敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 99 回 *** 第9番(その3)***
***** 小野小町ー小町サミット *****
目 次
<丹後の山里>
<大宮町の小町伝承>
<小町の舎>
<小町縁りの集い>
百人一首・第9番 はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよぬふるながめせしまに
<丹後の山里>
京都府中郡大宮町は京の都から見ますと、丹波国を隔てているものの、非常に都には近い地域である
事が分かります。


丹後国が「六歌仙」の一人である小野小町にとって、終焉の地として関係した土地であったとしても
不思議ではありません。というのも、この丹後国、特に丹後半島には古い昔に繋がる歴史伝説の多い
土地柄であることを推測できる事柄が探し出せるからです。たとえば、次のような事項です。
(その1)古代丹後の製鉄遺跡(竹野郡弥栄町遠所遺跡)
昭和62年(1987)発掘調査では国内でも最古の製鉄関係の遺跡が多数発見されている。
遺構時期は、六世紀後半から八世紀後半と推察されている。
製鉄炉八基、鍛冶炉十二基、炭焼き窯、須恵器窯五基、工房跡としての竪穴式住居、掘建て
柱式建物跡などが確認されている。
(その2)浦島伝説(与謝郡伊根町宇良神社)
神社には、浦島太郎が使った釣り竿や釣り針、竜宮から持ち帰った玉手箱などが宝物として
まことしやかに、伝承されている。
この話の原型は、「丹後国風土記」「日本書紀」によるとされています。後世の「お伽話」
となって伝承されてきました。宝物の真偽は兎も角として、語り伝えられてきた文化その
ものが宝物であるわけです。
なお、「丹後国風土記」には、奈具神社(竹野郡弥栄町)羽衣伝説も載せられていたとのこと。

伝承されてきた玉手箱
(その3)聖徳太子の母間人皇后(はしうどこうごう)非難の地(竹野郡間人村・たいざむら)
蘇我馬子と物部守屋の争いを避けて、この地に隠れたとされる。大和へ帰る際、この地を
間人と名付けるように言い残したと。文字は間人で、呼び方は、皇后がこの里を「退座」
されたため、間人(たいざ)とした。
ちなみに丹後半島と歴史上の女性の関係を挙げますと、前述の伊根町の浦島太郎の「乙姫」、峰山町の
乙姫神社の「羽衣天女」、丹後町の間人皇后、大宮町の小野小町、加えて弥栄町の金剛童子山南麓にある
ガラシャ夫人碑の細川ガラシャ、網野町静神社の静御前など「多姫彩々」です。

丹後半島に関係する歴史上の女性群
大宮町は丹後の天下の名所「天橋立」の西側に山一つ隔てた田園地帯で、国営農場(82ha)も
ある丹後コシヒカリ米の産地であり、葉煙草栽培や園芸も盛んなところです。
JR宮津駅から北丹後鉄道宮津線に乗り、豊岡方面に二つ目の駅が「丹後大宮」で、駅から約5km
東北方向に竹野川沿いに遡りますと、五十河の里に至ります。
この地は、丁度「天橋立」の阿蘇海に面している岩滝町の裏山を越えたところに当たりますから、
当地を訪問するには、岩滝町から弥栄町へ抜ける府道53号線をとる方が短時間で到達できましょう。
昔の旅人は、小野小町も含めて、多分大内峠を越えて竹野川流域に出て、丹後半島の網野町などの
西海岸へ向かったのではないでしょうか。
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<大宮町の小町伝承>
大宮町に於ける小町伝説の中心は五十河(いかが)のある「妙性寺」とその周辺です。
小野小町墓(小野妙性大姉銘)、小町位牌(妙性寺開基・見徳院殿小野妙性大姉号)、小町守護仏を
祀った薬師堂、尼僧姿の伝小野小町座像、小町所持品と伝える鏡と椀などがあります。

妙性寺の本堂

小野小町墓

小町位牌と小町像(妙性寺蔵)

薬師堂と薬師如来像

鏡と椀(上田家所蔵)
では、何故小町が五十河の里に没したのでしょうか。
「妙性寺縁起」(江戸後期第三代住職雲騰眠龍記述)に依りますと、次のように伝えています。
「小町は天橋立を目指していた旅路の福知山で、三重郷五十日村(現大宮町字五十河)の上田甚兵衛
と出会い、五十河村に行くことになりました。小町は、五十河村で火事が多いことで困っていた
村人の話を聞き、「五十日」の「日」を「河」に変えて、火事を鎮めたり、女性が安産できるように
するなどの村人の恩人となったのち、再び天橋立へ向かったとき、長尾坂(後に小野負坂と呼ばれる)
で腹痛で動けなくなり、次の辞世の和歌を残してなくなりました。
九重の花の都に住みわせではかなや我は三重にかくるる
上田甚兵衛ほか村人は小町の野辺の送りを営み、内山妙法寺(妙性寺)住職は、小町に法号を贈り、
墓を建て、小野妙性を山号法号として、小町開基として崇めました。」
ここまでは誠に簡素な言い伝えで、何処にでも伝承されていそうな著名人との関わりを示そうとした
伝承ですが、ここへ深草少将との関係も伝承に盛り込まれている点が注目されます。すなわち
「小町が没してのち、しばらくして都から来客(深草少将)があり、小町の墓の前でひざまつき倒れ、
一夜明けると亡くなりました。哀れに思った村人が岡の宮に葬って寺の鎮守とした。」
というわけです。
「恋の百夜通い」の百日目が五十河の里の小町墓であったというわけでしょうか。これは誠に悲劇に
終わってしまいます。
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<小町の舎(やかた)>
小町の妙性寺近くにその伝承を保存するために大宮町は、平成7年(1995)に、「ふるさと創生
資金」を投じて「小町の舎」と「小町公園」を整備しました。

小町公園の入口と「小町の舎」の外観
おまけとして深草少将墓と伝える岡の宮(「岡宮大明神」)や小町が腹痛になった小野坂まで伝え
られています。

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<小町縁りの集い>
全国に拡がる小町縁りの地が集う動きになった事情を新聞が紹介しています。
(読売新聞平成14年8月22日付け記事「ときめき歴史散歩」)

「謎深き歌人・小野小町」を伝える新聞記事
平成6年大宮町文化財保存会が全国の教育委員会や図書館を通じて小町伝承を照会したところ、
全国102市町村で、260余りの伝承が確認でき、北は青森から南は宮崎まで散在していることが
分かりました。
旧国名別に分類しますと、出羽(18件)、陸奥(14件)、武蔵(8件)、山城(8件)、
常陸(4件)、美濃(3件)、長門(3件)などです。
それぞれの縁りの地は、「小町の舎」内に展示されています。

大宮町の文化財保存会がその土地土地を辿っていった結果、「小町ネットワーク」に発展し、
ついに「全国小野小町サミット」に展開していったのです。
第1回は平成7年(1995)米沢市で開催され、平成13年10月第4回サミットは、大宮町
一帯で開催されました。
小町サミットでの情報交換は、伝承の真実を追究することが目的ではなく、「縁りの地それぞれが
小町ロマンを大切にし、交流を広げ、小町への思いをより深めてゆきたい」ためであるというのです。
全国各地がある歴史上の人物の世界を共有することによって、思いを同じにしたい、連帯感を味わい
たいという願いに繋がるのでしょう。
文学の世界を共有することは、誠に夢の多い素晴らしいことではないでしょうか。
前述の新聞記事は全国各地に小町伝承がある由縁を次のように結んでいます。
「流れ着いた和歌の素養のある比丘尼、もしくは遊行の巫女が各地で小町を名乗ったのでは・・・」
「村人を九歳する部分が薄まって容姿の美しい小町が訪れた点が強調されて、伝わった。・・・」
「長くこの地に根を下ろし、人々の尊崇を集めてきた事実は動かない。そして今も柔和な顔で、
人々の暮らしを見守り続ける。・・・」

「小町の舎」の小町座像
ここまで伝説化された小町は、もはや単なる六歌仙や三十六歌仙の歌人の域を出て、人々の信仰の
対象にまで崇められているわけです。日本人の心の中に生きる日本女性の一人であり続けること
でしょう。
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平成14年12月2日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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