敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 98 回  *** 第9番(その2)***
*****  小野小町ー随心院ほか  *****

目    次
<花の色は残らず> <山科の里> <小町寺> <蛙と山吹の里の小町>

百人一首・第9番 はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよぬふるながめせしまに


<花の色は残らず>

 京都市山科区の盆地の南部には、有名な寺院が集まっています。東部醍醐山の麓には醍醐寺、西部
稲荷山の麓には、勧修寺、さらにこの二寺の間の盆地には、小野小町縁りの随心院門跡があります。
 この地区は、小野の里と称され、地域の中心を東西に名神高速道路が走り、その脇の小学校は
小野小学校となっています。

 この山科盆地には、古い年代順に見ますと、第38代天智天皇御陵、仁明天皇皇后順子後山階陵、
坂上田村麻呂墓石、さらには随心院門跡の東側に、第60代醍醐天皇御陵および第61代朱雀天皇御陵
もあるので、天皇家の歴史との関わりも深く、長い土地柄であるのです。

京都市山科区の中心部
 その中にあって小野小町は9世紀中頃、仁明天皇(第54代・833〜850)および文徳天皇
(第55代・850〜858)時代に女房として、宮中へ出仕していたとされる絶世の美女歌人と
言われた人物の縁の地にもなっているわけです。

 このように歴史の古い土地でありながら、近代には京・大坂から東国への交通要衝の地として、多くの
鉄路や高速自動車道が行き交う地帯にもなっており、慌ただしさも年と共に甚だしくなってきている
ようです。最近では、新幹線と高速道路が東山山麓をぶち抜き、山科盆地を分断し、音羽山を貫き
通しており、現在山科駅周辺は、京都五条に繋がる地下鉄路線が進行してきました。

 交通路は山間を貫き、地下を走り回るため、歴史の古い土地も静かな地域ではなくなりつつあります。
山科駅から、バスで山科盆地を南下しますと、南北に走る幹線道路沿いは、市街化が進んでおり、
併せてその周辺の山里も少しづつ土地開発と共に住宅地化の個所が増えており、醍醐寺辺りも山科駅
近くの天智天皇御陵付近に劣らず、住宅が迫ってきており、団地群の出現は山科駅前に限らず、山科
盆地内のあちこちで見られるようになりました。
 もう百年もすれば、山科盆地は団地建造物群の高層ビルで埋まってしまって、団地の中に名所旧跡が
点在するという環境への変貌を認めざるを得なくなるのではないでしょうか。

 千年の歴史を景観上に残していくことは、その時代時代の動きに流されてしまいがちなむづかしい
問題でしょう。
 昭和・平成の時代の人々も、千二百年の古都・京都の歴史を後世に伝えたいと思いつつも、少しづつ
変わり行く世の流れには抗しきれないようです。まさしく小町の歌そのものが1200年後を見通して
いたようです。

 「はなのいろはうつりにうつりあともなし人々世々におもひ託すも」

 花の色という華やかな平安京のいろいろな風土や景物は、時代と共に、褪せて行き、ついには時の
流れに跡形もなく消えて行くのでしょう。
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<山科の里>

 山科の小野の里と小野小町は、如何なる関係にあるのでしょうか。
 小町の生涯は、物の本に寄りますと、10代で両親を亡くし、20代始めに兄姉に先立たれ、天涯孤独
の身となったとされています。若き日の絶世の美女も「よにふるながめせしま」の年と共に「いたづらに」
衰え、老婆となって、都を離れ、陸奥山中へ隠れ住んで没したともされています。
 縁の随心院では、どのように彼女の事跡が伝えられているのでしょうか。

随心院の拝観券

随心院の鳥瞰図

随心院の総門付近
 随心院の案内書に依りますと、随心院は、弘法大師空海八代目弟子の仁海僧正が正暦二年(911年)
に開山したとされています。宝物として院内には、小野小町作の文張地蔵尊像があり、恵心僧都作の
卒塔婆小町座像も伝えられています。

 醍醐天皇陵の近くに小野一族の氏寺とされる小野寺址が発掘されているように、この地域は、小野氏の
勢力地であったようです。小町は、小野篁の子・良実の娘とされ、小野道風は従兄弟に当たるとされて
います。
   (注)小町の父良実は出羽国の郡領であったことから陸奥との土地関係もある一方、良実の父で
      学者の篁は琵琶湖西岸、小野の里の出身とされ、検討副使の争いから隠岐に流され、
      さらに又篁の父・岑守(778〜830)は、平安初期の官吏として、太宰大弐で九州の
      地に足跡を残しています。小町の縁者は、北から南まで幅広く行き渡っているわけです。
      また曾祖父、祖父の学問の血筋は、小町の歌人としての才能に少なからず影響している
      のではないでしょうか。

 仁明天皇(833〜850)の世に更衣として宮仕えし、仁明帝の後世は、宮仕えを辞して、小野の
里に引きこもったとされています。

   (注)山科の里には、仁明天皇に関係する場所として、皇后順子の「後山階陵」が天智天皇陵の
      裏山に残されています。(詳細は、「僧正遍昭」の節で、後述します。)

仁明天皇皇后順子の後山階陵
 藤原順子は、仁明天皇の皇后として歴史に明記されましたが、小野小町を知る物は残された和歌のみ
が全てと言えます。

 随心院の本堂裏には、絶世の美女小町を慕って通い詰めた深草少将を始めとして貴公子からの千束の
文を埋めた文塚があり、小野小町屋敷跡に残る井戸も伝えられています。

 小町が山階小野の里に没したのは、仁和・寛平の頃(885〜898)70代であったであろうと
されていますが、それから丁度100年後に仁海僧正が随心院を建立したことになります。

 随心院では、毎年三月下旬地元の子供達による春を呼ぶ「はねず踊り」を伝承しています。これは
随心院梅園にある「はねず色」(薄紅色)の紅梅を愛でた踊りです。
 「はねず色」の着物に菅笠姿で紅梅の小枝を手に、小野小町に恋をした深草少将の百夜通いの童歌に
載せて踊るのです。

(引用資料:産経新聞平成8年3月24日付記事より)
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<小町寺>

 小町縁りの土地は、山科の小野の地以外に京福電鉄鞍馬沿線の洛北の地にある補陀洛寺(小野寺)が
言い伝えられています。随心院に小町縁りの化粧井戸や文塚があるように小町寺には「姿見の井戸」や
小野小町慰霊碑と共に小町に通い詰めた深草少将慰霊碑も建立されています。

(左)小野寺の本堂(右)姿見の井戸と穴目のすすき群

(左)小町供養塔(右)小町の歌碑
 小町と深草少将の恋愛は、何時の時代のどのように語り始められたかは、明確ではありませんが、
何時の世でも男女の恋は、物語になるものです。千年を経ても人々の心に記されていて、日常の新聞
マンガにも登場するわけです。

(引用資料:産経新聞平成11年1月12日付連載マンガ「サラリ君」(西村宗)より)
(注)ストーカー(stalker)とは、
好きなタレントや異性をつけ回し、時には傷害事件まで引き起こすこと。
獲物や敵などに隠れてしのびよるのがストーキングの元の意味。
当時新聞の三面記事を賑わしていた社会的軽犯罪の一つです。
  優れた和歌を「古今和歌集」に残した小町は、その編者の紀貫之によって当時の貴族社会のアイドル
に仕立てられてしまったのではないでしょうか。
 優れた女流歌人は美人でなければ話しになりませんから、「衣通姫」の流れを汲んでいて、「よき
女の悩めるところある」人物像として作り上げられてしまい、当時の男性側から見た”好きな女性の
理想像”を全て小町に押しつけてしまったと言うことでしょう。

 何れの時代の何れの階層の人々にも、英雄的人物あるいは人気者は求められるものです。貴族社会
には、武の豪傑は不要で、文の傑出した人物がお似合いだったわけです。

 小町寺には「花の色」の「移りにけりな」の結果を具体的に示した木造(「小野小町老衰像」)が
安置されていて、リアルに後世に小町を伝えようとした意図が伺えます。
 平成現代であれば、写真(ブロマイド)、音声(レコード、カセットテープなど)や映像(映画、
ビデオテープ)などによって、ファンの人々にはもてはやされるアイドルも当時は、せいぜいその
和歌という作品や彫刻によってのみ情報を共有し得たのでしょう。

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<蛙と山吹の里の小町>

 国道24号線は奈良街道と称されいるように、奈良市から北上して、京都市に繋がっています。
 奈良市の北に隣接する木津町を抜けて木津川を渡りますと、山城町に入り、その北に位置するのが
井手町で昔から「蛙と山吹」で歌に詠われる歴史の長い町です。かって橘諸兄の別業が日本六玉川の
一つである「井手の玉川」の畔に造営され、聖武天皇の行幸も仰いだ所です。

 JR奈良線の玉水駅を降りて、玉川に沿って東の山並みの方に登ってゆきますと、しだれ桜で人に
知られた地蔵院と隣接した玉津岡神社への参詣道の入口に辿り着きます。その参詣道の脇に小町の
石碑があります。

井手町周辺

地蔵院・玉津岡神社への参道脇にある小町の碑(大石を4個重ねたもの)
 小野小町の終焉の地は全国にまたがっており、井手町以外に、京都市内、秋田県、山口県などにも
伝承されていることは、先に見たとおりです。
 その中でも、井手町がその拠り所としているのは、

 「冷泉家記」にいうー小町六十九歳井手寺に於いて死す
 「百人一首抄」にいうー小野小町のおはりける所は、山城の井手の里なりなん

などの文献類です。橘諸兄によって拓かれた里で、「かわずと山吹」に囲まれて、美女が一生を終えた
というのは、歌になるような小町に相応しい環境設定です。
 
 小町の墓石塔の前には、小町の山吹と蛙の歌碑も置かれています。

「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手の渡の山吹の花」
小町集・流布本61/異本40/新後拾遺和歌集1/45
 仁明朝(833〜850)歌人で、中世の美女の代表とされた小町も「大妹塚」と称されてきた
墓石として後世に山吹と蛙の井手町に名を留めてきました。たとえここが彼女の真の終焉の地でなく
とも、和歌まで残しているところを見ると、多分に心を引かれていた里であったことは確かです。

 (参考メモ)古今集に見る山吹の里

 古今和歌集・巻第二・春歌下にみる井手の山吹として、
 
 ー題知らず 読み人しらずー125番歌
 「かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」
  この歌はある人のいはく、たち花のきよともが歌なり
                 (注)清友 贈太政大臣 嵯峨后父 
 山吹の歌は、4首あげておきます。

 121番歌 「今もかも咲きにほふらむたち花のこじまのさきの山吹の花」

 122番歌 「春雨ににほへる色もあかなくに香さへなつかし山吹の花」

       (注)小町の歌と共通する歌語としては、
          「にほへる色」「香」「なつかし」「山吹の花」

 123番歌 「山吹はあやなな咲きそ花見んとうゑへん君がこよひのなくに」

 124番歌 ー吉野川の辺りに山吹のさけりけるをよめる つらゆきー
       「吉野河岸の山吹く風にそこの影さへうつろひにいけり」       
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平成14年11月28日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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