◆ 遷 都 ◆ 平成六年六月二十九日、滋賀県甲賀郡信楽町教育委員会は、聖武天皇
(七〇一〜七五六)が造営された信楽宮跡と見なされている宮町遺跡より、本格的な官庁の存在を
示す木簡が出土したと発表しました。長さ約十センチメートル、幅約四センチメートルの木簡は、
現代での紙に当るもので、当時の宮廷役人が木簡に文字を書いては削り書いては削りして、文字の
練習をしていた様子が残っているとのことです。紫香楽宮は天平十四年(七四二年)に造営を始め、
天平十七年(七四五)一月から、たった四ヶ月だけ都が立ったところで、天災(地震)や人災
(火災)が相次ぎ、元の都の平城京へ復都せざるを得なかったという祝福されぬ都でもあった
わけです。
聖武天皇の御代(七二四〜七四九)の後半期は、まさしく遷都との闘いと言われてもやむを
えないような都替えを行いました。。すなわち、山背恭仁京(七四0年)→難波京(七四四年)
→近江紫香楽宮(七四五年)→平城京(七四五年)と転々としました。その一方では、国分寺や
国分尼寺(七四一年)あるいは東大寺(七四五年)などの建立を始めると共に、大仏開眼供養
(七五二年)を行なっているため、かなり国力を消耗してしまった感があります。
◆ 宮廷歌人 ◆ この聖武朝の前半天平八年(七三六年)頃までに、宮廷歌人として活躍したのが
山部赤人で、且つまた万葉第三期に於ける代表的な叙景歌人として名を残しているのです。
万葉集から推定できる宮廷歌人山部赤人が、天皇に従駕した行先は次のようになっています。
神亀元年 七二四年十月 紀伊国行幸 (巻六・九一七、九一八、九一九番歌)
神亀二年 七二五年五月 吉野離宮行幸 (巻六・九二三〜九二七番歌)
十月 難波宮行幸 (巻六・九三三、九三四番歌)
神亀三年 七二六年九月 印南野行幸 (巻六・九三八〜九四七番歌)
天平六年 七三四年三月 難波宮行幸 (巻六・一00一番歌)
天平八年 七三六年八月 吉野離宮行幸 (巻六・一00五、一00六番歌)
一方、微官赤人の公務の旅先としては、西国方面では瀬戸内海、伊予道後温泉、東国方面では、
この歌に詠われている駿河の富士、下総の葛飾の真間等で、それぞれの地で歌が残されております
から、当時としては非常に遠くの地方にまで、彼の行動範囲が拡大していたことが分かります。
「若の浦に潮満ち来れば潟を無み芦辺をさして鶴鳴きわたる」(九一九番歌)
「美吉野の象山の間の木末には幾許も騒ぐ鳥の声かも」(九二四番歌)
「ぬばたまの夜の更けぬれば久木おふる清き川原に千鳥しば鳴く」(九二五番歌)
◆ 富士の山 ◆ 日本人は遠い昔から富士の美しさを歌に詠み、絵に描き、楽曲にして、民族の
誇りとしてきました。日本と言えば・・・・富士、山と言えば・・・・富士として。
山部赤人が富士を初めて見た時に受けた感動は、ほとんどの日本人が誰しも共感できるものです。
平安朝では、特に京の都の人々のほとんどは、富士の山を見ていないと思われますが、一般庶民
階層の日本人が初めて富士を見ることができるようになったのは、明治以降ではないかと思われ
ます。もっとも、富士山は東は関東平野の中の江戸や筑波山から、西は伊勢の朝熊山からでも
見ることが出来ますが。
明治以降の学制下にあっては、子供の時の遠足や修学旅行の時が富士を見る最初の機会では
ないでしょうか。誰しも最初は、富士の頂に対して予想していた目線の高さが低すぎて、更に
見上げて初めて「白妙の富士の高峯」を目に捉えることが出来たという経験を持っているのでは
ないでしょうか。確か小泉八雲(ラフカデオハーン)もそのような内容の随筆を残していたように
思います。
「神さびて 高く貴き 富士の嶺 雲居貫く 美国の柱」
今から千年前は富士山も活火山で白煙を出していたわけです。赤人は高峯の雪を詠んでいますが、 元良親王(二十番歌歌人)や古今集時代の人々は富士の煙を歌に詠んでいます。
「麓さえ暑くぞありける富士の山峰の思ひの燃ゆる時には」(元良親王集・三六)
「人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそわが身なりけれ」(古今集・巻十一・恋一・五三四)
「富士の嶺の成らぬおもひに燃えば燃え神だにけたぬむなし煙を」
(きのめのと)(古今集・巻十九・雑躰・一0二七)
富士が美しく見える場所は、やはり「田子の浦」の白砂青松の海辺から、あるいは駿河湾の海上
からと言う構図が一般で、江戸期の画家葛飾北斎の「富岳三十六景」は、正しく富士を遠望した
推薦画集と言ったところでしょう。なお、この歌からは日本画を連想するのに対して、七六番歌
「わたのはら・・・」(藤原忠通)の歌はフランス印象派の洋画を連想させます。
富士は、宝永年間の噴火によって相当山の形が変化しましたが、それ以上に変化してしまった
のが富士周辺の裾野に展開する町であり、道路であり、川であり、海浜であるわけです。このまま
海浜汚染が進みますと、美しい富士が汚染された空気で霞んだり見えなくなったり、はてさて、
富士に降る雪は白でなく灰色になったり、黒くなるうえに裾野には緑がなく、工場の煙と黒い
屋根とのモノトーンの世界になり、海は産業廃棄物で埋め尽くされるということになります。
それよりも気になるのは、駿河湾に発生すると危惧されている大地震です。箱根の関から東の
関東地方に於いては、六十年から百年に一度大きな被害を伴った大地震が発生すると予想されており、
前回の関東大震災は一九二三年(大正十二年)ですから、既に六十年以上経っています。
さて、千年後の日本人も富士を見る時、山部赤人が受けたのと同じ様な大きな感動をそのまま
実体験できるように、なるべく自然のままの富士の姿を国の財産として「言い継ぎ、語り継ぎ」する
だけでなく、実体として残していかねばなりません。
*** 百人一首の道草 ***
◆ 東国の歌枕 ◆ 百人一首に於ける東国の関係地としては、この歌に詠まれた駿河の国の
富士以外は全て、箱根の関より東の筑波嶺、信夫、陸奥の松島や雄島などです。歌枕に出てくる
駿河の国の浦としては「田子の浦」や「三保(の浦)」がありますが、いずれも富士を詠むための
地名として相応しい名前です。
「三保の松 枝越し見れば 白妙の 天の羽衣 富士の高嶺に」
「三保の浦 松枝越しの 富士の嶺は 羽織る真白き 天の羽衣」
又、百人一首で詠まれている山は十六山ほど有りますが、当然富士の山が一番「高く貴き」山に なっていますから、日本民族の中に「語り継ぎ、言ひ継ぎ」行かれる山であり、又そうでなくては なりません。
◆ 対 歌 ◆ 山部赤人の歌の用語で、他の百人一首の歌の用語と対になっているのが、 次の三語です。
「田子の浦に」・・・・・・・・・「松帆の浦の」 (九七番歌)
「(うち)出でてみれば」・・・・「(こぎ)出でてみれば」(七六番歌)
「雪は降りつつ」・・・・・・・・「雪は降りつつ」 (十五番歌)
したがって、他の歌と共通しない語句は、「田子」、「打ち」、「富士の嶺に」の十一文字だけ
ですから、あとの二十文字は大変汎用性のある和歌語句と言うことになります。すなわち次のような
和歌形式が活用できます。
「・・・の浦に ・・出でてみれば 白妙の ・・・・・・・ 雪は降りつつ」
この形式を万葉集の歌枕を用いて展開してみますと、次のようないくつかの歌が詠めます。
「和歌の浦に 打ち出でて見れば 白妙の 鶴は干潟へ 鳴き渡りゆく」
「松帆浦に 打ち出でて見れば 白妙の 舟の帆波の うねりつ駆けつ」
「武庫の浦に 打ち出でて見れば 白妙の かもめの群の 鳴き渡るかな」
「鳰の海に 打ち出でて見れば 白妙の 志賀の高嶺に 雪は降りつつ」
*** 百人一首の道草 ***
山部赤人の百人一首の歌を本歌として、富士の山に関する似非歌四首を連作すると、次のように なりましょうか。
「秋過ぎて 冬来にけらし 白妙の 衣纏ひし 富士の白峰」
「天の原 振りさけみれば 駿河なる 富士の高嶺に 降れる白雪」
「これやこの 行きも帰りも 見仰ぐは 知るも知らぬも 富士の霊峰」
「天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ 富士の美姿 しばしながめむ」
平成六年六月三十日
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