◆ 長生きの悩み ◆ 日本人の平均寿命は、第二次世界大戦後ぐんぐん高齢の方へ伸びて
きたため、昔から「人生わずか五十年」と言われてきた言い草も、平成の現代では「人生は五
十から」となり、さらには「まだまだ死ねない八十歳」とか、「七十・八十は、まだ子供」など
と言い、ついには百歳の双子姉妹「きんさん・ぎんさん」が話題にされるようになってきました。
人間は贅沢なもので、死にそうになると「もっと長生きしたい」となり、長生きさせてもら
ったらもらったで、それで満足かというとそうではなく、興風老のように、長生きしている目
的や生き甲斐がはっきりせず、具体的には、「仲間がいない・行くところがない・時間をもて
あます・誰も相手になってくれない」などとなり、なんともやるせない生活の挙げ句の果てに
は、「誰をかも」と詠わざるを得なくなります。
この歌の心境に対しては、平安期も平成の世でも、さらにその千二百年間のいつの時代でも、
「そのとおり」という賛同を得るものです。平成の高齢者は仲間が多いため、平安朝の興風老の
時代より「知る人」が多く話し相手があり、社会全体が受け入れてくれる体制ができあがりつ
つありますが、寂しさには変りはないと思います。しかし、一方では大家族形態は核家族形態
になりつつありますから、高齢者はますます一人ぼっちの状態におかれるようになります。
たしかに「知る人」や気のゆるせる「昔の友」が、周囲からぽつりぽつりと消えていく寂しさは、
当の本人でないとわかりませんし、「知る人」や「昔の友」でなかったら、手助けのしようも
ありません。話し相手になれないからです。興風の歌には、そのこともふれているように思います。
「怨みても泣きてもいはむ方ぞなき鏡に見ゆるかげならずして」
(古今集・巻十五・恋歌五・八一四)
「いはむ方ぞなき」とは、言うべき相手がいないことを嘆いているのです。「誰をかも」の歌
でも「知る人」とは、自分が相手を仲間と認識している一方通行の状態で、「あそこにあの人
がいる、ここに彼がいる」という存在を認識しているだけで、安心感があるという状態です。
例えば、会ったり手紙のやりとりをしなくとも、「ふるさとには自分の幼なじみが元気でいる」と
思っただけで、安堵するといったような例です。
ところがこれだけでは人間は満足しません。毎日会って顔を見たり、電話で話したりするところ
までいかなくとも、一年に一回年賀状を交換するとか、何年かに一度の同期会や同窓会で会わね
ば気がすまないのが普通であります。すなわち、こちらが知っているだけではだめで、その人が
こちらに反応してくれなければ「知る人」も「昔の友」にならないのです。興風老はそのことを
この歌で言いたかったように思います。
歌の解釈として、『「高砂の松」は古くからあるため、自分を「知る」わけですが、松のため
昔の友にはなりえない』とか、『高砂の松より自分の方が年をとっていて、友になりえない』とか
いうように述べられていますが、次のように解釈できないでしょうか。『長寿のしるしとしての
高砂の松のことであるから、当然自分の「知る人」の一人であるため、「昔の友」になりえると
ころですが、話し相手として見た場合「昔の友」になりえない』ということを暗に言いたかった
のではないでしょうか。
かの西行法師でも、
「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔語らむ」(新古今集・巻十七・雑歌中・一六五七)
と話し相手を心のうちに求めているのです。
◆ 古今集上の昔の友輩 ◆ さて、興風の老いの嘆きは古今集・巻第十七・雑歌上に載って いるわけですが、この歌の周辺には「読み人知らず」として同類の歌が多く並んでいます。いずれ も話し相手が居ないため、興風と同じように事物に話しかけています。
「今こそあれ我もむかしは男山さかゆく時もありこしものを」(八八九)
「世の中にふりぬる物は津の国の長柄の橋と我となりけり」(八九0)
「我見ても久しくなりぬ住之江の岸の姫松いく世経ぬらん」(九0五)
「住吉の岸の姫松人ならばいく世か経しと問はましものを」(九0六)
「梓弓磯辺の小松誰が世にか万代かねて種をまきけん」(九0七)
「かくしつつ世をや尽くさん高砂の尾上に立てる松ならなくに」(九0八)
また年齢と格闘している姿は、いつの世も変わりません。
「数ふれば止まらぬものを年と言ひて今年はいたく老いぞしにける」(八九三)
「老いらくの来むと知りせば門さして無しと答へてあはざらましを」(八九五)
「さかさまに年もゆかなんとりもあえず過ぐる齢や共にかへると」(八九六)
「とどめあへずむべもとしとは言はれけりしかもつれなく過ぐる齢か」(八九八)
ひらき直った詠いぶりとして、敏行らしくさらりと詠んだ歌としては、
「老いぬとてなどか我が身をせめぎけん老いずは今日にあはましものか」
(九0三)(としゆきの朝臣)
「老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな」
(九00)(なりひらの朝臣の母のみこ)
「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため(九0一)(業平朝臣)
◆ 長寿の松 ◆ この歌の主題の「高砂の松」、すなわち「長寿」の象徴としての松は、いつ
ごろから名をはせるようになったのでしょうか。まず「高砂」自身は百人一首の中で、七三番歌
「高砂の尾上の桜」(大江匡房)の歌にあるように、普通名詞の高い砂山という意味に使われて
います。「尾上の桜が咲いた」という興風老の老境の嘆きとは反対に、この歌は華やかな内容に
なっています。
高砂の地は、瀬戸内海に注ぐ加古川の西方にあり、播磨国の海上交通の要津であり、高砂神社の
相生松(黒松と赤松が自然に一体となり天然記念物に指定されている)が能・歌舞伎・長唄・地唄
などの題材となっているため、世に知られているわけです。さらに庶民になぜこの松が流布したか
というと、能では住吉の松と高砂の松が夫婦であるという伝説を素材として天下太平を祝福したこ
とから発展して、婚礼の祝賀の謡いとして常用されるようになったためです。
もっとも平成の現代では、この謡いの「高砂やこの浦舟に帆をあげて…」と唱われなくなり、も
っぱら西洋音楽の結婚行進曲が多用されるようになっています。興風老の時代の婚儀は、当然今と
様式が異なり、祝福の仕方も違ったものであったでしょうが、当然何らかの器楽を取り入れたも
のに違いありません。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 高砂の松 ◆ 高砂の松を詠った和歌としては、
「高砂の松と言ひつつ年を経て変らぬ色と聞かば頼まむ」(後撰集・巻十二・恋四・八六五)
「高砂の松に棲む鶴冬来れば尾上の霜やあきまさるらむ」(拾遺集・巻四・冬・二三七)
「高砂の松も昔になりぬべしなほ行く末は秋の夜の月」
(寂蓮法師・新古今集・巻七・賀歌・七四0)
ともあれ、「高砂の松」を詠った「興風」さんとは、松に風というよい取り合わせではないでしょう
か。第五句に用いられている「昔の友」の語句の「昔」は、四三番歌「逢ひ見ての」(藤原敦忠)
の「昔は」と、一00番歌「ももしきや」(順徳院)の「昔」がありますが、三五番歌「人はいさ」
(貫之)の「昔の香」が対照的です。ただし、紀貫之も「高砂の松」を「友」とみているような
和歌もあります。
「いたづらによにふるものと高砂の松も我をや友と見つらむ」(拾遺集・巻第八・雑歌・四六三)
興風は松に昔を求められず、貫之は梅に昔を求めえたわけです。貫之に限らず、菅原道真も梅を 「昔の友」に選んでいます。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主無しとて春を忘るな」(拾遺集・巻十六・雑春・一00六)
◆ 誰 ◆ 「誰」という用語は百人一首でもう一首・十四番歌「みちのくの」(河原左大臣) の歌にも用いられており、両歌には、第五句の「なくに」止めの詠いも共通しているため、なんと なく似通っているような気がします。
「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(十四番歌)
「誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」(三四番歌)
「知る人」は百人一首では、もう一首六六番歌「もろともに」(行尊)でも用いられていますが、 興風老と違って、肝胆相照らす友に、しぶい松でなくてはなやかな山桜を選んでいます。行尊は、 山桜に救いをもとめ、山桜に救われているわけですが、興風老は、松を見捨てているのです。行尊 歌に見習って、興風調を改めて松に声をかけましょう。
「もろともに 知る人なれや 高砂の 松よ昔の 友とならなむ」
平成六年五月二十二日
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