敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 93 回 *** 第17番(その5)***
***** 在原業平朝臣ー惟喬親王 *****
目 次
<渚 院>
<水 無 瀬>
<大 原 の 里>
百人一首・第17番 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは
<渚 院>
在原業平朝臣(825〜880)が宮廷人として、最も崇敬し且つ懇意に仕えた親王は、第55代の
文徳天皇(827〜858、在位8年余)第一皇子惟喬親王(844〜897)です。
業平は紀名虎の孫娘を妻に迎えていますが、文徳天皇は紀名虎女静子との間に二皇子(惟喬親王、
惟条親王)を生んでいます。しかし文徳天皇は、惟喬親王を後継者に思いつつも、藤原良房に気を
使ってその娘の藤原明子(染殿后)が生んだ惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子に立ててしまいました。
さらに親王は、清和天皇の即位(天安二年(858)11月)に先立つ10ヶ月前に太宰権帥に
遠ざけられてしまう始末です。
その後、太宰帥、弾正尹、常陸太守、上野太守など約12年ほど官職歴任の末、出家してしまいます。
天皇に就けなかったこの悲運の貴公子に寄り添ったのが、在原業平です。
惟喬親王の母と業平の義父紀有常は兄妹の関係である上に、二人はお互いに運命を嘆く境遇に
相通じる物があったのでしょう。主従の関係は、「伊勢物語(第82段、83段)」に留められて
います。
「・・・いま狩りする交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて枝を
折てかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬の頭なりける人のよめる。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
となむよみたりける。・・・」(第82段より)

渚の院の周辺(大阪府枚方市)
惟喬親王がしばしば訪れる業平を供にして「やまとうたにかかれりけ」る交野の渚院址は、現在の
ひらかたし渚元町に当たります。

渚の院址、観音寺の鐘楼と業平和歌碑
渚院のある淀川左岸の台地は、枚方市街の北側を流れる天野川と、さらに北側を並流して淀川に
注ぐ穂谷川河口の間に位置しており、現在でも淀川堤から当方の御殿山の公園や神社の方向に望む
ことが出来ます。

淀川左岸堤防上から遠望した御殿山周辺および渚院方面(中央の森の左側)
かっては現在のように民家に覆い尽くされた町並みではなく、皇室や貴族の
遊猟地(禁野)であったのです。因みに禁野は天野川河口の右岸にその名が残されています。

かっての渚院の風景(引用資料:河内名所図会・巻之六)

禁野橋付近の天野川

かっての禁野橋付近をゆく大名行列の風景
惟喬親王の没後(寛平九年・897)から28年経った頃(永承五年・935)、かの紀貫之
(紀名虎の兄弟興道の曾孫)が土佐守より帰任途中、渚院を望見して、自らの遠い縁者の縁りの地を
偲んでいます。
「・・・(二月)九日。・・・かくて、船曳き遡るに、渚の院といふ所を見つつ行く。
その院、昔を思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。後方なる岡には松の木どもあり。
中の庭には梅のはな咲ける。ここに人々のいはく、これ、昔、名高く聞こえたる所なり。
故惟喬の親王のお供に、故在原の業平の中将の
世の中に絶えて桜のさかざらば春の心はのどけからまし
といふ歌詠める所なりけり。・・・・・」
狩りの後は夜の宴となります。親王が猟の途上、美しい桜に馬をつなぎ止めたのが、枚方市禁野本町
和田寺の御狩桜とされています。
「・・・お供なる人、酒をもたせて野より出で来たり。この酒を飲みてむとて、よき所を
求め行くに、天の河といふ所にいたりぬ。親王に馬の頭、大御酒まゐる。親王のたまひける。
交野を狩りて、天の河の辺にいたるを題にて、歌よみて杯はさせ とのたまうければ、
かの馬の頭よみて奉りける。
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我はきにけり
親王、歌を返々誦じたまうて、返しえし給はず。・・・」

この時のお供には、業平の義父紀有常も同行して、和歌を唱和しています。
「・・・紀の有常御ともにつかうまつれり。それが返し、
一年にひとたび来ます君まてば宿かす人もあらじとぞ思ふ」
このように天野川沿い或いは渚院周辺には、往古、惟喬親王と業平等が周遊した所々の地に
点々とその名残が伝承されてきました。
枚方市内招提南町(京阪電鉄牧野駅東約2km)にある日置天神社は、親王遊猟時、日の入るを
惜しんで「しばし日を置かせたまえ」と祈願した所だそうです。

その他、親王が車を乗り捨てたという市内宮之阪の車塚ー

親王が溺愛の鷹を埋葬したという市内高塚町の鷹塚山ー
などです。何れも、地名からの連想的伝承と言えないでもないのですが、平安の昔のロマンを追うと
いう土地の人々の業平に対する憧れと崇敬の念によるものでしょう。
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<水 無 瀬>
「右の馬の頭なる」在原業平を供にして惟喬親王は淀川左岸の渚院とともに右岸の水無瀬の宮にも
遊んでいます。伊勢物語には、第82段と第83段に次のように記されています。
「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬という所に宮ありけり。
年ごとのさくらの花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬の頭なりける人を
常に率ておはしましけり。・・・」(第82段)
「むかし、水無瀬にかよひ給ひし惟喬の親王、例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁つかう
まつれり。日ごろへて、宮にかへり給うけり。・・・」(第83段)
水無瀬離宮における惟喬親王と在原業平の親密な主従関係は、それからほぼ350年後の同じ水無瀬
離宮に於ける後鳥羽院と藤原定家の関係を連想させます。
正治元年(1199)頃、水無瀬神宮所在地に、水無瀬殿が営まれました。健保四年(1216)
八月に大水がでて、殿舎は流失してしまいました。改めて、翌年再建されています。
なお、後鳥羽上皇は、この水無瀬殿がお気に入りで、御幸は、前後30回以上にのぼると記されて
います。
さらにその後800年経った現在、水無瀬の宮は、後鳥羽上皇を主神として、土御門上皇、順徳院も
合祀している水無瀬神宮として、水無瀬川が淀川に合流する河口の右岸一画に残っています。



近世になって治水工事で構築された淀川の高い堤防上から「水無瀬宮」の森を見下ろしますと、
ひしめき合う瓦屋根の民家、無粋な四角い箱形のアパート、高層マンション、さらには鋸歯屋根の
工場群など、色々な種類の建造物の間に挟まって楠木の大樹の上部だけが顔を出している様子が
遠望できます。
この水無瀬の地区は、桂川・宇治川・木津川の三河川が淀川へ合流する山崎に隣接する地点であり、
対岸には、石清水八幡宮のお椀を伏せたようなこんもりした丘陵が望めるところでもあります。
かって水無瀬川河川敷には、遊猟の馬が駆けめぐり、蹄の音が響いていたであろう所も、現代では、
日本の東西を結ぶ道路、鉄道が束になって走っているところで、そこを疾走する乗り物の騒音も束に
なっているところでもあるわけです。

天王山の麓から遠望した「水無瀬神宮」方面
水無瀬川が天王山の山間から流れ出る断層の崖上から水無瀬宮や淀川、八幡宮を見下ろしますと、
嘗ては淀川と水無瀬川河川敷に位置する水無瀬離宮として風光の優れた場所であった映像を空想
出来ます。

水無瀬の滝と藤原家隆の歌碑
「水無瀬山せきいれし滝の秋の月おもひ出るも泪なりけり」(壬二集)
惟喬親王の宮とは、水無瀬川に沿って淀川から天王山の麓まで、展開していたのでしょうか。
ただし、水無瀬川沿いには広大な東大寺の寺領があったと記録されており、大阪府三島郡島本町には
「東大寺」の地名が残っています。
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<大原の里>
業平朝臣が親しく伺候していた惟喬親王も、
「・・・おもひのほかに、御髪おろし給てけり。正月にをがみたてまるらむとて、小野にもうで
たるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し。・・・
夕暮れにかへるとて、
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは
とてなむ泣く泣く来にける。」 (第84段)
元主上の惟喬親王を京の都より北へ約10km離れた大原の里に雪の中を訪れたわけです。

大原の里と惟喬親王墓の周辺
惟喬親王の墓は、八瀬・大原を通る若狭街道沿いにあり、静原経由江文峠越えの鞍馬街道の
分かれ道が大原の里に入ったところに当たります。
ここは山里とは言いながら、京都市左京区大原上野町で、丁度比叡山の真北の麓になり、
永眠の霊所には相応しいところとなっています。
惟喬親王の墓石は、高さ約1.5mの五輪塔です。
当地の付近に「御所田」というところがあり、親王の住居跡と考えられています。また近くには、
小野御霊神社もあります。


しかし、都からさらに北に上がるため、冬は一段と厳しいところになりますが、心静かに安らげる
ところでもあるのでしょう。
業平朝臣は都を遠望できる西山の麓が終の棲家となったのに対して、彼の主は比叡に隠れる北の
山里に永眠したのです。
なお、伊勢物語に言及された惟喬親王の幽居地小野については、京都周辺の各地の山間村落に
数々の伝承地があるようです。
(注)業平卿の伝承の墓所は、滋賀県永源寺町君ヶ畑の地の「金龍寺高松御所」と「惟喬親王墓所」
も伝承伝えられています。
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平成14年10月2日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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