◆ 漢詩想 ◆ 大江千里は、桓武天皇のお孫さんである阿保親王が曾祖父ですから、在原行平
・業平兄弟とも親戚関係になります。大江家は学問で天皇に仕える家柄のため、漢詩文をはじめと
する文学的素質の血筋が強いのでしょう。「古今集」の先駆けとされる「句題和歌」(大江千里集)
を作り、和歌集では先達的立場にあったとともに、この歌の背景にある漢詩にも深い教養を蓄えて
いたわけです。
大江千里に先立つこと約百年前、日本初の漢詩集「懐風藻」(七五一年)が出来上がって後、九
世紀は漢詩文の隆盛の時代を迎え、その後二百年経ってから五五番歌作者藤原公任による和漢朗詠
集(一0一三年)が編纂されたわけです。
この歌の元の漢詩は白氏文集の「燕子楼中霜月夜、秋来只為一人長」とされていますが、次の李白
の五言絶句にも一部通じるところもあります。
『静夜思』 「牀前月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思ふ」
この漢詩に対しては、次の小学唱歌がよく翻案されているようにも思います。
『旅愁』犬童球渓(明治四十年)
「更け行く秋の夜旅の空の わびしき思ひにひとりなやむ
恋しやふるさとなつかし父母 夢路にたどるは故郷の家路」
◆ 月かなし ◆ 中国の大陸において見る月にも、島国の日本の都で見る月にも、人は同じよう
な感情を懐くもので、ただ表現の仕方や度合が違うだけのため、歌意を同じくする翻案文学が誕生
可能な理由とすることが出来るのでしょう。この歌に並べられているように「月」、「秋」、
「物悲し」は、どうして一体になって使われてきたのでしょう。古今集では千里の歌の八番手前に
「読み人知らず」の歌として、やはり「秋」、「悲しきもの」の歌があります。
「おほかたの秋くるからにわが身こそかなしきものと思ひ知りぬれ」
(古今集・巻第四・秋上・一八五)
なぜ、太陽や星でなく月が、春・夏・冬でなく、秋に人を物悲しくさせるのでしょうか。「月」や
「秋」を「物悲し」い感情に結びつけている百人一首は四七番歌「八重葎」(恵慶法師)と五番歌
「奥山に」(猿丸大夫)などがあります。八六番歌「嘆けとて」(西行法師)では、さらに「かこ
ち顔」のように顔にまであらわれ、「涙」まで出るようになっています。
(註)月を見る心については第五十七話を参照願います。
◆ 翻 訳 ◆ 大江千里の歌のように翻案による歌作りの場合は、まだ自由さがありますが、
翻訳となりますと、大変な困難さが伴います。平成六年五月二十四日の読売新聞の記事によりますと、
「万葉集全巻―三十年がかり―仏語に完訳」というパリ大学名誉教授ルネ・シフェルさんの偉業を
紹介しています。万葉仮名は日本人にとっても古典として読みにくい文学であるため、さらにフラ
ンス語に変換する作業ですから、三十年間かかっても不思議ではありません。全部で四五一六首あ
るわけですから二〜三日で一首の翻訳が必要な大変な作業になります。「古今集」「新古今集」など
も並行して翻訳を続けたそうで、翻訳の基本である「一語一語を正確に」「千三百年前の万葉歌人
の心・感情を」「正しく伝えたい」夢を達成したわけです。
シフェルさんの完訳後の総評として「表現や手法は異なっても人間の心の底に流れる思いは、千年
以上前の日本人も、我々ヨーロッパに生きる現代人も同じ」。だからこそ、仏語完訳ができたので
しょう。日本人は、古くから大陸の文化を栄養源にして、日本独自の文化を創り出してきた背景が
ありますから、「漢字文化」を「ひらがな文化」に変換することは、シフェルさんの言うような
「クロスワードパズルのようだった」というような苦労はないはずです。千里もこの歌以外にも、
漢詩翻案和歌をいくつも作ったと思われますし、彼の先輩や後世の文人によるこの種の和歌も当然
多数あるわけです。五言絶句の場合、表現したい内容を二十語で起承転結を行なっているわけです
から、日本文化で言えば五―七―五文字=十七文字の俳句ぐらいに当りましょうか。
◆ 漢和翻案 ◆ ひとつ漢和変換を試してみましょう。
(その一)盛唐・杜甫・絶句 江碧鳥逾白 来る春に
山青花欲然 息吹くものみななつかしく
今春看又過 おもふふるさと
何日是帰年 いつの日帰らむ
(その二)中唐・柳宗元・江雪 千山鳥飛絶 人見えぬ
万径人蹤滅 深山の雪に
孤舟蓑笠翁 鳥も離れ渓谷にいざよふ
独釣寒江雪 翁のつり舟
(その三)明・高啓・尋胡隠君 渡水後渡水 春風と花にひかれて
看花還看花 川越えておもはず到る
春風江上路 わが友の家
不覚到居家
◆ 数概念 ◆ 大江千里の名前につけて思うことは、平安朝の数の概念はどのようになって
いたのかということでしょう。遡ること古代では、どの時代で、どの程度の計算ができたので
しょうか。物の本(「山内俊平著:科学おもしろ数字ブック」)によりますと、命数法(数の
かぞえ方)として、「ひと」「ふた」「み」「よ」「いつ」「む」「なな」「や」「ここ」
「とお」、ときて「もも(百)」「ち(千)」「よろず(万)」とを組み合わせてゆきますと、
一度に「やおよろず(八00万)の神」まで、さらに「よろずよろず」で一億ともなります。
平成の現代では日常生活において、兆(ちょう)の単位まで知っていれば十分です。(国家
予算が数十兆ですから)。もっとも和算では、大数はその上も、京、垓、稀、……無量大数
(一のうしろに0が六十八個)まであり、少数は、分、厘、毛、……清浄(小数点以下に0が
二十一個)もあります。
記数法としてのアラビア数字、0、1、2、3、……はヨーロッパ経由で導入されたもの
ですが、古代日本では、漢数字が使用されていたのでしょう。日本におけるもっとも古い文書で
数字はどう扱われていたのでしょう。例えば、十七条憲法を制定した聖徳太子はいくつまで数える
ことができたのでしょう。日本書紀・允恭天皇四年の条「氏姓の混乱」(芳賀幸四郎
「日本史研究」)についての記述に「百姓」「百寮」「万歳」「万姓」などの数詞が出て
きていますから、「よろず」の単位で十分事足りたのではないでしょうか。
大江千里自身、「千」の文字を名前にいただいているわけで、名にふさわしい歌を百人一首に
撰歌してもらったことになります。百人一首の作者の名前では、数詞として「三」と「二」が多く、
三条右大臣、儀同三司母、大弐三位、三条院、二条院讃岐、従二位家隆などになります。ちなみに、
大江千里の弟は千古で、兄弟で千をもらっており、平成の人々からみてもまことに現代的な名前で、
いわゆる芸能産業界の芸人(タレントという)の名前にありそうです。それにしても大江千里の
名前は百人一首の中でも最も「モダン」な名前と言えましょう。
*** 百人一首の忘備録 ***
大江千里の歌は、前述の杜甫や高啓の漢詩的発想と思えるような「千々」と「ひとつ」が、対照的に使われています。
このような二語が対語になった例として古今集では次のようなものがあります。
「緑なるひとつ草とぞ春はみし秋は色々の花にぞありける」
(読人不知・秋上・二四五)
「しら露の色はひとつをいかにして秋のこのはをちぢに染むらむ」
(敏行朝臣・秋下・二五七)
「いろかはる秋の菊をば一年にふたたびにほふ花とこそ見れ」
(読人不知・秋下・二七八)
「わが君は千世にやちよにさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
(読人不知・賀・三四三)
百人一首の中で数詞としての「ちぢ」(千々)が使われているのは、千里の歌だけですが、数詞 としては、「八十」(十一番)、「ひとたび」(二六番・五六番)、「八重・九重」(六一番)、 「三室」(六九番)、「幾夜」(七八番)、「一夜」(八八番)、「一人」(九一番)などです。 千里の数は千々ですから、千以上、足し算で二千、掛け算で百万となり、がぜんトップになります。
平成六年五月二十八日
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