◆ 六歌仙 ◆ この歌の原典は古今和歌集で、同集には業平の歌は三十首選歌されています。
この和歌集の序に編者の紀貫之などは六歌仙を選定し、在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、僧喜撰、
小野小町、大伴黒主を挙げています。彼の歌は、「その心余りて言葉足らず。しぼめる花の色なくて、
にほひ残れるが如し」と評されています。この「ちはやぶる」の歌では、その批評が当てはまるのか
どうか、どこが「心余りて」で、どこが「言葉たらず」か、今一つはっきりしませんが、どうも
一般に耳慣れない華麗な言葉が有りすぎて、作者の真意が隠れているように思えてなりません。
従がって「にほひは薄れたのに色はあせていない花」と言った方がよいようにも思えます。
超一流の歌学の大家である紀貫之の言を批判するようで気が退けますが。
ちなみに、紀貫之は業平の三倍に当たる九十五首の和歌が古今集に採られています。
◆ 想像力 ◆ この歌は龍田川に行って、現場で詠んだのではなく、屏風の絵を見て詠んでおり、 詠み人にもう一人素性法師(僧正遍昭の子息)というお友達がいて、彼も古今集・巻第五・秋歌下に 業平の歌の一番前、二九三番に並んで詠んでおります。
「もみぢ葉の流れて泊まる湊には紅深き波や立つらん」
この歌は屏風の場所から更に流れ流れて、川下の湊まで思いを巡らし、想像を大きくして、平易に
詠んでいますから、業平の歌よりすんなり理解できます。逆に業平のように文章を倒置していません
から、平易すぎて工夫がないと見られるかも知れません。
それにしても当時の人は簡単に現地に現物を見物に行くことが出来ませんでしたのに、一言の人の
噂や、一枚の絵からあれやこれやと自分なりに想像を逞しく働かせております。その想像の世界は
現代の人からは考えられないほど広く深く世界を広げる力を持っていたものだと感心させられます。
現代人は情報に押しつぶされて、自分の考える力がなかなか発揮できません。小さい頃から
想像力を養っておりませんから、想像の仕方もありません。従がって思考の世界は大変狭く、自分
自身でさえよく分かっていないのではないかと思うほどです。
平成現代のように情報が多いことも考えものですね。業平の時代には一首の歌も、一冊の歌集も、
人の一言も、すべて自分の耳で聞いて、自分の手で書くしかないのですから、情報は非常に限られて
います。情報が少ないために、よけい情報に敏感であったのでしょう。
同じ竜田川のもみぢ葉が流れている屏風(その屏風も今では大きな寺院か、大きなホテルや集会場
などに行かないと見られなくなりましたが)を見た場合、業平は想像豊かに華麗な歌語を駆使して
千年も生き抜ける言霊を造り出したのに対して、平成の人々の場合はどうでしょう。よほどの詩人か
大歌人でない限り、「ああきれいな日本画だなあ、いや大和絵かな、いくらするのかなあ。家に
買って帰っても、置くに相応しい部屋がないどころか置ける広さの部屋自身が無いなあ。」と、
絵そのものに関心を持たず、鑑賞とは関係のない自分の周りのことに気を使うのがせいぜいという
ところでしょう。悔しいけれども、とても「唐紅に水括る」とか「紅深き波や立つらん」等と
言えないでしょう。
◆ 紅葉の名所 ◆ 古今集に依りますと、当時の紅葉の名所は龍田川で、桜の名所は吉野山 でした。古今集の紅葉の歌は、百人一首では猿丸大夫の歌とされている「奥山に」の歌を初めとして、 二十から三十首ほどあるなかで、龍田川の紅葉は巻第五・秋歌下に集められていて、前述の二首の 歌以外に八首ほど並んでいますが、業平と同じ思考の世界と見られるのは二五四と二八三番歌で、 二九三番歌の僧正遍昭と同じ想像の世界にあると見なされるのは、二八四、三0二及び三一一番歌 です。
(二五四)ちはやぶる神奈備山のもみぢ葉に思ひはかけじうつろふものを (読人知らず)
(二八三)龍田川もみぢ乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ (読人知らず)
(二八四)龍田川もみぢ葉流る神奈備の御室の山に時雨降るらし (読人知らず)
(三0二)もみぢ葉の流れざりせば龍田川水の秋をば誰か知らまし (坂上是則)
(三一一)年毎にもみぢ葉流す龍田川湊や秋の泊まりなるらん (つらゆき)
平成の竜田川は、人口増による宅地開発、市街地化や河川汚染などの現象のため、大変貧弱な 紅葉の名所になってしまっています。それに代わって現代では当時の竜田川のような飛びきりの 紅葉の名所はなく、京都周辺では、嵐山、高雄神護寺、洛北大原の里、奈良では、多武峯や談山 神社で、大阪では箕面公園などでしょう。千年の時の流れは、天然現象の場所さえも変えつつある のです。果たして千年後の紅葉の名所は何処でしょうか。いやその前にまだ日本人は紅葉に美を 認める心の余裕を持ちえているでしょうか。
◆ 業平づくし ◆ 在原業平は、平城天皇のお孫さんですから、大変位の高い皇族になります。
一番前の第十六番歌歌人行平とは兄弟で、百人一首に選ばれた唯一の兄弟ペアです。兄弟そろって
毛並みも才能も超一流であった歴史上の人物と言えるでしょう。特に弟さんの業平は和歌史上でも
歌物語史上でも話題に事欠かない人物だったのですから。
在原業平と言えば伊勢物語。伊勢物語と言えば、在中将の「むかしをとこありけり」で始まる
歌物語の一番手であり、特に第九段の東下りの旅の部分には「かきつばた」の歌や「都鳥」の歌が
挿入されている事でつとに有名です。
「平家物語」でも「海道下り」の段に、「・・・かのありはらのなにがしの、からころもきつつ
なれにしとながめけん参河国八橋にもなりぬれば・・・・」と歌い込められ、後々多くの諸文芸物に
登場してくることになるのは、いつに歌物語に先鞭をつけたからでしょう。
歌物語の内容そのものよりも、とにかく業平は小野小町が美女の代名詞であるように、
「ますらを」としての美男子の代表選手のように言われてきたことの方が有名なのです。本当に
そんなに美男子だったのでしょうか。もっともも美男美女という概念はその時代時代によって様々で、
奈良・平安時代の美女の代表とされる光明皇后や小野小町もよくよく見れば、平成の世ではあり
ふれた女性であるのかも知れませんし、逆に近代での美女の代表とされる田中絹代、高峰三枝子、
山本富士子さん型の美人も、平安朝の女御連の中には、飽きるほどいたのかもしれません。最近でも
落語家の柳亭痴楽の十八番ー痴楽青春日記ーにいうところの「鶴田浩二や金之介、それよりずっと
いい男」の見方でいうところの男は、業平の周辺には有り余るほどいたのかもしれません。
平成の世では後世の人々に伝える写真があるため、主観の入らない人物像を見ることが出来ますが、
業平の時代には写真に代わる物はせいぜい人の手になる似顔絵しか有りません。現代の私達には、
業平の克明な人物像が分かりませんから、せいぜい百人一首のカルタ絵で我慢することになります。
残念ながら、カルタ絵のお公家さんは、みんな同じように立派な方々に見え、どなたも業平さんの
ように見えます。
「いい男」というのは、美しい、凛々しい、逞しい、頼り甲斐のある男と言うことではなく、
いずれ庶民が囃し立てたことですから、「血筋がよい(大阪弁に言うところのーええしの子ー)」、
「財産がある(気前がよい)」、「女性にもてる(悪く言うならばー遊び好きー)」など、いわゆる
平成の世で言う「かっこいい(プレイボーイ)」男ですから、男なら誰しもそうありたいと思う偶像
(アイドル)で、必ずしも今で言う美男ではないと思います。
遊び人とも見たくなる業平さんぐらいになりますと、和歌の世界では狭すぎたと見えて、遊びの
世界(落語)まで人々を引き寄せています。すなわち落語一席を後世で作らせているのです。
関取「竜田川」や女郎の「千早さん」や「神代さん」も、業平のお蔭でこの世に出ることが出来た
のです。
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