◆ 伊勢寺 ◆ 京都と大阪のちょうど中間に位置し、どちらからでも電車で二十分ぐらいの
処にある町が高槻です。この高槻の地は、東に万葉集や勅撰和歌集に出てくる山崎、天王山と淀川を
挟んで石清水八幡宮や男山が、西には弁天山古墳や継体天皇陵、あるいは藤原鎌足の墳墓がある
ところで、北摂連山と南の淀川に挟まれた丘陵と扇状地の地形からなっています。古くは摂津国
嶋上郡と称されたところですが、京と西国の交通要衝の地として歴史的に古い地域に属しているため、
丘陵地や扇状地にも、旧石器時代から戦国時代まで様々な遺跡が後を絶たず発掘されております。
高槻駅前には、二四番歌「このたびは」の歌人である菅原道真公ゆかりの上宮天満宮が丘の上に
祀られており、その周辺の丘陵地には多くの寺があって、その中にはこの歌の作者である伊勢ゆかり
の伊勢寺があります。現在は深い竹藪の中にひっそりとした佇まいを見せているお寺ですが、
伊勢が京都から移り住んだ頃は、さぞかし見晴らしの良いところだったと思われます。なぜなら、
彼女から三百年後に、九九番歌「人もをし」の後鳥羽上皇が造営した水無瀬離宮は、伊勢寺から
ほんの目と鼻の先程度の近くで、美しい風景の別荘地であったと思われるからです。又伊勢寺の
東の山麓には、六九番歌「嵐吹く」の作者能因法師のゆかりの地になっていて、文塚などの石碑が
建てられています。このように高槻の地は十九、二四、六九、九九番歌が寄り集まっているところと
言えます。
その高槻に住まいした伊勢が、西の方角に位置する難波を採り上げて詠んた和歌が、彼女の
代表歌として百人一首に入っていることも偶然と言えないかもを知れません。平成の今でも伊勢寺は
近郊の平野に張り出した丘陵地の南端に位置しているため、生駒、葛城、金剛の山々が望め、遥か
西の方向にあたる難波潟に高層ビルディング群も望めます。多分、伊勢は難波潟へ出かけた経験が
あったのでしょうか。あるいは高槻の南の淀川縁の葦を見ながら詠んだのかも知れません。
近江の海から下ってきた水が巨椋池に入り、更に南下して難波潟に注ぐわけですが、この川沿い
にはどこも葦が茂り、葦の間越しに北摂の山並みが見える川下りの風景であったと思われます。
◆ 短き葦の節の間 ◆ この歌では難波潟が歌枕になり、葦の節を引き出しています。難波潟は
干潮時に干潟になるところで、こういう処は葦の生い茂りやすい場所であったのでしょう。平安
当時の沿岸地図を見ますと、現在の大阪市の半分以上がこのような干潟であったと想像されます。
なぜこのようなところが「なには」なのでしょうか。現在「なには」として用いられている漢字は、
難波(踊り、浄瑠璃など)、浪速(大阪市の一区)、浪花(節など)などですが、物の本(広辞苑)
に依りますと、魚(な)庭(にわ)とのこと。
さてこの歌を一口で言いますと、「少しも逢えずに暮らせとは」となり、この「すこしも」の
例えのために、まず難波潟があって、そこに葦が生えていて、その葦の節の間が短かい(少し)と
いう比喩の表現です。節の間は物理的な短かさの例えですが、ここでは時間の短かさ(ほんの
少しの間)と言うことでしょう。平安朝の人々は短かいことを言うに葦の節の間を持ってきた
わけですが、平成現代の用語では「束の間の恋」などと一握りの手の長さを持って言いますし、
他に短い時間の例えには目を用いて「瞬く間」、呼吸を用いて「息吐く間」、声を用いて
「あっと言う間」等と言うところです。その他の表現としては、「間一髪」、「目と鼻の先」、
「手の届く距離」などでしょう。
束の間と葦の節間とはどちらが短いのでしょう。葦の節の間を測った例(織田正吉「百人一首」)
では、十七、八センチメートルから二十数センチメートルで、束の間は指四本分ですから、せいぜい
十センチメートル前後でしょう。当然平成現代の恋の方が、平安の男女が恋しく思う期間よりも短い
と言うことになります。確かに平成の男女の間は、特に人気取りの世界では、くっついては離れ、
離れてはくっついて、とっかえひっかえ、いやはやお忙しいことです。
さて、「難波潟」と「葦」は、「短い間」を引き出すための縁語で、これと同じ二語を使った歌は、
八八番歌「難波江の」(皇嘉門院別当)であり、「難波」と「逢は」の共通語は、二十番歌「わび
ぬれば」(元良親王)で、次のように比較されます。
十九番歌 難波潟短き葦の節の間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
八八番歌 難波江の葦の仮寝の一夜ゆえみをつくしてや恋ひ渡るべき
二十番歌 わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
十九番の歌での作者は会いたい相手に逢えていない状態です。ちなみに、「逢」の字を使った 歌には次のように対になって三組有ります。逢はむー二十、七七番歌、逢坂ー二五、六二番歌、 逢ふことー四四、五六番歌。
伊勢の時代(九00年前後)も千百年後の平成の時代も、男女間では「逢ふ」か「逢へず」かが 最大の関心事であることに変りありません。逢うことの空間的、時間的な容易さ、あるいは物理的な 手段(手紙、電話、録音、写真、録画、等)の多さでは、平成の時代は比較にならないぐらい発達 しています。余りに容易で、あまりに手だてが有りすぎますと、男女双方ともお互いに思う気持ちが 醸成されず、甚だ関係はひからびたものに成らざるを得ないでしょう。なかなか逢えないために 思いが募るのに、いつでも逢えると思えば熱も冷めるというものです。
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 渾 名 ◆ この歌の作者「伊勢」とは、父の官職がそのまま自分の代名詞に使われている わけです。百人一首の女性でもう一人「伊勢大輔」がおり、「殷富門院大輔」が思い出され、 「門院」よりさらに「皇嘉門院別当」、「待賢門院堀河」などが思いだされます。又、「伊勢」の ように國の名も多く使用されており、「和泉」、「伊勢」、「相模」、「周防」、「讃岐」、 「紀伊」、等が挙げられます。
*** 百人一首の忘備録 ***
「あし」には様々な漢字があります。漢和辞典に依りますと、
(その一)葦 は、葭の大きなもので、一説に蘆と同じ
(その二)葭 は、葦のまだ秀でぬもの、よし
(その三)蘆 は、「あし」、「よし」、「葦」のまだ穂を出さないもの
「あし」は、凶、兇、匪、悪などの「あし」をあしと忌み、同じ漢字を書いて「よし」という
ことがあります。
ちなみに大阪と神戸の中間にある「あしや市」は、「芦屋」と書いていますが、蘆の略字でしょう。
かって芦屋の海辺は蘆で覆われていたから「あしや」なのでしょう。「よしや市」とは言い
にくいですね。
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