◆ 短い夜 ◆ 平成六年の夏至は六月二十五日ですが、この日は、もっとも昼の時間が長く、逆に
夜の時間が短いわけです。冬至と比べますと、昼は少なくとも四〜五時間長いわけで、人の生活面
でも、冬ではできない多くの事が屋外で出来て、何か得をしたような気になります。
日本の夏至は、昼が長いと言ってもせいぜい十四、五時間ですが、北極に近ければ近いほど、
太陽を見る時間が増え、極地近くでは白夜という夜のない地帯もあるわけで、これなどは、いくら
昼が長い方がよいといっても極端すぎます。やはり、日本の国における程度の昼間で適当と言うべ
きでしょう。
その適度な長さの日本の夏の夜でさえ短いと感じたのは、清原深養父一人だけではないでしょう。
彼は、この歌のように「日が暮れて、宵になったかなと思っていたのに、もう夜は明けてしまっ
ている。お月さんも当惑って空をうろうろしているのでは」と、ちょっとおどけて詠んでいます。
この歌の言い方からしますと、「まだ宵だけれども夜が明けた」という自然現象の道理にはず
れた言い方になりますが、それだけ「夏の夜」がないということを言いたかったのでしょう。同
じ古今集に、紀貫之は夏の夜の短さを次のように詠っています。
「夏の夜の臥すかとすれば郭公鳴く一声に明くるしののめ」(古今集・巻第三・夏歌・一五六)
貫之もやはり「臥すかとすれば」「明くるしののめ」が来たということですから、ほとんど臥す
時間が感じとしてなかったということを言っています。
この夏の夜の感覚は平成現代でも同じです。蒸し暑い夜になかなか寝つかれず、ついつい夜更か
しし、すこしまどろんだかと思うと、もう窓の外は白らんでいて、あっというまに、夏の日差しが
戻ってくるというのが日本の夏の情景です。
ちなみに「夏」を詠んだ対になる百人一首は、九八番歌「風そよぐ」(藤原家隆)です。
◆ 宵の長さ ◆ 深養父は宵とは、どの程度の時間帯を意味したのでしょう。古語辞典では、
夜になって間なし、日没後二〜三時間の間を指すとなっています。この時間帯でいうと、深養父の
夏の夜は高々二〜三時間ということになります。
百人一首の中で時刻、特に暮れる宵、夜、明ける朝方をともに詠んだ歌は、深養父のみです。
夕方から夜や、夜中までの時間帯を引用している用語としては、五二番歌「明けぬれば」
(藤原道信)の「暮るる」の「暮れ」と七一番歌「夕されば」(源経信)の「夕さり」、七十番
歌「さびしさに」(良暹法師)の「夕暮れ」などがあります。
これら以外の時刻語句としては「たそがれ」、「灯ともし頃」「夕づけて」などがありますが、
これらよりも宵の方が幅のある時間を指すのでしょう。これらの用語を使いますと
「夕されど はや夏の夜の 明けぬれば 雲間に惑ふ 淡き月影」
「夏の夜は 暮るる間もなく 明けぬるを 隠くる間もなき ありあけの月」
などと、だんだん屁理屈っぽくなっていきます。
「明けぬる(を)」を用いている対の歌は、五二番歌「明けぬれば」(藤原道信)です。道信の
場合は、深養父と違って夜の語句は入れていませんが、「明け」と「暮れ」を詠んでいます。
ここで、この歌の宵や夕を、春夏秋冬で組み詠みしてみましょう。
「春は宵 おぼろ月夜の 梅のもと すぎし昔の 香をたずねみむ」
「夏の宵 されば夜ふけて 明けぬるを いつどき月の 照り渡るべき」
「秋は夕 されば山の端 仰ぎみむ 宵の明星 われと語らふ」
「冬の夕 月影淡き 山際に 輝き勝る 宵の明星」
◆ 深養父の悩み ◆ 深養父は古今集に十七首ほど選歌されていますが、いずれの歌も華や
かな内容のものはなく、「花散れる」「春もなくなり」(一二九)、「おくれ」「わかる」
(三七八)、「悲し」「別れ」(四二九)、「涙」「流れる」(五八一)、「なきわたる」
(五八五)、「死なば」「常なきもの」(六0三)、「恋ひ死なまし」(六一三)、
「わりなきもの」(六八五)、「死ぬ」(六九八)などと、はなはだ「根暗」な性格が出
ているように思います。
中でもこの性格のきわめつけの歌は次の三首でしょう。
「あふからもものはなほこそ悲しけれ別れんことをかねて思へば」(巻十・四二九)
「虫のごと声にたててはなかねども涙のみこそ下に流るれ」(巻十二・五八一)
「光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散るもの思ひもなし」(巻十八・九六七)
昭和の流行歌にも「あふ(逢ふ、会ふ)は、別れのはじめとて」と歌われているように、人生その ものが生にあえば生と別れる時のはじめとなるわけで、友に会えば別れ、親に会えば死別すると いった具合になっています。深養父は、何にあって「かねて」「別れんことを」「思」っている のでしょうか。深養父の時世でも、平成の世でも、よろず人の世は「あふは別れのはじめ」であり ます。
*** 百人一首の百人家族 ***
清原深養父(三六番歌)は、清原元輔(四二番歌)の祖父で、清少納言(六二番歌)の曾祖父に
なります。したがって親族三名名誉ある百人一首に選ばれているわけです。同じような親族三名は、
経信(七一番歌)、俊頼(七四番歌)、俊恵法師(八五番歌)があるだけで、祖父系統をさかのぼり
ますと、忠平(二六番歌)、公任(五五番歌)、定頼(六四番歌)、および兼輔(二七番歌)、紫
式部(五七番歌)、大弐三位(五八番歌)の二組になります。百人一首に親子の出場は、十八組も
あり、血縁関係は三十八組あるわけですから、三人に一人はだれかと血縁関係ということにな
ります。
百人一首に選ばれている人々は、必ずしもその時代の超一流の歌人でもなさそうだ、との学界の 論議が多々あるようですが、それにしても選ばれることこそ有名であるという証しでしょう。敷島の 道の才能は優性遺伝するのでしょう。まさしく「この親にして、この子あり」の実例を多く見せら れているように思えてなりません。歴史上には色々な親子が語り継がれていますが、深養父らはさ しずめ詠い継がれる親子というところです。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 雲と月 ◆ 下句での「雲」と「月」の組み合わせは、百人一首で多く詠まれているように
思われますが、以外と少なく、五七番歌「めぐりあひて」(紫式部)と、七九番歌「秋風に」
(藤原顕輔)の三首のみです。
どこにあるのか定かでない月、雲にかくれた月、雲の絶え間より出てきた月、の三様態の月が
詠まれています。深養父の詠んだ月は雲に隠れている月ですから、五七番歌と対になろうかと思
います。
「夏の夜は たそがれどきと わかぬ間に かはたれどきに なりにけるかも」
平成六年六月二十七日
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