第三十八代天智天皇は、六四五年、すなわち日本歴史上初の年号である大化元年に行なった 大化改新によって我が国を大きく改革することを始めた中大兄皇子その人であり、古代天皇家の 中にあっても大変著名な天皇のお一人です。
天智天皇には何かと事始めの事物が関係しているようです。天智天皇をお祭りしている所は、 近江国・滋賀県は比叡山の東麓・琵琶湖西岸の地で、一九四0年(皇紀二千六百年)に建てられた 近江神宮であります。この地は、かって六六七年に藤原京から遷都された近江大津宮があり、 五年間とは言え日本国の中心地であったわけです。
◆ 時を刻む ◆ 近江神宮では毎年六月十日の時の記念日に、漏刻祭が執り行われます。 これは天智天皇が中大兄皇子として、斉明天皇の御代六六0年に初めて時を刻む漏水を使った 水時計を作ったことを記念した行事なのです。日本の於て時を刻み始めて約千三百年が経ちましたが、 この間にいろいろの形や大きさの時計が使われてきました。太陰暦(月)や太陽暦(日)を刻んで きた手段としては、例えば、水、月齢、日時計、蝋燭、ゼンマイ、電気、電池、ついには電子まで 様々ですが、手段が変わる毎に、より正確に、より知りやすく時を刻んできたのです。漏刻祭を 催す事によって時の大切さを知り、時を無駄にしないように自らを戒めようとする狙いを持って います。時を刻むことを国家の事業にした天智天皇の偉業は、後世の日本人ほどその恩恵に浴して いるわけです。
◆ かるた ◆ 近江神宮でもう一つ有名な行事は、毎年正月に行われる「百人一首かるた全国大会」 です。これも百人一首の第一番歌が天智天皇の歌であることにちなんでの全国的行事の一つです。 その他、天智天皇の御代に日本で初めてという事物としては、物の本によりますと、官吏のための 学校が初めて開設されたこと、次に越国(北陸地方)から燃土(石炭か)や燃水(石油か)が献上 されたこと、さらにはじめて全国的に整備された戸籍(庚午年籍)が六七0年に作られ、それまでの 律令制で実施されていた六年ごとの見直しと三十年保存の戸籍が永年保存となり、氏姓を整える元帳と され、平成の現代まで続いているのです。これも天智天皇が千三百年後の日本人に送ってくれた 偉業でしょう。
◆ 稲と米 ◆ 「秋の田の刈穂」の歌から受ける印象は、何か清々しいものです。これも米作りの 労働の終わりと収穫の喜びが背景にあるからでしょうか。小学唱歌で代弁するならば、島崎藤村の 「朝の歌」の印象です。 又この歌は、百人一首の中で七十番歌「門田の稲葉」と共に、「稲とお米」を思い出させてくれる のです。 日本に於ける水稲の歴史は、北は朝鮮半島より、南は琉球列島を経由して、中国大陸から日本へ 伝わった弥生式文化の時代まで遡ることになるでしょう。それ以来、お米は何時の時代でも日本人の 一生にとって最大の関心事であり続けました。昔から主食物としてよりも上に納める税としての作物を 意味し、武士社会にあっては家禄であり、さらには、地域社会の紛争の対象であり、社会騒動の原因に もなったのです。当然平成の世に於いても外国との交渉の対象になっているのです。国内の米作農家を 守る目的で、輸入米に関税を課してきましたが、貿易自由化の観点に立って外国から圧力がかかり、 輸入米を導入しなければならなくなりました。
◆ 農業 ◆ 農業に従事する人口は確かに昔から比べますと減少し、農業形態も変化してきた のですが、未だ日本の中では大きな産業分野の一つであるのです。 一人当たりの生み出す生産額は、 他の高度な付加価値集約型産業の造り出す生産額に比べますと低いかも知れませんが、まだまだ国の 重要な基幹産業として残っていますし、千年後に於いても農業形態や就業人口は変っているでしょう が、国家にとっては欠かす事の出来ない産業であることには変りないでしょう。 水稲農業の定着と国の基礎固めとは、不可分の関係にあることは歴史の説くところです。生活が 安定すれば人口も増加し、国力もますます付いてくることになります。日本民族が大陸から渡来して きた道筋は、南方の島づたいに、対馬経由あるいは北方の樺太づたいであると考えられますが、水稲 農業と共に日本に定着し、日本を形成してきました。これまでお米については、自給自足の形でやって きましたが、将来お米に頼った生活で、どの程度の人口まで養っていけるのでしょうか。
◆ 人口 ◆ 延喜式出挙稲よりの推計(沢田吾一氏)に依りますと、十世紀の日本の人口は 五百七十万人で、十八世紀(江戸時代)には二千六百から二千七百万人に増え、現在の国勢調査に よりますと一億二千万人に膨れ上がりました。千年でざっと二十倍になったことになります。人口の 増加は近年二百年から三百年の間の傾向と考えられます。例えば、京都、大坂及び江戸の例を見ますと 次のようになっています。
| 年 代 | 京 都 | 大 坂 | 江 戸 |
|---|---|---|---|
| 18世紀(1720年代・享保年間) | 34万人 | 38万人 | 50万人 |
| 20世紀(1980年代・昭和年間) | 145万人 | 254万人 | 814万人 |
| 人口増加割合 | 4.3 | 6.7 | 16.3 |
京都の町は、文献に依りますと一四七一年(文明三年)での戸数は二十万六千戸で、人口は 約百万人であったのが、それから百年後の一五七一年(元亀二年)六万戸で、十八万人乃至三十万人に 減少し、一六三四年(寛永十一年)には、日本の中心が江戸に移動したこともあって、三万五千戸の 十一万人に激減しました。更に下ること三百五十年後の一九八0年代には、また往時の賑やかさを 取り戻して百四十五万人にまで回復しています。
日本の高齢化社会への移行は急激に進んでおり、人口の増加もある時点で頭打ちとなる様な予想は されているものの、人口密度の高さは世界でも上位になっており、すぐに状況が改善されるとは 思いません。例えば、極地へ移民したり、他の星へ移住するというような日本民族の大移動がない 限り過密人口国の事情は変わらないでしょう。狭い国土に多くの人間が生きていかねばならない わけですから、土地に頼らぬ農業生産と食糧確保が必要です。食料も全て外国に頼らねばならなく なったら、いずれ国力の衰退は免れないでしょう。約百五十年前の農業国から工業国へ、更に 商業国へと転換して生き延びてきたわけですが、さてさて、千年後は頭脳集団から成る知能国で 生きたいところです。
*** 百人一首の忘備録 ***
「秋の田の仮庵」の歌の第三句は、「苫をあらみ」のように、「・・・を・・・み」の用法が 用いられています。この用語の他の例を百人一首の中に見ますと、源重之の第四十八番歌「風を いたみ」と、第七十五代皇位に就かれた崇徳院の第七十七番歌「瀬をはやみ」があります。 万葉集では巻第六・九一九番歌、山部赤人の次の歌を思い出します。
「和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ(片男波)芦辺をさして鶴鳴き渡る」
さらに万葉集では、同じ巻第六で、この歌の十番前の九0九番歌には、「山高み」とあり、 さらにその二番前九0七番歌に「山川を清み清けみ」とあるところから、昔は常用語であったと 推察します。
第四句および第五句の「我が衣手は露に濡れつつ」は、第一五番歌光孝天皇のお歌と好一対に なっていて、「我が衣手」の周辺には「秋の露」や「春の雪」が見え隠れしております。
第 一番歌 秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ
第一五番歌 君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ両帝とも野外活動がお好きなようで、健康的で結構です。歌を詠んで差し上げるならば、
「大君は 秋田春野に 出で座して 露に濡れたり 雪被ったり」
とでもなるのでしょうか。
百人一首では八人の天皇のお歌が選ばれていますが、野外で活動しておられるのは、この お二人だけで、あとの六人のお方の内、お三人が宮の内から香具山や月や軒端などを見ておられ、 他のお二人は部屋の中で屏風を見ながら恋歌を詠まれ、残るお一人は自分の心の内をのぞき込んでは、 思いに沈んでおられます。
平成六年六月十日
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