◆ 恋 し ◆ この歌のキーワードは「いつ見き」と「恋し」に絞ることができ、さらに一語を
選ぶならば「恋し」ということになるでしょう。この「恋し」という感情を述べるために、どうして
恋しくなるのか→それは「いつ見きとてか」(長らく逢わないため、昔の一瞬逢った印象がますます
心の中で増大し強化されていく)→逢えないとなおさら逢いたくなる→恋しい、となるのでしょう。
下句を飾るために、上句に少しずつ遡って言葉を上乗せしていく技法を用いています。
まず、「いつ見き」→言葉のリズムをとるために、同音の縁語(恋心湧く→「いづみ」)の
いつみ→いづみ→いづみ川と連ねてきて、いづみ川に縁語を結ぶため、いづみ→「わきて」川→
「流るる」いづみ川→みかの原と、三語をたぐりよせ、「みかの原」「わきて」「流るる」→いづみ
川と構成したのでしょう。正しく言葉の泉から、縁語が止めどなく湧き上るように、歌の各句に
繋がっています。
◆ みかの原 ◆ この歌は兼輔の歌ではなく、「読み人知らず」の伝承歌ではないかとも
言われています。人から人へ口伝えされる歌であるためには、どうしても耳に聞き易く、覚えやすく、
かつ歌そのものにリズムがないといけません。その意味からしますと、この歌の上句は「御当地
ソング」と平成の我々が言うところの「みかの原」(木津)地方の民謡のようなものであったの
かもしれません。自分の地方の風景を賛美し、かつその地名を入れた恋の歌を詠むというやり方で、
平成現代でもはやりの「御当地演歌」のはしりのようなものでしょう。
この恋歌をしめっぽい、じくじくした感じのものにしていないのは、「わきて」「流るる」「い
づみ」という、はつらつとした語彙群が湧き出づるごとく「いづみ」の修飾語になっていることで
しょう。上句は必ずしもみかの原の泉川である必要はなかったでしょうが、敢えてというより、
必然的に「いつみ」に繋がったというところです。
この歌に引用された「みかの原」や「泉河」の風景は、現在も兼輔が見た当時とあまり変わって
いないのではないかと考えます。
奈良の都から北方へ奈良街道を京都方面に行きますと、まもなく京都府木津町に入り、木津川が
東の方から流れ下ってきて、方向を北に転ずる湾曲部の左岸に位置して木津の町があり、京都府の
最南端にあたるとともに、左岸には和泉式部(五六番歌歌人)の墓や平重衡(清盛の子)の墓が
あります。どういう縁があって、和泉式部と平重衡が平城の北門、言いかえれば平安の南端に居
座っているのでしょう。もっとも、重衡は一一八0年平氏に反旗をひるがえした南都僧兵(興福寺・
東大寺など)を攻め、大仏殿や両寺の伽藍を焼きましたが、死しても南都を攻めようとしたので
しょうか。
木津町から木津川に沿って北に上りますと、和歌に名高い山吹と蛙の町、井手に至ります。一方、
木津川を東へ遡りますと、元明天皇以来離宮があり、かつ聖武天皇の一時(七四0年)の都、恭仁京
跡地の京都府相楽郡加茂町に入ります。瓶(みか)の原は山城国分寺跡および恭仁京跡地などにあ
たると推測されており、この付近を流れる木津川を泉川と呼んだのでしょう。現在この川筋は、上
流より奈良県大宇陀町の宇陀川、三重県名張市の名張川、京都府木津町の木津川から大阪府淀川へ
と続いており、この間に室生ダムと高山ダムという大きなダムがあり、さらには梅の名所月ヶ瀬梅
林もあります。京都の町の近くを流れる大きな河川は、木津川・宇治川・桂川などですが、桂川以
外は百人一首に詠まれていることになります。
*** 言葉の世界への散歩 ***
◆ ア行音 ◆ この歌では、「みかの原」の第一句より、一句一句が湧き上ってきて、ついに
言いたい「恋し」が最後に出てくるといった仕組みになっているようです。用いられている単語も、
音声的にあるいは語義的に関係あるものが対になっています。すなわち、「みか」―「見き」、
「原」―「川」、「わきて」―「いづみ」、「わき」―「流る」、「流るる」―「川」、「いづみ」
―「いつ見」などです。 音韻的分解をしますと、ア行音とイ行音が多いことに気が付きます。
MI・KA・NO・HA・RA い・あ・お・あ・あ WA・KI・TE・NA・GA・RU・RU あ・い・え・あ・あ・う・う I・ZU・MI・KA・WA い・う・い・あ・あ I・ZU・MI・KI・TO・TE・KA い・う・い・い・お・え・あ KO・I・SHI・KA・RU・RA・MU お・い・い・あ・う・あ・う
三十一音中、ア行音は十一音、イ行音は九音、ウ行音は六音、エ行音は二音、オ行音は三音で、 ア行音とイ行音で三分の二を占めることになります。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 繰り返し ◆ この歌が音声面で一層滑らかさを醸し出しているのは、言葉の繰り返し
「いづみ」―「いつみ」によるのでしょう。百人一首の中で同じ詠み方を採り入れている歌には、
次の数首が見出されます。
「よる波よるさへや」(一八番)、 「知るも知らぬも」(十番)
「しの原しのぶれど」(三九番)、 「折らばや折らむ」(二九番)
「さしも草さしも」 (五一番)、 「絶えなば絶えね」(八九番)
「人もをし人もうらめし」(九八番)、「八重桜今日九重」(六一番)
「濡れにぞ濡れし」(九十番)
「いつみるも わきみづ流る いづみ沢 いつ見きとてか いつも恋ひつ」
このような言葉の繰り返しは、万葉集の巻第一よりみられる技法で、例えば、有名な天武天皇の 次の歌があります。
「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ」(万葉・巻一・雑・二七)
(註)第十話の「言葉の世界への散歩」を参照願います。
古今集の序に引用されている須佐之男命の歌として、
「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」
あるいは、
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」
なども、繰り返しによる言葉のリズムをつくっています。
◆ 古今集の韻律・リズム ◆ 言葉の繰り返しのよる歌の韻律・リズムの歌の例を「古今和歌集」 に見ますと、次のようになるようです。
「こひこひてあふ夜はこよひ天の川霧立ち渡り明けずもあらなん」(一七六番歌)
こひーこひ、あふーあまーあけーあらなん
「東路のさよの中山なかなかに何しか人をおもひ初めけん」(五九四番歌)
なかーなかーなかーなに
「月や有らぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして」(七四七番歌)
あらぬーならぬ、はるーはる、わがみーもとのみ
「白雪のやへ降りしけるかへる山かへるがへるも老いにけるかな」(九0二番歌)
やへーかへーかへーがへ、けるーける
「世の中は夢か現か現とも夢とも知らず有りて無ければ」(九四二番歌)
ゆめーうつつーうつつーゆめ、ありーなけれ
「おもへどもおもはずとのみいふなれば否やおもはじおもふかひなし」(一0三九番歌)
おもへーおもはーおもはーおもふ、いふーいな
「我をおもふ人をおもはぬむくいにや我がおもふ人の我をおもはぬ」(一0四一番歌)
我ーわれ、おもふーおもはぬーおもふーおもはぬ
また、兼輔の歌の出典である「新古今集」から拾い出してみますと、次のような歌に なりましょう。
「初春の初音の今日の玉箒手に取るからに揺らぐ玉の緒」
(読人不知)(七0八番歌)
「駿河なる宇都の山辺の現にも夢にも人にあはぬなりけり」
(業平)(九0四番歌)
「筑波山端山繁山しげけれどおもひいるにはさはらざりけり」
(源重之)(一0一三番歌)
「み狩りする狩り場の小野のなら芝の馴れはまさらで老いぞまされる」
(人麻呂)(一0五0番歌)
「つくづくとおもひあかしの浦千鳥浪の枕になく鳴くぞきく」
(公経)(一三三一番歌)
「塩釜の前に浮きたる浮島の浮きて思ひのある世なりけり」
(山口女王)(一三七八番歌)
「昔見し春は昔の春ながら我が身一つのあらずもあるかな」
(清原深養父)(一四四九番歌)
「いづくにも住まれずはただすまであらむ柴のいほりのしばしなる世に」
(西行)(一七七八番歌)
「世の中はとてもかくても同じ事宮もわらやもはてし無ければ」
(蝉丸)(一八五一番歌)
「夢や夢うつつや夢とわかぬかな如何なる世にか覚めむとすらむ」
(赤染衛門)(一九七三番歌)
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 兼輔 ◆ 藤原兼輔は、鴨川堤に邸宅を設け「堤中納言」といわれ、いとこの三条右大臣
(二五番歌の作者、八七三〜九三二)、紀貫之(八七二〜九四五)他、同時代人の凡河内躬恒、
坂上是則、清原深養父や、大江千古などと、現代で言う「歌壇活動」をしていたようです。この
兼輔の文化活動は、世代を変えて曽孫の時代には、女流作家紫式部を生み出すもとになったよう
です。兼輔には紫式部、深養父には清少納言を背負って立っているという感じがします。兼輔自
身はそうは思っていなかったでしょうが。
特に兼輔は紀貫之との親交が深かったようで、後撰集では第八・冬で雪の朝に詠み交わした四首が
あり、この和歌集の最後の二首は二人の歌になっていますし、貫之は兼輔死後、土佐の任地より
京に戻ってきて、兼輔の死を悼み、
「植ゑ置きし二葉の松はありながら君が千歳のなきぞ悲しき」
と詠んだと伝えられているそうです。(尾崎雅嘉「百人一首一夕話」)
平成六年八月七日
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