敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 94 回 *** 第17番(その6)***
***** 在原業平朝臣ー伊勢斎宮 *****
目 次
<斎宮なりける人>
<斎宮遺跡>
<斎 王>
百人一首・第17番 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは
<斎宮なりける人>
中世の歌や物語その他の世界およびその影響を受けた後世の各分野の文芸世界に於いて、業平が
斯くも名を成しているのは、優れた和歌に依っていることは当然ですが、それ以上に伊勢物語の中での
女性遍歴の話しに由来していると見たほうが良さそうです。
歌以上に人々の関心をいやが上にも惹きつけるのは、男女の恋だからです。しかも人々の渇望の
対象としては高貴な男女間の艶話ほど興味津々なものはないのです。
現代でも一般庶民の色恋よりも、社会的に位の高い人々、皇族、王族、名家のうわさ話、特に
スキャンダルは、何かと世間の話題にされやすいのと同じ事でしょう。
「伊勢物語」は、第一話から男女の思いを寄せ合う歌になっています。「伊勢物語」を言い換えれば
「業平の女性遍歴語り」としてもいいくらいです。
さてそれらの多くの女性の中でも、物語中の女性として特に注目されているのは、第4話と第5話の
二条后高子(当時推定18歳)との恋であり、それ以上に業平(当時35歳)の名前を恋の闘士に
仕上げたのが第69段の伊勢斎宮恬子内親王(よしこないしんのう)との密事でしょう。

斎宮群行(引用資料:「日本名所風俗図会」(伊勢参宮名所図会・巻之一)角川書店)
「伊勢物語」の引用は長文になるので、同じ内容を数行の詞書きに圧縮されている「古今和歌集」
巻13・恋3・645番、646番歌を引用しましょう。
ー業平朝臣の伊勢国にまかりたりけるとき、斎宮なりける人にいとみそかに逢ひて、またの朝に、
人やるすべなくて思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける
読み人しらず
「君やこし我やゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てか覚めてか」
返し 業平朝臣
「かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ」

伊勢物語挿し絵(引用資料:「日本名所風俗図会」(伊勢参宮名所図会・巻之三)角川書店)
「斎宮なりける人」は、「水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」であったわけで、
前回(その5)で引用された惟喬親王その人の同母妹恬子内親王にあたります。
何という人生の巡り合わせでしょうか。業平の周辺の人間関係から推察して、なるべくしてなった
密事かも知れません。
<<恬子内親王>>
古代学研究学者に恬子内親王を語ってもらいましょう。
斎宮の地、三重県多気郡明和町での講演です。
(引用資料:角田文衛「薄暮の京」東京堂出版(2001年6月2日))
「・・・貞観元年(859)十月五日に斎内親王にト定され、・・・初斎院(宮中潔斎)、野宮
(嵯峨野の野宮で潔斎)・・・貞観三年(861)九月に、こちら(明和町)に来られ(斎宮
群行)ました。・・・
そこで起こったのが在原業平との一夜の逢い引きなのです。・・・考えてみれば、これは日本の
歴史上でも最大の不祥事です。斎宮というのは、神にお仕えする神聖なる巫女であって、その方に
手を出すなんてもってのほかのことです。・・・
・・・業平の妻は紀静子の姪ですから、彼女と内親王とは従姉同士になります。そういう気安さも
あり、またお母さんからよくもてなしをするように、というような口添えもあったものですから、
これはもう他人とは全然違う待遇を内親王がなされたことは、当然考えられることです。
・・・(業平は)体力もある偉丈夫である上に、美男子であるということになります。それから
うたはものすごく上手であったものですから、彼が女性の間に非常に人気があったことは、良く
察知されるわけです。」
「・・・恬子内親王は、都に帰って、(元慶元年・877)、延喜十三年(913)まで、永ら
えていました。そして業平との間に出来たと言われるところの高階師尚も、延喜八年(908)
(古今和歌集完成)には健在だったのです。
こういう嘘っぱちを官撰の歌集に果たして書かれるかどうか、ということです。
やはりそれはフィクションではなしにまちがいのない事実であったからこそ載せられたのであると
考えられます。」
「・・・内親王がこの在原業平と逢ったということが正しいとすれば、それは清和天皇の貞観七年
(865)四月の中旬、つまり朧月夜の頃であったろうと思うのです。
・・・内親王がおなかが大きくなったことを蒼くなって騒いだのは斎宮寮の頭、それから伊勢の
大宮司です。・・・男の子が産まれたものですから、一策を案じて、
(貞観八年(866)六月に伊勢大宮司が朝廷に
ー伊勢の国は今疫病が盛んであるので、・・・内親王がみなづきまつり(月次祭)に
伊勢神宮にいらっしゃるのを取りやめていただきたい。ー
という申請書を出しています。)
前の伊勢権守で、斎宮頭を兼ねていた高階峯緒に頼んで峯緒の息子の茂範という人の子にして
とにかくバレずに済ませたのです。」
「・・・平安時代には高階氏は、伊勢神宮に顔向けがならないのでおまいりしないことになって
いたのです。
・・・延喜八年(908)に完成した「古今和歌集」に堂々と書かれています。
・・・男女のこういうことに関して平安時代の人は、非常に大らかでしたし、ことはずいぶん
昔のことでしたから、いまさら事をあらだてて、先の斎宮の恬子内親王の罪を咎め立てするような
事はなかったのだろうと思います。」
非常に興味津々の人を惹きつける御講話であったと思います。直にお話を伺った斎宮址の明和町の
人々は、それ以上に耳をそばだてて拝聴したことでしょう。
目次に戻る
<斎宮遺跡>
名古屋或いは大阪から近畿日本鉄道で山田線に乗り換えて、松阪と伊勢神宮の中間に位置する
斎宮駅で降りると、天武天皇朝の奈良時代より、平安・鎌倉期を経て、南北朝時代にかけて、
約660年に渡り、斎宮がト定され、任に就かれた伊勢斎宮跡地に立つことが出来ます。
斎宮駅は現在でも伊勢平野の中にあって田園風景の中心にあります。


斎宮遺跡周辺と上空からの航空写真
かっての斎宮は、斎宮駅や駅の南東地区にある竹神社を含め、近鉄線の北側約東西2km
南北800mの区画に官衙が甍を並べていたと推定されます。
現在の地名は、三重県多気郡明和町斎宮で、同地区の西側は松阪市に、東側は小俣(おばた)町や
宮川を挟んで伊勢市に隣接しています。
斎宮駅を降り、南へ200mのところに旧参宮街道(県道428号線)があり、かっての
「お伊勢参り」の人々で賑わった面影がうっすらと沿道沿いの旧家に偲ぶことが出来ます。

近鉄斎宮駅と駅北側発掘現場

旧参宮街道沿いの竹神社
少し伊勢神宮の方へ歩きますと、第11代垂仁天皇(日本武尊の祖父)の時、多気連の祖先祈願社
とされる竹神社があり、伊勢斎宮は竹神社も取り込んだ地区に創設されたようです。
竹神社から近鉄線を挟んだ北側の畑地の中に、斎宮発掘調査の中心になっている三重県調査事務所が
あり、今も斎宮駅から400mほど北側には掘っ建て柱建物址が確認された「斎王の森」があり、
かっての斎宮の中心であったと推定されています。


斎宮の森周辺(引用資料:斎宮歴史博物館案内パンフレットより)
現在その森の東西を広く史跡公園に国が史跡として指定し、歴史保存地区に昭和54年に進められた
ようで、地元明和町内、斎宮地区の西端祓川近くに県立斎宮歴史博物館を開館させ、かっての
平安王朝期における斎宮の果たした歴史の位置付けに努めています。


斎宮歴史博物館と史跡記念公園
写真やパネル説明とともに映像記録として、ビデオ映写による歴史の記録も試みており、この種の
地方自治体に於ける施設の中でも最も充実したものの一つと言えるのではないでしょうか。

斎宮歴史博物館内の展示室概要(同館パンフレットより)
斎王の森から斎宮歴史博物館までは、歴史保存地区の一部として、道路整備をするとともに、毎年
六月上旬には、「斎王祭り」が行われ、斎王、女官、童女等約150名の「斎王群行」が挙行されて
います。また斎宮に関係したかっての著名な歌人の歌碑を道標にしています。

(引用資料:近鉄「ぶらり沿線散歩」(松阪・斎宮)より)
目次に戻る
<斎 王>
博物館の展示品関係では、特に斎王と王朝文学を重点的に採りあげていますが、天武天皇(670年頃)
の娘大来皇女より後醍醐天皇期(1330年頃)まで、約660年間で約60余人の斎王が記録されて
います。当該随想に関わり深い斎王を一覧表にします。
| 歴代 | 斎王 | 帝 | 在任年数 | 関連事項 |
| 1 | 大来(おおく) | 天武 | 14年 | 大海人皇子の子、弟大津皇子 |
| 6 | 井上(いのうえ) | 元正・聖武 | 24年 | 皇太子首皇子の子 斎王のあと皇后となる。 |
| 20 | 恬子(やすこ) | 清和 | 18年 | 伊勢物語、在原業平との恋 |
| 25 | 柔子(やすこ) | 醍醐 | 34年 | 在任最長、兼輔の贈歌 |
| 26 | 雅子(まさこ) | 朱雀 | 5年 | 藤原敦忠との恋 |
| 28 | 徽子(よしこ) | 朱雀 | 10年 | 斎宮女御集、源氏物語・六条御息所 |
| 34 | 規子(のりこ) | 円融 | 10年 | 歌合わせ、徽子内親王の皇女 |
| 37 | 当子(まさこ) | 三条 | 5年 | 「栄華物語」、左京大夫道雅との恋 |
| 39 | 良子(よしこ) | 後朱雀 | 10年 | 歌合わせ |
| 61 | ト子(やすこ) | 亀山 | 11年 | 「増鏡」「とはずがたり」 |
| 64 | 祥子(さちこ) | 後醍醐 | ー | 斎王廃絶 |
「たけのみやこ」斎宮での王朝文化も華やかなものであったことが想像されます。都の文物を移した
「たけにみやこ」の生活の様子も今は発掘される生活遺物のみが知るところとなりました。
960年後の今、全ての王朝文化は土に帰り、僅かにその土地の雰囲気のみが上空に漂っているの
でしょうか。
(参考メモ・その1)<<万葉歌人・大来皇女>>
(出典:斎宮歴史博物館「竹の都の皇女たち」より)
大来皇女(大伯皇女)は、天武天皇の皇女、母は大田皇女で、大津皇子は、同母弟です。
斉明天皇七年(661)一月、西征の途中、備前国(岡山県)大伯の海で誕生しました。
天武天皇二年(673)四月、伊勢斎宮に選ばれ、三年十月伊勢下向。天武天皇朱鳥元年
(686)十一月、解任帰京されました。
大宝元年(701)十二月没、41歳。
万葉集に残した歌は、すべて弟への哀切極まる情愛の歌です。
「・・・大津皇子は・・・父帝が亡くなると、謀反の罪をきせられて死を賜る。・・・死の直前
密かに姉を斎宮にたづねた事を伝えている。」(万葉集・巻第二・105〜106番歌)
「わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ちぬれし」
「二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」
「・・・まもなく斎王を解任され、・・・京へ帰る途中、彼女は亡き弟を偲んで詠む。」
(万葉集・巻第二・163〜164番歌)
「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」
「見まく欲りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに」
「帰京後に弟を二上山に改葬するときには・・・」
「うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を兄弟とわが見む」
「磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめで見すべき君がありと言はなくに」
「・・・伊賀国名張郡に昌福寺を建立し、・・・父天武天皇の冥福を祈っての発願とされて
いるが、実際は愛する弟のためのものであったのかも知れない。」
(参考メモ・その2)<<三十六歌仙・斎宮女御・徽子女王>>
(出典資料:斎宮歴史博物館「竹の都の皇女たち」より)
徽子内親王と規子内親王の母子斎王の話しは次のようになっています。
母「徽子女王は、九歳でト定され、十七歳で退下するまで、の九年間を斎宮で過ごし、
母の喪によって帰京した。
その後、村上天皇の女御として入内し、二人の間に規子内親王が生まれ、」
子「斎王に選ばれると、徽子は、時の天皇、円融天皇の制止を振り切って、
規子とともに再度伊勢へ下向」
才媛紫式部は、約30年ほど前のこの出来事を放っておくはずがありません。
源氏物語の中で、「六条御息所」と秋好中宮のモデルとしたことでも良く知られています。
約10年間の母子斎宮生活を円融天皇の崩御で終え、「都に戻った二人は、相次いでこの世を
去る。母は、五十七歳、子は三十八歳であった。」
「斎宮女御集」には、村上天皇と徽子との間に交わされた歌を収め、拾遺和歌集ほかに
45首が撰歌され「斎宮女御」として三十六歌仙になっています。
目次に戻る
平成14年10月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
本文のフロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。