◆ 記念の王朝舞 ◆ 梅雨の晴れ間の、しかし湿っぽく蒸し暑くもない、むしろすこし寒く感じる
六月下旬の夕べ時、京都の千二百年祝祭記念定期観光バスによる夜の散歩に出かけ、西陣近くで島原
遊郭の大夫を見て、京料理に舌鼓みを打ち、下鴨神社(賀茂御祖神社)で「平安貴族舞」と称した
笙や笛に合わせた十二単衣や小姿で舞う古式豊かな女人の舞を見物しました。雅楽も悠長なゆっくり
した物なら、舞そのものもゆったりとした、どちらかと言えば間延びしかねない物ですが、これこそ
雅の世界を表現しているという事なのでしょう。
夜の帳の下りた京都一古い神社の境内で、照明灯に映し出された舞楽殿での催しによって平安朝に
引き戻されたような印象を受けました。
◆ 五 節 ◆ 同様な情景を僧正遍昭(良岑宗貞)は歌にしたわけです。古今集の詞書では、
「五節の舞姫を見て詠める」となっております。「五節」とは、宮中行事の一つで、十一月中頃
行われる「豊明節会」という舞の公事の事です。宮中に於いて新嘗祭の翌日、天皇が舞楽殿で新穀を
召し、諸臣にも賜り、賜宴の後、舞楽や賜禄あるいは叙位などの儀が行なわれたものです。
もともと「五節」とは、遅・速・本・末・中声の五声の節のこと(広辞苑)だそうです。そういえば
下鴨神社の「平安貴族舞」の節は、この五節の緩く、早く、太く、細く、音に節をつけて奏されて
いたようで、ゆったりした宮中雅楽には聞えていても、そこには五節があるわけです。平安貴族の
物事は全てゆったりした運び方であることの理由の一つには、優雅な仕草以外に、想像するところ、
人々の服装や衣装の問題も併せて考えざるをえないと思います。「平安貴族舞」の解説によれば、
小うちかけ姿や十二単衣は重さが十二キログラム程度有り、自分自身の体重の四分の一から五分の
一程度にもなるわけで、纏っているだけで肩が凝るような重量物です。これで闊達な動きの舞を
舞うとなると、大変な労力が要りますから、どうしても緩やかな動きの舞に成らざるをえないの
ではないでしょうか。
◆ 衣 装 ◆ 「平安貴族」の衣装の目的は、衣服本来のいろいろな目的の内、主として身分を
示すこともさることながら、美しく飾ることに重点が置かれていたかと思いますから、生活着と
しての役目は非常に薄かったと思われます。
平安朝の十二単衣に比べますと、平成現代の服装は、着物から洋服が主とになり、非常に軽装化
されるとともに保温性、通気性に加えて、衣装性も十分に備わっています。それらの服の素地は
色々の素材が使われており、一人一人が着分けすること、すなわち多目的に着る物を身につける
習慣が一般化した事により、服装も千差万別になりました。極端な事例を並べてみますと、海水浴の
ための水着などは、ほんの布切れ一枚程度の物で、服装とは言いにくい類のものであり、宇宙探検の
宇宙飛行士の服装に到っては十二単衣以上の大層な装備で、多機能な衣服になっています。
色彩の点から平安貴族と平成高級官僚の服装を比較しますと、雲泥の差と言えましょう。執務の
内容や時節に合わせて、色彩豊かな衣冠束帯に対して、他方の衣装的な物と言えば、首飾りに属する
「ネクタイ」と称する布きれ一本で、他は目立たぬ地味な色合いの「背広」と称する実務的な既製の
定服(ユニフォーム)を着ているだけで、冠は何も無しという味気のない物です。冠に代わる肩書は、「名刺」と称する紙切れの上で代用されています。もっと楽しく面白く仕事をするためには、服装の色だけでも自由な物に工夫は出来ないものなのでしょうか。
平社員は白色から始めて、社長に近づくほど色彩は派手に多彩色な帽子や腕章、胸章などを付け、
場合によっては背番号の代わりに絵や図、模様を書くのも面白いでしょう。
千年後の日本人の服装はどうなっているのでしょうか。千年以上つき合ってきた日本古来のいわゆる
着物から西欧の服装に切り替え始めて約百年で、大変な服装革命が起こり、今や十二単衣は宮中の
行事にのみ見られるだけで、一般庶民の着物も、冠婚葬祭の一部に残っているのみになりました。
平成の世より千年後は、より豊かな色彩で多用式服装であることを期待したいところです。
*** 百人一首の忘備録 ***
この歌の用語を、百人一首の中で見た場合、対になっている歌が二、三あることが分かります。
例えば第一句の「天つ風」の「天」で始まる歌は、他に七番歌「天の原」のみで、第二句の「通ひ路」
も他に十八番歌「住之江」の「夢の通ひ路」のみであり、更に第三句の「吹き閉ぢよ」の命令語を
用いているのは、十一番歌「わたの原」の「人には告げよ」のみです。一方この歌が唯一の使用例で
ある語は、「天つ風」と「乙女の姿」でありましょう。(もっとも、お坊さんがどうして乙女の姿が
気になるのかなど、甚だ意外な組み合わせになっているのも、この歌の面白いところですが)いずれの
語句とも非常に優雅な情景を思い浮かべさせるものですから、宝塚歌劇団の女優「天津乙女」さんの
名前の様な引用がなされるわけです。 (註)「百人の歌苑」を参照願います。
この歌のもう一つの特徴は、地上の宮中の情景を天上へ繋いでいる「見立ての技法」と言われて
いることでしょう。天つ風に「雲の通ひ路」や「天女(乙女)」など、どこか童話風な浮き世離れ
した詠い風情になっています。宮中を引用した内容の歌は、他に六番歌の「鵲の渡せる橋」、四九
番歌「御垣守」、六一番歌の「九重」などですが、用語の婉曲的な表現の点では、六番歌と対に
なっているように思います。
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 僧正遍昭 ◆ 僧正遍昭の名前はこの歌に相応しくなく、仏門に入る前の憂き世では、かの
小野小町とも関係ありと言うことですから、むしろ俗名良岑宗貞の方が妥当な歌も多いようです。
僧正として「しばし留めむ」ものは、佛の姿の方が相応しいわけです。
「天つ風 往生の道 吹きあけよ 佛の姿 しばし祈らん」
古今集の序に紹介された六歌仙の六人の内、遍昭には「歌の様は得たれども、誠少なし、たとへば 絵に描きたる女を見て、いたずらにこころを動かすが如し」と、ここでも、お坊さんであるような ひとには不適当な表現が適用されていますし、彼は生涯女性とは無関係ではいられなかったのでは、 と思われるような歌も引用されています。
「名に愛でて折れるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人に語るな」
「むまより落ちて詠める」ですから、馬から落ちても女郎(花)はしっかり掴んでいたのか。
「吹き閉ぢよ」にしろ、「人に語るな」にしろ、どうもこの人は、人に命令するのがお好きな
ようです。
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