◆ 詞 書 ◆ 古今和歌集・巻第九・覊旅歌は、四0六番歌から四二一番歌まで、わずか十六首が
撰歌されているのみです。しかし、この十六首の歌の中から百人一首へは三首も選ばれており、更に
人麻呂(四0九番歌)や業平(四一0、四一一番歌)等の有名な歌には、長々とした詞書が載っており、
古今和歌集二十巻の中でも光り輝いている巻の一つでしょう。
篁の歌への詞書は、「隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人の元に
つかはしける」となっているため、流人の身で別れの歌を京の人に送ったことがわかりますが、
この詞書が無くとも、「二度と逢えない旅に船出した」という状況が伝わってきます。しかも華々
しい旅の門出ではなく、流刑地への罪に服するための旅であるため、誰一人見送る人も居なければ、
心境を託する人も居ない、事情が分からないため言ったところで何の気休めにもならない海人の
釣り舟へ呼びかけるしかない、と言う状況に置かれているわけです。まさしく残念無念の悲嘆の
歌声と言えるでしょう。
篁は「あまの釣り舟」に無念を託しましたが、これに似た事情に置かれた菅原道真は庭の梅に、
忠臣蔵の浅野内匠頭は庭の桜に無念を訴えました。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」
「風さそふ花よりもなほ我は又春の名残を如何にとやせむ」
◆ 文化使節団 ◆ 外国の進んだ文化を導入するために、日本は奈良に都がある以前より、
朝鮮半島諸国や、さらには中国大陸の国々と接触を保ってきました。特に国を挙げての国家行事
としては遣唐使ということになります。日本民族の文化移入手法は千二百年後の今日まで引き継
がれており、近世では明治維新前後に西洋の文明獲得のために、海外使節団を繰り出し、果ては
成人していない女子まで含めた国費留学生を次々と送り出しましたし、最近では第二次世界大戦の
敗戦後、今度は東方のアメリカ文化移入の為、官民共々あらゆる手段を使って全力を傾注したのです。
この調子で時代が流れて行きますと、千年後の日本民族は地球圏外の宇宙文明社会からの文化
移入にロケットを使った使節団を派遣していることになっていないでしょうか。
このように国の文化を引っ張っていく旗手としての遣唐使は大変な名誉であると共に、義務と
責任を背負っているわけです。小野篁は、六三0年に犬上御田鍬の第一回以来の第十七回遣唐副使に
八三八年に任命されながら、大使藤原常嗣と配船の関係で不服なことが起こり、乗船拒否にでた
ために、逆に隠岐へ流される身になったのです。四代前の御先祖に遣隋使小野妹子の大先達がおり
ながら・・・である。
この後、第十八回目の遣唐使は、菅原道真の進言で二七0年の歴史に終止符を打つことになり
ました。従がって百人一首で遣唐使に関係ある歌は、七番、十一番、二十四番の三首と言うことに
なります。
◆ 隠 岐 ◆ さて、小野篁が流された隠岐の地は罪人の流刑地として、彼以外にも歴史上
では何人も後例がでてきます。彼の流刑(八三八年)の三八三年後(一二二一年)後鳥羽上皇が、
四九四年後(一三三二年)後醍醐天皇が配流されました。お二人とも失意の内に流刑地で生涯を
終えますが、篁は罪を許されて都に戻ることが出来、参議・左大弁までの官職に就けたようです。
篁は隠岐島と具体的に言わず、本土から隠岐島まで島はありませんが、「八十島かけて漕ぎ出で」
多くの島伝いに沖合い遠くの島に行くといっています。当時は出雲の千酌駅(島根郷)から八十キロ
メートル沖合の隠岐まで舟で北上していたのではないかと思います。又当時の海上交通機関は当然
舟ですが、その舟も現在のように一時間半か二時間で辿り着けるのとは違って、甚だ心許ない人力か
風力に頼った舟ですから、一日がかりの船路ではなかったでしょうか。
さて、「八十島かけて漕ぎ出でぬ」篁は、その後はどのように隠岐において暮らしたのでしょうか。
古今和歌集・巻第十八・雑歌下・九六一には次のような歌が残っています。
「おもひきやひなの別れにおとろへて海人の縄たきいさりせんとは」
ーまさか、都遠く海辺のひなの地で海士の様な生活をするとは思ってもみなかった。ー
と嘆いているのです。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 舟の歌 ◆ 百人一首の中で「舟」の言葉が詠い込まれているのは、この歌以外、四六番歌の
「舟人」と九三番歌の「海士の小舟」の計三首です。これらの歌に共通する主題は、漁を職業と
する海人(海師、海士、蜑など)の所有する舟が引き合いに出されていることもさることながら、
いずれもが精神的に安定していない状態を比喩する河川や海上を舞台として、ゆらゆら揺れる舟を
引用しているのではないでしょうか。
これら三首の歌の中味を比較してみますと、
| 歌番号 | 初句 | 動作 | 場所 | 対象と関連語 | 歌人の居場所 |
|---|---|---|---|---|---|
| 七 | 天の原 | 振りさけ見れば | 三笠山 | 月ー春日 | 明州海岸 |
| 二七 | みかの原 | いつみきとてか | いづみ川 | 恋しー湧きてながるる | 木津川岸 |
| 七六 | わたの原 | 漕ぎい出てみれば | 沖合 | 白波ー雲居 | 海上遠望 |
ちなみに百人一首で詠われている職業としては、海士が最も多く、次に神主や官吏、宮城の守護、
関守、僧侶等となっています。
平安当時、甚だ心許ないものの代表例を水の上の舟と見ていました。たしかに、篁自身遣唐使と
してしっかりした舟を与えてくれないと、如何に天皇の勅命とはいえ、危険を冒してまで唐へ渡る
気はないと、はねつけたくらいですから、舟が如何に重要な交通手段であったかが分かります。
平成の現代であれば、むしろ舟は安定した乗り物で、自動車や自動二輪の方が危険な乗り物の代表に
なっています。それよりも不安定な物で、どちらを向いて動いているのか分からない物が、国の政治と
その心臓部である内閣の寿命です。民主主議体制下で数多くの内閣が組まれましたが、長期安定政権を
保った内閣は吉田内閣、佐藤内閣など数えるほどしか有りません。
「政界を 渡る内閣 舵を絶え 行方も知らぬ 政(まつりごと)かな」(総理大臣)
*** 百人一首の百人家族 ***
◆ 篁 ◆ 小野篁は、多情多感な人であったようで、不正なこと(遣唐使配船の不公平)に
かっと腹をたてたかと思うと、流罪の身になったらなったで、しょんぼりと嘆いてしまうところが
あるようです。尾崎雅嘉「百人一首一夕話」に依れば、「性質直言を好みてへつらはざる人なり
ければ、当世に容れられず、その上才を妬むもの多かりければ」遠流に処せられたとしております。
ここでいう才とは、彼の秀でた才能である漢学や漢詩文の博学のことを言うのでしょう。彼より
一世代若手には和歌の道に在原業平がおり、それに対抗する漢学の世界に小野篁ありとされたよう
です。
彼の学問の血筋は孫の代になって小野道風(八九六ー九六六)が書道の大家(三蹟の一人、
他に藤原佐理、藤原行成)として、小野好古(八八四ー九六八)が承平天慶の乱の武将として
名を高め、祖父としての面目を保っております。その中で、小野道風は、平成の世まで名は語り
継がれ、祖父以上に著名な人物になっており、さぞかし篁も孫には鼻高々と言うところでしょう。
漢詩文はともかく、和歌も古今集に幾つか採られているところを見ますと、和漢両刀使いだった
ようです。
「然りとて背かれなくに事しあればまず嘆かれぬあなう世の中」(古今集・巻十八・雑下・九三六)
ー憂き世の中への嘆きごと、どうしょうもないとー
「泣く涙雨と降らなん渡り河水増りなば帰る来るがに」(古今集・巻十六・哀傷・八二九)
ー妹の死に対して、悲しみの涙で三途の川水を増やしてあの世へ行かせたくないとー
あるいは、花の色に鑑賞眼を据えた五感のしっかりした歌二首。
「花の色は雪に混じりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく」(古今集・巻六・冬・三三五)
「水の面にしずく花の色さやかにも君が御影のおもほゆるかな」(古今集・巻十六・哀傷・八四五)
平成六年六月三日
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