敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 96 回 *** 第17番(その8)***
***** 在原業平朝臣ー西山・十輪寺 *****
目 次
<つひにゆく道>
<十輪寺庭園>
<藤原高子>
<業平の五輪塔>
<業平和歌世界のその後>
百人一首・第17番 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは
<つひにゆく道>
平成7年9月、旧名「神足」より改名したJR京都線「長岡京」駅と「向日町」駅の西方に
ある小塩山山麓に在原業平(842〜880)縁りの十輪寺が、大原野には著名な神社や寺院が
多くあります。
十輪寺の北側には、藤原氏の平安京における春日大社というべき大原野神社や、勝持寺(花の寺)
金蔵寺があり、西方には、遊龍の松で有名な善峰寺、東には、法然上人縁りの光明寺、弘法大師縁りの
乙訓寺が、さらには、南東方向には、菅原道真の長岡天神が、また、JRや私鉄線沿いには、長岡京
址など名所旧跡が目白押しです。

十輪寺周辺の寺院群
善峰寺への道の途中にある小塩地区の十輪寺は、業平が晩年に隠棲し、塩焼きの風流を楽しんだと
されており、地名の小塩もこの故事に由来しているとされています。
境内には、業平の墓標、塩釜の蹟があり、本堂脇には業平に因んだ業平御殿があり、平安王朝の
襖絵(黒田正夕筆)や三方から様々に見える「三方普感の庭園」が観光客寄せの目玉になっている
ようです。

十輪寺境内の「王朝襖絵」と「三方普感の庭園」

十輪寺境内の業平墓石
業平の墓は本堂の脇道を裏山に登った木下にあります。かの平安王朝の寵児で「伊勢物語」の主人公
在原業平も1100年後は、石碑一本の物体と化してはいますが、美男子の代表名刺としての業平は
不朽のものになっています。石碑が朽ちても、名誉は永久に伝承されていく典型的な歴史上の人物です。
むかし、をとこ、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
つひにゆく道とはかねてききしかどきのふ今日とは思はざりしを
(「伊勢物語」第125段より)
西行が花の寺まで近づいてきたのも、業平が呼び寄せたのかも知れません。
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<十輪寺庭園>
「業平卿之墓」をさらに裏山に登り詰めると、塩釜蹟の窪み地があります。ここでは毎年11月
23日に塩釜清祭(しおがまきよめさい)が業平をしのんで執り行なわれ、恋愛結婚成就を祈念する
のが目的になっています。

塩釜清祭場の塩釜跡
美男子の業平には宮廷での恋愛は数え切れない程のものであったかも知れませんが、特に大原野神社
と小塩山の縁りで伝承されているうわさ話があるため、塩釜清祭に行事化されたものと考えます。
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<藤原高子>
十輪寺は嘉祥三年(850)第55代文徳天皇(850〜858)の皇后藤原明子の世継ぎ誕生
(第56代清和天皇(858〜876))を祈願した勅願所となってから藤原北家(花山院家)の
菩提寺となって現在に至っているとのことです。
さて、この清和天皇の守り寺ともいうべき十輪寺の北方わずか2kmのところにある藤原氏族の
氏神大原野神社に清和天皇の女御藤原高子(842〜910)が貞観17〜18年頃(875〜876)
参拝され、廷臣の一人右近衛権中将在原業平も同行して、歌を女御に詠み奉っています。
昔、二条の后の、まだ春宮の御息所と申しける時、氏神に詣で給ひけるに、近衛府にさぶらひ
ける翁、人々の禄たまはるついでに、御車よりたまはりて、よみて奉りける。
大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出ずらめ
とて、心にもかなしとやおもひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。
(「伊勢物語」第76段より)
諸本の推測に依りますと、貞観元年頃(859)35歳の業平と20歳前の高子は、皇太后順子の
東五條第で契りを結んだとされています。
二人の浮き名は忽ちに当時の宮廷社会の中に知れ渡り、特に業平を”恋愛に於ける美男子”の
対象として、不朽の名を歴史上に残すことになったわけです。塩釜祭の由縁です。
因縁とは不思議なもので、業平は大原野神社で高い子に和歌を献上してから、数年後にそこから
2kmしか離れていない南の十輪寺の地に来て、難波津から海水を運んできて、塩釜を楽しんだと
いうことです。その十輪寺とは恋愛の相手藤原高子が嫁いだ清和天皇家の勅願所であったとは。
逆に勘ぐるならばかの名うての業平のこと、敢えて、藤原高子に当てつけのように、いや思い出す
ように文徳天皇・清和天皇の勅願寺を自分の余生の隠棲の場所に選んだのではないでしょうか。

十輪寺本堂と鐘楼(十輪寺のパンフレットより)
さて、十輪寺の現住所は京都市西京区大原野小塩町になっています。向日市や長岡京市のさらに西方
にありながら、京都市に属しているため西京区内の宅地開発も活発で、十輪寺の北、大原野神社の
近くまで洛西ニュータウンが迫ってきています。
大原野・小塩地区は必ずや市街地化が進むことでしょう。小塩の山里の諸寺院の生き延びることを
祈るのみ。
「大原の小塩の里の十輪寺とはに業平ゆかりとどめよ」
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<業平の五輪塔>
十輪寺境内に宝篋印塔の業平墓が伝承されていますが、十輪寺から東方へ2km弱離れた大原野
上羽町の西方寺や入野神社付近にも業平の墓が五輪塔で伝えられています。
熊谷直実縁りの西山光明寺の前を過ぎて、少し京都方面に上りますと、善峰街道の交差点を越えて
善峰川にかかり、なだらかな丘陵の斜面にある大原野上羽村落の中に入ります。
川の左岸を少し遡りますと、小さな村の社である入野神社が見えます。この神社の北側にある西方寺
裏山に当たる竹林に分け入りますと、三基の石碑が深い竹藪の中にある大木の根元に並んでいます。
この墓所には、父阿保親王、母伊都内親王の五輪塔も仲良く並んでいて、付近の盛土は、長岡京で
没したと伝えられている伊都内親王の墓ではないかとも見られています。

西方寺と入野神社

西方寺近くの業平一家の墓石群(中央が伊都内親王、右が、阿保親王、左が業平の墓)
現在の京都市行政区域の最西端小塩山の東麓には在原業平思い出の場所が集中していることが
分かります。まさに、私たちの時代から業平のことを振り返るには、
「大原や小塩の山も今日こそは業平語りおもひいずらめ」

西方寺の竹林(遠景に比叡山を望む)
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<業平和歌世界のその後>
古今和歌集に於いて、僧正遍昭(17首)、文屋康秀(5首)、喜撰法師(1首)、小野小町
(18首)、大伴黒主(4首)とともに六歌仙とされた在原業平(30首)が築いた和歌世界は
彼の末裔や後輩にどのように展開されていったのでしょうか。六歌仙の中でも業平は、古今和歌集には
最多入集歌人として重きを為している人物であります。
業平には、棟梁、師尚、滋春、女子と四子が記録されています。(本朝皇胤紹運録)
長男棟梁は、父業平の歌才を少なからず受け継いだと見えて、古今集には4首(寛平御時后宮歌合)
収められています。
二番目の師尚(高階氏の養子になった)は、母が斎宮恬子内親王かどうかという件のみの話しですが、
末弟滋春は在次君と称されて大和物語の作者で、母は斎宮恬子内親王とされています。(本朝皇胤紹運録)
父業平の東下りにも比される放浪生活を送った人物で、古今集には、6首採録されています。
ちなみに娘は、藤原保則に嫁し、大納言藤原清貫の母になっているということです。
さて、本題は棟梁の子息で業平の孫に当たる在原元方と僧侶になった戒仙の二人です。
古今和歌集巻頭歌は元方の歌です。これは、歌集撰者紀貫之らの在原家、特に六歌仙たる業平という
彼らの大先輩に対する敬意を元方で表したものと評価されています。
(今井源衛「王朝の歌人3・在原業平」(1985)集英社)
「・・・元方は歌人としてさほど力量に富むともおもえない」歌人であったのに、歌人として最高の
栄誉を古今和歌集で与えられたわけです。父業平は、古今和歌集には30首、生涯で勅撰和歌集には、
86首も入集している大歌人であるのですが、その祖父や父棟梁の和歌世界の名誉を在原家を代表して
一身に受けたと見るべきというのです。
一方戒仙は、比叡山延暦寺天台僧で、古今和歌集撰者紀貫之、紀友則らと深い交友関係があったらしい
ことは、大和物語(28段)にも言及されており、彼の死去に際して貫之は哀悼歌を藤原敦忠に託して
送っているのです。
これらの関係を見ますと、業平の和歌世界は、棟梁や元方を介して、当時の多くの著名な「古今和歌集
歌人」の世界へと伝承発展していったと見なされます。
「伊勢物語」中には、209首の和歌があり、そのうち業平に関係する歌は45首と見られれる一方
「業平集」には82首が残され、勅撰集には、86首収められました。
したがって業平の六歌仙の世界は、これらの数十首の歌からなっており、これによって六歌仙の
中心歌人になり、古今和歌集の誕生に大いに貢献した核メンバーであるわけです。
古今和歌集で大活躍した紀貫之といえども、歌道の大先達在原業平には一目も二目もおき、自身の
勅撰和歌集編纂に、その存在が大いに力付けたことがわかります。
在原業平は、日本文学史上に歌物語を興させ、勅撰和歌集の原動力になっているのです。
敷島の道に燦然と輝いているのは、紀貫之ではありますが、それ以上に在原業平を評価する必要が
あるかもしれません。
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平成14年10月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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