平平点描

(百人一首随筆集)


「連 載」 第 5 歌  奥山の秋 (猿丸大夫)
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき

      ◆ かなし ◆ この歌の主題は、「秋は悲しき」と言う第五句にあるわけですが、その前提条件を 第一句から第四句に提示していて、「紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を奥山に聞くとき」となって います。
 「秋はかなし」と言う感情は、「愛し」の意味の「身にしみて愛し」「身にしみて趣がある」と 言うことと、「悲し」の意味と両方を含んでいると見ることが出来ます。百人一首の中で「かなし」を 用いた歌は二三番歌「月見れば」(大江千里)と九三番歌「世の中は」(源実朝)の二首があり ますが、二三番歌の方が「悲し」の意味の方が強く、九三番歌は「愛し」の方の意味に解釈されて います。しかしながら、両歌とも「悲」と「愛」を併せ持っているように読みたいと思います。
 日本語の中には非常に概念の広い言葉が多いようで、「あはれ」、「いとほし」、「うし」、 「おもふ」、「わびし」、「ゐる(居る)」、「をかし」等です。平成現代語の中から例をとる ならば、「どうも」という現代語です。何ともはっきり言えぬ事でも「どうも」と言えば、当方の 意向が先方に理解してもらえるという日本語の曖昧さの利点です。

◆ わびし ◆ この歌の出典である古今集・巻四・秋上に秋をどのように感じて歌に取り込んだか、 この歌の前後にある歌をみますと、「わびし」と「うらぶる」となっています。 

 「山里は秋こそ殊にわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」(二一四番歌・壬生忠岑)
 「秋萩にうらぶれおれば足引きの山下とよみ鹿の鳴くらん」(二一六番歌・読人不知)

 「わびし」は「寂しい」とか「物悲しい」であり、「うらぶる」は「浮かぬ心でしょんぼりする」、 あるいは「悲しみに沈む」ですから、この二首に挟まれた猿丸大夫の歌(古今和歌集では読み人 知らず)も「秋は」「かなし」の方の意味が強いと考えられます。ちなみに百人一首の中で四七番歌 「八重葎」(恵慶法師)では、「秋は」「さびし」としています。古今集時代に既に秋という季節に 対して、日本人は「哀しい」という感情を抱いていたわけですが、これは多分に漢詩の影響を受けて いるのではないかとされているようです。ちなみに万葉集・巻十・秋雑歌や相聞歌には、雁、黄葉、 鹿、月、萩などが詠まれていますが、秋そのものに自分の感情を述べている歌は、数多く見いだせ ません。

◆ 秋萩 ◆  「秋」と「萩」の組み合わせは、二十九番歌壬生忠岑等の歌にみられるところ ですし、古今集の中でその後に続いている次の歌でも「秋萩」・「鹿」・「鳴く」の組合せで詠まれて います。

 「秋萩をしがらみ臥せて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけき」
                                       (巻四・秋上・二一七番歌・読人不知)  「秋萩の花咲きにけり高砂の尾上の鹿は今や鳴くらん」(巻四・秋上・二一八番歌・藤原敏行)

 猿丸大夫の歌の「もみぢ」も、これらの歌の「秋萩」と同じく紅葉でなく「萩の黄葉」と解釈されて いるようです。紅葉の場合ですと、「踏み分け」ではなく、「もみぢかき分け」、「もみぢくぐりて」、 「もみぢ狩りつつ」あるいは「もみぢの下に」と言った方が絵になります。

 「奥山へ もみぢかき分け 鳴く鹿の 声たずぬれば 秋ぞ身にしむ」
 「奥山の もみぢくぐりて 秋追へば 硲に響く さ牡鹿の声」
 「奥山は もみぢの下に 秋浴びぬ 谷間にかなし さ牡鹿の声」
 「奥山に もみぢ狩りつつ 時とれば さ牡鹿の声 千々にかなしも」

 

◆ 花 札 ◆  この歌を本歌とする八三番歌「世の中よ」(藤原俊成)との共通用語は「奥山」・ 「鹿」・「鳴く」などで、共通する叙情は「秋かなし」であり、類似の動詞は、「思ひ入る」及び 「踏み分け」でしょう。この二首は本歌と本歌取りの関係以外に、百人一首の中で唯一四つ足の動物で ある「鹿」を詠んでいる点が共通しています。ちなみに四つ足以外の動物としては、五種類の鳥 (山鳥(三番歌)、鵲(六番歌)、鶏(六二番歌)、千鳥(七八番歌)、ほととぎす(八一番歌))、 ときりぎりす(九一番歌)が詠まれています。
 「秋」と「鹿」を結びつける歌は、万葉集の時代から多く残されており、巻第十、秋雑歌「鹿鳴を 詠める十六首」(二一四一〜二一五六番歌)があります。又「奥山」・「鹿」・「萩」を用いた歌と して、次の様な歌があります。

 「奥山にすむとふ鹿のよひさらず妻とふ萩の散らまく惜しも」(巻第十・二0九八番歌)

「秋」と「鹿」、「萩」と「紅葉」の組合せから、私たちがすぐ想像することは歌であり、 百人一首であり、かるたであり、さらには花札と言うところに辿り着くのであります。花札の絵は 遊びの世界での映像として脳裏に焼き付いているため、なかなか消えないものです。もっとも「秋」・ 「鹿」・「紅葉」からの連想は、なにも花札に到らなくても、小学唱歌を思い着く人もいること でしょう。たとえば、それは「もみぢ」であり、「里の秋」であるかもしれません。
 十月の花札は、「紅葉に鹿」・「紅葉のタン」・「紅葉のカス」の花札が紅と黒のコントラスト よろしく、紅葉が華やかに舞っています。花札を頭に思い浮かべ、「紅葉」、「鹿」、それに 「神無月」を詠んでみましょう。

 「花かるた 紅葉に鹿の 影札を 打ち当てし時 神無月よし」

◆ 五 感 ◆  歌の解釈の点で、「奥山に」「紅葉踏み分け」るのは、「人」か「鹿」かの 二つの見方があるようですが、一般的には「奥山に」・・・・「鳴く鹿の声」を「聞く」のは、 「人」であり、「秋はかなし」と思うのも「人」であるとされています。従ってこの歌の作者は 当然のことながら、奥山に紅葉踏み分け入っていて、鹿の声を聞いているのではなく、奥山の山里に あって歌を詠んでいるか、あるいは紅葉に鹿の屏風絵を観て詠んでいる屏風歌か、さらには題詠歌で あるかもしれません。
 歌の内容に合うように作者の立場を想定しますと以上の通りですが、この解釈では作歌上で五感を 使うという点からみて、やや物足りない物を感じます。確かに先に挙げた感覚の優れた藤原敏行の 「秋萩の・・」の歌でも自分の住まいの周辺の萩を見て、「高砂の尾上の鹿」を想像して、「今は 鳴いているだろう」と詠んでいますから、猿丸大夫の歌も頭の中で考えている鹿の鳴き声と考えられ ます。しかし、作者が実際に奥山に紅葉を踏み分けて詠っている歌としますと、題詠歌でない感覚の 鋭さが出てきます。その場合の歌の解釈は次のようになります。
 ー秋の美しさを求めて、奥山に紅葉を踏みしめて分け入った。身の周り全体に秋を浴びていると、 耳には鹿の声が聞えてきた。行く秋のこの時節に、何とも言葉に言い表せない物が移りゆくことを、 自然を見ている中に感じられ、愛しい物と物悲しい物とが渾然一体となった感情が湧いてくる。ー
 猿丸太夫は、この歌で彼の感覚を全て利かせて詠っていることがわかります。すなわち、視覚には 奥山の秋が、聴覚には黄葉を踏みしめる足音と妻恋鹿の声が、触覚には紅葉の間を抜ける風と足下の 黄葉を踏みしめる感覚が、臭覚には秋山の季節の香りが漂っているという状態です。
 先に挙げた古今集の秋と鹿の歌は、全て秋山にあらずに鹿の声を聞いているものばかりでした。 同じ秋に関する古今集の歌でも、次のものは臨場感を持つ歌です。秋や紅葉は巡り来るけれども、 人は来ないと言うことで、

 「秋はきぬ紅葉は宿に降りしきぬ道踏み分けてとふ人はなし」(古今集・巻五・秋下・二八七)

 同じ「道踏み分けて」でも、人でなく鹿に替えてみますと、

 「秋はきぬ 紅葉は宿に 降りしきぬ 道踏み分くは 妻恋の鹿」

                              平成六年九月十一日


掲載 平成16年4月9日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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