさしく遺言のような歌も残しています。

 「言の葉のなかをなくなく尋ぬれば昔の人に逢ひ見つるかな」(新古今集・巻第十八・一七二七)

 さて、忠見の生き甲斐は、歌の道だったわけですが、忠見の時代の一般人の生き甲斐は何だった のでしょうか。特に官職にありついた人々の生き甲斐は、当然少しでも位高い官職に昇進していく ことであったと思われます。これは今の平成の世でも言えることで、官職や役職名が変わっただけで、 体制が一変したわけではありません。例えば、平安朝では名家の出が出世するわけで、藤原氏族のみ が社会を掌握していたように、平成の世では、氏族が学閥に変っただけのことです。
 高等教育校の出身者がすべての社会組織をおさえこんでおり、日本を動かしているのです。日本は、 選挙によって選出された代表が国政を担当することになっていますが、実にその民主政治を案画し、 実行に移し、管理しているのは、高級官僚とその組織と見てよいでしょう。優秀な行政官が体制を 維持しているかぎり、平安期の醍醐・村上両朝の延喜の御代のように、安泰なわけです。
 日本社会では、欧米の社会と違って、個人主義で行動するより、集団で行動する方が民族的体質に 合っているのでしょう。これは、千二百年前から変らず、来る千年後も変らないでしょう。

◆ 名 ◆  もう一つの生き甲斐で彼等が大切にしていたもの、それは「名」ではないでしょうか。 忠見の歌でも「名」が詠いこまれています。浮き名が立つことをおそれているわけです。名を惜しむ 歌は他に二首(六五番歌「恨みわび」(相模)と六七番歌「春の夜の」(周防内侍))あり、評判と かうわさの意味での「名」としても、二首(二五番歌「名にし負はば」(三条右大臣)、五五番歌 「滝の音は」(藤原公任))選ばれています。
 万葉の時代の人々は、山上憶良や大伴家持等の歌に代表されるように、「おのこ」や「ますらお」 として、不朽の名を後世に伝えたいというのが、彼等の生き甲斐であったわけです。すくなくとも 百人一首の中でみるかぎりは、彼等のような壮大な生き甲斐は詠み出されていませんが、それでも 名を穢したくないという思いは変らないように思います。これが千二百年後の平成では、「名」を 大切にすることすら話題にのぼらないのに、老齢化社会への移行とともに「生き甲斐」だけが異常 に人々の日常会話の口にする言葉になってしまった感があります。
 平成の人々も、昔に戻って、万葉時代のような素朴な人間としての生き甲斐を再認識又は再発見し なければならないように思います。

***   百人一首の道草   ***
 天徳四年内裏歌合せにおける壬生忠見の話を、「百人一首一夕話」によって追ってみましょう。
 「・・・この歌合わせに左方は平兼盛、右方は忠見と番はせられしに、初恋といふ題にて兼盛は 忍ぶれど色に出でにけりといふ歌にて、忠見は恋すてふ我が名はまだきの歌なりけるが、左右ともに 秀歌にて判者小野宮左大臣実頼公勝負を定めかねて帝の天気を伺ひけるに、帝微音にて兼盛がしの ぶれど色に出でにけりといふ歌を吟じたまひければ、さては天気左にありけるよとて兼盛を勝ちに 定められけり。・・・」
 雅号を「懸泉」と称する親しき歌人は、その歌集に次のようにこの勝負を連作和歌で偲んでい ます。
この逸話は、それ程までに和歌の世界で語り草になっている出来事であったわけです。

「歌相撲」
  「平安の 大宮人の 歌合わせ 節会を今に 偲びてはみつ」
  「天徳の 内裏試合の 結びなる この一番に 皆固唾のむ」
  「ぞろぞろと 裾を引きつつ 公達が 右と左に 別れて座る」
「軍配の あてど惑ふ 左大臣 大納言へと 判者代わりぬ」
「歌負けて 病みつくほどの 執念の 炎は今に伝へ消えざる」

    懸泉先輩に見習って連作を真似てみました。
         「天覧試合」
       「晴れやかに 御前に響む 合わせ歌 雅の節会 今に偲ばむ」
       「天徳の 名高き勝負の 一番は 今に伝はる 忠見兼盛」
「そろりそろ 裳裾引きつつ 公達の 別れて座る 右の左に」
       「勝ち負けの 評定惑ふ 大納言 左大臣へと 判者移りぬ」
       「歌に負け 命も絶えど 執念の 和歌の言霊 今に生きをり」

 千年以上の時を経て、今や忠見も兼盛も、勝ち負けを越えて命を得ています。

【百人一首の忘備録】
◆ まだき ◆ 忠見の歌で、独特な言いまわしは、「まだき」でしょうか。「まだその時期では ないのに、はやくも」と訳するようで、この歌には必須の副詞でしょう。
 ちなみに、例の西本願寺の襖絵から消えていった三十六歌仙のもう一人、小大君は、忠見と同じよ うな生き甲斐を抱いていたのでしょうか。物の本によると、女蔵人・左近の別称で、藤原兼通の娘・ こう子皇后や三条院に仕えましたが、皇后は早逝され、三条院は在位五年で眼病を患い、退位される など、主人側に恵まれなかったようです。交際仲間としては、実方(五一番歌)、公任(五五番歌)、 道信(五二番歌)や兼盛(四十番歌)などで、社交的な性格の女性であったようです。

 「限りなくとくとはすれどあしひきの山井の水はなほぞこほれる」(拾遺集・一一四七)

    ◆ 名 ◆ 百人一首の中で「名」の用語が詠み込まれている歌は五首有り、名前(二十五番)、 噂(四十一番、六十五番、六十七番)及び名声(五十五番)等の意味に用いられています。特に 六十五番と六十七番の五句目は「名こそおしけれ」と同句になっています。
 「名」という語には五首の歌に見られるように数種の意味が有ります。辞書(三省堂「古語 辞典」)による分類では、(一)名前、(二)姓名、(三)名声、(四)評判 などになります。 また「名」という用語による熟語には次のように多くの用例があります。(岩波書店「広辞苑」)
「名に・・・」・・・「名に負う」「名に立つ」「名にながる」「名にふる」
   「名を・・・」・・・「名をかく」「名を立つ」「名を保つ」「名を留める」「名を惜しむ」
 古今集・恋三の中の六二八から六三一番歌には「なき名」四連歌の用例があります。

 (六二八番)陸奥に有りといふなる名取り川 なき名 取りてはくるしかりけり ただみね
 (六二九番)綾無くてまだき なき名の 龍田川渡らでやまんものならなくに みはるのありすけ
(六三0番)人はいさ我は なき名の 惜しければ昔も今もしらずとをいはむ もとかた
 (六三一番)こりずまに又も なき名は 立ちぬべし人にくからぬ世にしすまへば 読み人知らず

「名を惜しむ」考えは万葉集の初期の歌から見られるものです。

  (九三番)玉くしげ覆ふを易み明けて行かば君が名はあれど我が名し惜しも 鏡王女
 (四八0番)大伴の名に負ふゆき帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ 大伴家持

 「名」と言うものは面白い物でいろいろに取り扱われています。まず百人一首の用例から、連想し て行きますと次のようになります。
 「名に負ふ」→「名に負ける」→「名前倒れ」
 「名を立つ」→「名をあげる」→「名を埋む」
 「名を沈む」→「名を磨す」→「名を辱しめる」→「名を取る」
 「名を流す」→「名を残す」→「名を留める」→「名を売る」
 「名を掛く」→「名を折る」→「名を釣る」
 「名を保つ」→「名を正す」→「名を遂ぐ」→「名を成す」→「名を惜しむ」
 「名」は昔から、いろいろな時と場合に個人の「内心」と「外形」に働きかけ、影響を与え、 強制し、抑制してきたようです。「名折れ」などと「名」のために命を懸けることもまれでは なかった、たとえば名誉のために死すとは武士がその見本とされてきた一方で、「名」を悪用して 生きてきた人々がいたことも事実です。まさしく「名有りて実なし」です。
 「名」を惜しめば惜しむほど、「実」が思い通りにならず、虚実になり果ててしまうことも考 えられます。そのためには「名」より「実」をとるという事情が出てくるわけでしょうか。 「名」とは何か?「実」ではないが「実」のない「名」は「虚名」で意味が無く、「名」のない 「実」も「名無しの権兵衛」などと誠につまらない物で趣のないものです。

平成六年五月十二日


掲載 平成16年4月25日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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