◆ かささぎ ◆ 平成六年(平安遷都千二百年の年)五月十七日の朝の「NHKテレビニュース」
では、「今日の話題」として鵲のひな(幼鳥)が放送されました。佐賀県杵島郡山内町は県西部に
位置している陶器で有名な有田焼の里の東隣り町になりますが、そこにある佐賀県畜産試験所では、
鵲の卵を孵化させた雛を飼育しているというものです。
鵲は首のあたりが黒く、腹部の白さと対称的で、どちらかと言えば白と黒の淡彩色の鳥です。
生息地は北半球の広範囲な地域に広がっていますが、日本では佐賀県だけになっているために県の
鳥に指定されています。
百人一首に関係ある県鳥は、山鳥(群馬県、秋田県)、千鳥(三重県)、郭公(香川県、岡山県)
などです。百人一首の中の鳥は、この鵲の他に、山鳥(三番歌)、鶏(六二番歌)、千鳥
(七八番歌)、時鳥(八一番歌)等が出てきます。「七夕の夜の天の川に鵲が渡す想像上の橋」と
「宮中のきざはし」とに懸けた橋という言葉を引き出すため、歌に詠まれたものです。他の歌の鶏と
鳥は故事に基づいた意味の深いものになっています。
既に家持の時代に七夕の話が一般に知られていたようで、星座の伝説は人類の歴史と共に千年以上に
渡って築かれてきた文化ですから、大切に語り継がれていかなければなりません。
◆ 七 夕 ◆ さて、歌に持ち込まれた「鵲の橋」は、牽牛と織女が一年に一度会えるように、 鵲が羽を拡げて渡しを作る、すなわち恋の逢う瀬の手助けをするという古代のロマンと夢をかき たてるための舞台になっております。七夕は遠い昔から日本人に好まれてきた寓話の一つです。 万葉集では、巻十・秋雑歌の一九九六番歌から二0九三番歌までの九十八首が七夕特集になって います。代表的な二首として「彦星」と「七夕姫」を詠い込んでいるものを挙げますと、次のように なります。
「天の川舵の音聞こゆ彦星と七夕姫とこよひ逢ふらしも」(二0二九)
「彦星と七夕姫と今夜逢ふ天の川門に浪立つなゆめ」(二0四0)
古今集では巻第四・秋上一七三番歌から一八三番歌まで七夕の歌になっています。読み人知らずの 歌二首として、
「天の川紅葉を橋に渡せばや七夕姫の秋をしぞ待つ」(一七五)
「恋ひ恋ひて逢ふ夜は今宵天の川霧立ち渡り明けずもあらなん」(一七八)
さらに興味ある点は、紀友則(一七七)、藤原興風(一七八)、凡河内躬恒(一七九、一八0)、 素性法師(一八一)、源宗于(一八二)、壬生忠岑(一八三)と百人一首の歌人が六人も並んで 七夕を歌っている点です。それだけ当時の人々には七夕は夢の素材として夢をかきたてる伝説で あったのでしょう。大伴家持の歌は次のようなものです。
天の川(天漢)を仰ぎていささか懐を述ふる歌一首、天平十年(七三八)七月七日、
「たなばたつめし船乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ち渡る」(巻第十七・三九00)
◆ 宮仕え ◆ 牽牛星は織女星に一年に一度しか逢えないわけですから、喩えてみれば単身赴任の
平成のサラリーマンのようなものです。彼等は家族の元を離れ、家族を思い、家族のために働いて
いるのです。さらには、海外勤務の場合の家族は、親族の居る祖国からは遠く大海で隔てられながら、
故郷を思いつつ働いているのです。単身赴任の人々はある意味で彦星であり織女であるのです。
平安の時代では平成の世ほど多くの人が同時に他国で任務に就くことはなかったでしょうが、
それでもかかりの人が遥か京の都を離れた遠国に赴任していました。防人もその例です。
サラリーマンという宮仕えの身は、今も昔も同じで、大伴家持もご多分に漏れず宮仕えの身として、
北国の越中守として赴任したことがありました。宮仕えの身ですからこの歌のように夜勤の場合も
あったのでしょう。
宮仕えと言えば、壬生忠岑がこの歌を素地として、仕えている主殿の夜のお供をした際に一首
ものして、面目躍如たるところを示したという逸話が大和物語にあります。
「鵲の渡せる橋の霜の上を夜半に踏み分け殊更にこそ」
宮仕えとは辛いものと言われながら現代に到っているのです。
家持の赴任地での歌の例としては、天平宝字三年(七五九年)正月三日、四十二才の時、
因幡国庁での白鳥の歌です。
「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」(巻第二十・四五一六)
この歌で万葉集は全巻を閉じ、家持自身も天平五年(七三三年)、十六才の時、叔母の坂上郎女に
教えてもらいながら始めたという歌詠みの人生二十六年を閉じているのです。本当にいろいろな点で
時代の終わりを告げる歌と言うべきでしょう。そうみますとこの歌の裏には左遷の身の家持の願いと
或決意が感じられるように思います。
・・・・この歌でもってこれまでの報われぬ人生を歌い続けてきた自分の生涯の詠い終いとしたい。
思えば我が人生は切ない、また辛い事への嘆きに終始した。これからは、自分にも良い事が続き、
良い人生が開けてゆきますように。・・・・・・
と詠んだのではないでしょうか。
現実は残念ながらその思いに反したのでした。保護者的存在の橘諸兄を亡くしてからの彼の
後半生である四十才から七十才近くまでは大歌人でありながらも、一首も詠うことがなかったのか、
あるいは残されなかったのか不明です。代わりに武をもって天皇家に仕えるという武門の家の長と
して一途に宮仕えに励んだようですが、十分に報われることなく、従三位中納言時節征東將軍として
陸奥で病死すると共に、天忍日命以来、彼の父である大伴旅人まで綿々と続いてきた名門は没落し、
歴史上から姿を消していったのです。しかし、残った万葉集が彼の名誉を歴史に繋ぎ留めたのです。
◆ 万葉集 ◆ 「万葉集」編者の中心人物とされる大伴家持の人生は、必ずしも彼自身が望んだ ものではなかったにしろ、多くの名歌とそれの受け皿としての万葉集を後世に残すことによって 山上憶良などが切望した「おのこ」や「ますらを」としての「よろづ世に語り継ぐべき名」や 「後の世に聞き継ぎ人も語り継ぐ」名を立てたのです。父の旅人ともども武門の名家と語り継がれて 欲しいというのが家持の願いであったのです。
「大伴の名に負ふ靱帯びて万代に頼みし心いづくかよせむ」(巻三・四八0)
「剣大刀いよよ研ぐべし古ゆさやけく負ひてきにしその名ぞ」(巻二十・四四六七)
「磯城島の倭の国に明けき名に負ふ伴の緒心努めよ」(巻二十・四四六六)
家持は自分の願いとは別に、偉大な歌人として、日本民族の心の中に永久に生き続けることが 出来たのです。万葉集・巻第十九の始めと終わりを飾る歌として次の四首が有名です。
ー桃の花と乙女の華やいだ情景
「春の苑紅匂ふ桃の花下照る道に出でたつ乙女」(巻十九・四一三九)
ー春の時節の何とも言えぬ物憂さを見ている心
「春の野に霞み棚引きうらかなしこの夕影に鶯鳴くも」(巻十九・四二九0)
「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心かなしも一人し思へば」(巻十九・四二九二)
ーじっと目を閉じて時や季節を探ろうとしている感覚
「我がやどのいささむら竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも」(巻十九・四二九一)
いずれも秀歌の誉れ高く、千年以上も昔の人々の感性が今も活き活きと三十一文字を通じて 伝わってきます。日本民族の中に生き続ける敷島の道・・・・・・平成の世の心も又このように して千年後に伝えられていく事でしょう。
*** 百人一首の忘備録 ***
◆ 歌の色 ◆ 家持の歌の色合いは何でしょうか。「鵲」の鳥の羽の色で代表されるように、
黒地に白、すなわち夜の黒に霜の白と言うところでしょう。「鵲の渡せる橋に置く霜」とは、
「暗い夜空の白い天の河の流れ」そのものではないでしょうか。夜空をじっと見上げている家持の
まなざしが浮んできます。
歌の意味も「宮中で夜勤めをしながら黒い夜空の白い天の河をじっと眺めていると、時の経つのも
忘れてしまい、気が付くといつの間にか白々と夜が明けてきたようだ」と言うことになります。
音声の面での特徴としては、「さ」行音が多いと言うことで、特に「し」音が三語も続いています。
「か ささ ぎのわた せ るは し におく し もの し ろきをみればよぞふけにける」
これに更に「し」音を四語足してみましょう。
「かささぎの わたせしはしに しむしもも しろくなりゆき しののめとしる」
平成六年五月十七日
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