◆ 親族の文学サロン ◆ 中納言兼輔(二七番歌歌人)の文学サロンに顔を出した上層貴族が
藤原定方(三条右大臣)です。兼輔とは父親が兄弟ですから、従兄弟にあたります。二六番歌の
歌人藤原忠平(貞信公)は、定方から見れば祖父の兄弟の孫ですから、この人も遠縁にあたります。
二五番、二六番、二七番歌の歌人は結局、親戚同志なのです。それどころか、定方の子の中納言
朝忠(四四番歌歌人)の姉妹が、兼輔に嫁しているわけですから、兼輔から見れば定方はなんと
義父なのです。定方は家系に恵まれていて、姉妹が宇多天皇(第五九代)の后(嵐子)になっており、
その子が醍醐天皇(第六十代)で、醍醐天皇の后(満子)も定方の姉妹ですから、二代の天皇に
わたって定方は縁籍関係を保ったわけです。
一方、兼輔も血縁関係は恵まれています。曽孫には、紫式部という世界的な超一流の女流作家を
世に送り出しているわけですから、日本文学の面でも誉れ高い血筋をつくった人物ということが
できます。定方も、文学的才能の高い兼輔の気質が、当人の持てる気質に合っていたため、文学
仲間として兼輔を親しく思ったわけです。
古今集には単独で初出している定方も、勅撰和歌集として第二番目の後撰集では、親戚筋の藤原
兼輔との歌のやりとりで四首も対で撰歌されているほど、兼輔との関係は文学サロンで親密であった
ことがわかります。
巻三・春下 限りなき名に負ふ藤の花なればそこゐも知らぬ色の深さか(定方)(一二五)
色深く匂ひしことは藤波のたちも帰へらず君とまれとか(兼輔)(一二六)
巻三・春下 昨日見し花のかほとてけさ見ればねてこそさらに色まさりけれ(定方)(一二八)
一夜のみねてしかへれば藤の花心とけたる色やせんやは(兼輔)(一二九)
巻二十・哀傷 はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを(定方)(一三九0)
山科の宮の草木と君ならばわれもしづくにぬるばかりなり(兼輔)(一三九一)
巻二十・哀傷 いたづらに今日や暮れなん新しきはるのはじめは昔ながらに(定方)(一三九七)
なく涙ふりにしとしの衣手はあたらしきにもかはらざりけり(兼輔)(一三九八)
文学的センスの秀でている定方ですから、政治の上では太政大臣に次ぐ右大臣という、最高位の
官職に就いていながら、詠んだ歌は男性の女性に対する恋の歌です。本当に定方自身の実体験の
気持ちを詠んだのか、単なる恋愛物の短篇を書くようなつもりの軽い気持ちで作ったのか不明
ですが、平成現代の世の男性からすれば、少々違和感を感じます。というのも、現代に充てはめれば、
総理大臣補佐の官房長官が恋歌をものするといったようなものですから、はなはだ似つかわしく
ないのです。
平安の世では、和歌は必須の教養の一つで、これが出来ないと、宮中で生活できなかったわけです。
言ってみれば、民主主義の「民」の字も知らないで国会議員になるようなものです。定方にすれば、
一つの教養を披露するようなつもりの詠みであったのでしょう。同じような恋の歌でも、六三番歌
「今はただ」(道雅)などのように、せっぱつまった、もはや逃げどころのない、追いつめられた
心理状態ではない、やや余裕やゆとり、あるいは遊び的なニュアンスの感じられる歌になっています。
◆ 逢ふとさね ◆ この歌で最も大切な第三句「さねかづら」という言葉には、植物の「さね
かづら」(ビナンカズラの別称のように、その茎の粘液は髪付油のもとになる)と、本来の「さね」
(さ寝=さぬ=共寝する)とを兼ねた用語になっているわけですが、「さねかづら」という植物名を
歌の中心にすえて、この言葉の縁語や関係語を上句と下句に、さねかづらのつるのように連結して
歌にしているため、なにかと言葉が絡み合っているわけです。すなわち「さねかづら」は、どこの
土地にあるかというと「逢ふ」という名を含んだ「逢坂山」です。その「逢」という字こそ『「名に
し負はば」と自分が期待するところなのですよ』、と言っているわけです。
さて、どのように「逢ふ」のかと言いますと、下句への繋ぎは「人に知られ」ないで逢いたいの
です。「逢ふ」ために「くる」(人が来ると、かつらを操る)手だてがあったらなあ(「よしも
がな」)と、希望的独詠とでもいうところです。これを、「くるよしあるべし」などと言って
しまいますと、女性を強姦するような異常な片意地の歌になり、恋歌でなくなります。
◆ 名にし負はば ◆ この歌のキーワードは二語句「さね」と「もがな」、すなわち「共寝」と
「でありたい」というように、圧縮できるように思います。この五文字を軟かく包んだのが、
「逢坂山」や「さねかづら」であり、さらにこれら二つの名詞に枝葉をつけて装飾したのが、
「名にし負はば」や「人に知られで」「くるよし」などの述語句群でしょう。これらの述語句群は、
いずれも平安朝の典型的な歌語となっています。まず「名にし負はば」といえば、業平の古今集
(巻第九・羇旅歌・四一一)にある長い長い詞書のある次の歌が有名です。
「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
定方自身も他に前述のような歌(後撰集・巻三・春下・一二五)を作っています。
他の例としては、紀貫之の次の歌です。
「名にし負へばしひて頼まむ女郎花花の心のあきはうくとも」(後撰集・巻第六・秋中・三四三)
ちなみに、「名」と「人」および「知」を入れた百人一首の対になる歌は、四一番歌「恋すてふ」 (壬生忠見)で、「よしもがな」は、六三番歌「今はただ」(藤原道雅)が対になります。
「恋すてふわが 名 はまだき立ちにけり 人 知 れずこそ 思ひ そめしか」
「名 にし負はば逢坂山のさねかつら 人 に 知 られでくる よしもかな」
「今はただ 思ひ たへなんとばかりを 人 ずてならでいふ よしもがな」
これらの歌からの替え歌は、次のようになります。「関西新空港の開港を寿ぎて」
「名に負ひて 浪の華咲く 浪速津に 国々の華 咲くよしもがな」
「名にし負ふや 浪速の海の 空湊 そと国の人 くるよしもがな」
紀貫之が女郎花を「名にし負へば」と名前の面白さを詠んでいるのに対して、同じ女郎花を定方は、 天の川に掛けて詠っています。
「秋ならであふことかたき女郎花天の河原に生ひぬものゆゑ」(古今集・巻第四・秋上・二三一)
*** 百人一首の百人家族 ***
百人一首では、右大臣、左大臣、大納言が各々二人登場しています。もう一人の右大臣は、
九三番歌「世の中は」(源実朝)で鎌倉右大臣と称されています。両人とも和歌を得意とした
ことで、定方は私家集「三条右大臣集」を、実朝は私家集「金槐和歌集」を残しています。
全く違うところが貴族と武士、京都と鎌倉、関係した歌人は兼輔と定家、六十年と三十年弱の
生涯の差、血縁に恵まれた氏族と恵まれなかった武家などでしょう。特に敷島の道についていう
ならば、定方はあくまでも教養の高さを示すための知的活動(兼輔の文学サロン)として、詠んで
いるのではないかと思われる調子の歌であるのに対して、実朝は、命をかけて詠んでいると
言えるぐらい、歌に力が入っているものが多いように感じます。定方のように技巧をこらして
言葉の世界を遊詠するか、言葉にいかに印象・感情・感覚を取り込むかは、人の和歌に対する
考え方の違いによりましょう。定方は右大臣らしく、実朝は若武者らしくということになります。
平成六年八月八日
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