◆ 月ロケット ◆ 平成六年五月三十一日の新聞記事に依りますと、日本も三十年後(二0二三年)
には六人が滞在可能な月面基地を完成させる計画があることを報じています。平成五年には日本も
既に持ち前の技術である国産大型ロケットによって、人工衛星を打ち揚げることができるように
なっています。この技術を発展させて月へ日本人を送る込む計画を立てたわけです。
平安の昔から月は眺めるものとされてきたわけですが、既に一九七0年代に人類は月に足を踏み
入れるようになりました。着陸して見れば月は無味乾燥であったため、「これだったら、月の世界を
いろいろに夢想していた方が良かった」のかもしれません。
しかしながら、人間と言う動物は未知な事に対する好奇心は強く、夢想の世界を現実の世界へ
引っぱり出したがるものなのです。平成の私達が見ている月も、百人一首の歌人達が見た月も同じ
月だと思うとき、心に通じるものを感じます。私達が月を見る時間や場所や心の状態によって、
月を様々に感じるように、彼等も多種多様に感じていたわけです。
仮に月がなかったとしたら歌の世界はどうなっていたでしょうか。
◆ 百人一首の月 ◆ 百人一首で採り上げられた月は、「有明の月」、「夜半の月」、「雲隠れの
月」、「雲間に漏れ出づる月」、「傾く月」、「昇る月」等約十首ほど有り、如何に和歌の対象に
なりやすい天然事物であったかが分かります。
これらの十首ほどの月を詠んだ百人一首の和歌の中で、最も印象に残る歌の中に、この阿倍仲麻呂の
歌があります。何の言葉の技巧を凝らすことなく、しかも滑らかな詠い流しであり、且つ唯一外国で
詠んだ歌であることに感慨を覚えるのです。
当時の日本(平城京)と唐(長安)の隔たりは、平成の私達が地球と月の隔たりに持つ距離感覚
以上のものであったと考えられます。月へはロケットで行ってロケットで確実に帰って来られますが、
当時の遣唐使は船で行っても、必ずしも日本へ戻れる保証はなかったのですから。現に阿倍仲麻呂は
吉備真備と共に、十七才の年(七一七年)第八回遣唐使で入唐後、三十六年の時を経て、七五二年に
帰国しようとしたわけですが、船が難破して中国に押し戻されていますし、奈良・唐招提寺の開祖・
鑑真和尚が数回の渡海の試みの後に、初めて奈良の都に入られたと言う話も有名です。
◆ 留学生 ◆ 阿倍仲麻呂は、七十三才で唐という異国の地に没するまで、留学生として
五十年以上も長安に滞在したわけですが、生まれ故郷に帰りたいという気持ちが出てきた頃から、
見る物聞く物全てが平城京に結びついてくるため、例えば月を見る毎にこの歌を口にしては故郷への
懐かしさを反芻していたのではないでしょうか。
さて、外国文化を吸収するためには、留学生が行って帰ってきて初めて留学したことになるわけ
ですが、仲麻呂の場合は行ったきりで、二度と母国に文化を植え付ける機会が与えられませんでした。
しかし、彼の帰郷の気持ちは、その子供によって叶えられたことが伝わっております。すなわち
唐の長安で生まれた子が成長して二世として平城京に入京し、亡父の無念を晴らしたという事です。
◆ 遣唐使 ◆ 記録に依りますと、遣唐使は六三0年に犬上御田鍬の第一回以来、八九四年
菅原道真によって第十八回目が廃止されるまで、約二百六十年間、さらにその以前の遣隋使まで
含めますと、約三百年間に渡って大陸文化の導入に国力を傾けたわけで、それらを実行した当時の
人々の努力には頭が下がります。日本民族は遣隋使以来、西欧及び欧米文明の吸収に千二百年も
かかって力を注いできたと言えましょう。その結果、その文明度は地球上でもほぼ先端を行くほどに
高度になりましたから、もはや輸入する文明がなくなりました。さて、次の千年はどうすればよい
のでしょうか。
今度は千二百年分蓄えてきた文明を基礎にして、文明を発信し、文物を輸出する側に回り、諸先達の
諸民族に恩返しで報いるべきでしょう。三十年後に六人が滞在する月面基地から、地球の各国の
ためになる月の情報や地球の観察結果を通信してみてはどうでしょうか。地球規模の文明の受け
渡しで、国境を越えた人類共通の文明構築の一助となると思われます。
◆ 土佐日記 ◆ この歌は仲麻呂が帰国の途上、大陸明州の海岸に於いて、唐人との送別会の 席上、月を見て詠んだと古今和歌集に言及されており、後撰和歌集・羇旅の一三五六番歌に紀貫之が 次のように詠っています。
「都にて山の端に見し月なれど海より出でて海にこそ入れ」
詞書では土佐より上京の船の中で、「昔阿倍仲麻呂が唐土にて、振りさけみればといへる事を
思ひやりて」となっております。このことより、仲麻呂の歌から貫之まで百五十年が経っている
わけですが、当時既にこの仲麻呂の歌は有名になっており、少なくとも当時の知識階層の人々には
知られていたという事、更に仲麻呂の歌の望郷の念少なからぬ心情としての「振りさけみれば」と
いう詠い方に非常に強い同情の念を持っていたという事が分ります。
「振り放け見る」とは、振り仰いで遠くを見ると言うことですから、仲麻呂の気持ちは既に平城京に
あり、幻影として東海上に「春日なる三笠の山」を見ていたのではないでしょうか。やや幻滅ですが、
地球物理学的に明州(上海の南方、現在の寧波附近か、東経一二一度)と奈良の三笠山(東経
一三六度)に時差は、おおよそ経度差十五度の一時間ですから、明州の海上に月が昇る一時間前に
既に三笠山に月が出ていることになります。
紀貫之が海上に昇り海上に沈む月を見て、仲麻呂の歌を詠んだ状況も、海上に出た月を見て詠んだと
見ているわけで、両人とも懐かしい都に戻る途上であり、相通ずるところがあったのでしょう。
繰り返して言いますと、両人とも強い望郷の念が海上の波間に出た月を山の端に出た月の透視像と
して、目に結んでいたと推察したいところです。
*** 百人一首の忘備録 ***
「天の原振りさけ見れば」の用語は、仲麻呂と同時代人である山部赤人の百人一首の四番歌 「田子の浦に」に対する万葉集・巻第三・三一七番歌の長歌の部分にも使われており、その他にも 巻第二・一四七番歌にも出ているところからみますと、この用語は当時の常套用語だったのかも 知れません。それぞれ次のように詠われています。
「・・・・富士の高嶺を天の原振りさけ見れば渡る日の・・・・」
「天の原振りさけ見れば大君の御命は長く天垂らしたり」
歌の頭に「・・・原」を持ってきている百人一首は、他に二七番歌「みかの原」(中納言兼輔)、 十一番歌及び七六番歌「わたの原」(参議篁、藤原忠通)等で、いずれも海や川に関するところで 詠まれており、この四首のうち十一番歌以外の三首の取合せは、次のように興味ある共通点を持って おります。
| 歌番号 | 初句 | 動作 | 場所 | 対象と関連語 | 歌人の居場所 |
|---|---|---|---|---|---|
| 七 | 天の原 | 振りさけ見れば | 三笠山 | 月ー春日 | 明州海岸 |
| 二七 | みかの原 | いつみきとてか | いづみ川 | 恋しーわきてながるる | 木津川岸 |
| 七六 | わたの原 | 漕ぎ出てみれば | 沖合 | 白波ー雲居 | 海上遠望 |
**** 百人一首の道草 **** 「花札歌」
阿倍仲麻呂の「三笠の山にいでし月かも」の歌から想像される光景は、正しく花札の柄そのもの
です。一年十二ヶ月の花札の柄を詠んでみましょう。月ごとに絵模様から連想される百人一首の歌を
照合してみます。
睦月 松に鶴 ・・・・・三十四番 藤原興風
松に鶴 千歳寿ぐ もろともに 萬目出たし 千代に八千代に
如月 梅に鶯 ・・・・・三十五番 紀貫之
人はいさ 巡る春ごと 鶯は 梅の香の 故郷を訪ふ
弥生 桜に幕 ・・・・・六十六番 前大僧正行尊
徒にせじ 春の宴の 名残り香の 舞飛ぶ花は 幕にかこはむ
卯月 花に時鳥・・・・・八十一番 後徳大寺左大臣
時鳥 去りにし藤の枝 ながむれば ただ紅の 色紙残れる
皐月 菖蒲に八つ橋・・・六十一番 伊勢大輔
皐月待つ 菖蒲の池の 七曲がり 渡す八つ橋 九重の苑
水無月 牡丹に蝶 ・・・・十二番 僧正遍昭
あでやかな 牡丹の花と 色きそふ 羽交も綾に 舞ふはてふてふ
文月 萩に猪 ・・・・・三十七番 文屋朝康
咲き乱る 萩の花間に 色添へる 突き出したる 猪の鼻
葉月 芒雁に月 ・・・・七番 阿倍仲麻呂
花かるた 振り分け見れば はつき札 芒の山辺に 出でしは端月
長月 杯に菊 ・・・・・二十九番 凡河内躬恒
白菊の 花杯の うま酒に 浮かべる月は 長月の月
神無月 紅葉に鹿 ・・・・五番 猿丸大夫
花かるた 紅葉に鹿の 影札を 打ち当てし時 神無月よし
霜月 柳に燕 ・・・・・八十七番 寂蓮法師
しめじめと 霜月の雨 そぼちつつ 燕飛び降る しだれ柳に
師走 霧に鳳凰 ・・・・二十六番 貞信公
冬枯れの 夕日の丘の 桐の葉は 木枯らしに舞ふ 鳳凰のごと
平成六年六月四日
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