敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 92 回 *** 第17番(その4)***
***** 在原業平朝臣ー在原家の采地 *****
目 次
<芦屋の業平グッズ>
<阿保親王墓と黄金塚>
<親王寺>
<業平の芦屋>
<布引滝へハイキング>
百人一首・第17番 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは
<芦屋の業平グッズ>
JR芦屋駅の周辺には、いわゆる”業平グッズ”ならぬ業平ゆかりの名称があちこちの記念として
付されています。
駅前南側の町名が「業平町」、芦屋川にかかる国道2号線の橋梁が「業平橋」、その橋の東側の
川沿いにあるのが、「業平公園」で、橋から少し上流に遡った右岸にある俵美術館の西側に
「業平大神」が「公光大神」と共にひっそりと鎮座しているといった”業平グッズ”の陳列です。
業平を慕って芦屋に住みついている知人の「業平グッズ」情報は次の通りです。
「業平の名のついた和菓子が、すぐ近所の川西町田中屋にだけあって、”業平”(餅)といって
いましたが、経営者が高齢の為、阪神淡路大震災の前に店の営業を中断していたところ、
地震により店そのものも消えてしまいました。
なかなか独特の味でおいしく、よくお土産にあちこちに持って行ったものです。
今もある精道町の田中屋本店では”業平煎餅”をつくっていたと思います。」
併せて、地元商工会議所のコマーシャルも添付しておきます。

芦屋駅周辺


(上左)JR芦屋駅前(上右)業平町1丁目(中左)業平橋(中右)「業平大神」(下左)業平橋と業平公園
平成7年の阪神大震災後の市街整備の時、芦屋川左岸・松の内緑地内に伊勢物語82段中にある
馬の頭(業平)が惟喬親王の交野渚邸で詠んだ有名な桜花の歌碑を設置しています。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」

芦屋川沿いの松の内緑地内の業平歌碑
さらには業平橋のたもとにある市民会館内レストラン名が「業平」というぐあいに、ともかく芦屋の
人々の思いは並々ならぬものがあります。
いずれの名前も近代に付けられたものでしょう。
これらの名前の由縁は業平の在原家采地が当地であったからで、今でも芦屋駅の北東丘陵に業平の
父阿保親王が祭祀されていますし、駅前南東の一画には「阿保天神社」まであるのです。

阿保親王墓と阿保天神社
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<阿保親王墓と黄金塚>
阿保親王墓はJR芦屋駅の東側を南北に流れている宮川の左岸にある親王塚町の東隣翠ヶ丘町に位置
しています。
現在翠ヶ丘町や親王塚町は芦屋市の中央に位置する住宅街で、特に近年は、いわゆるマンション棟が
林立する町の風景を呈していますが、約80年前の大正時代、あるいは江戸期の周辺の風景を見ますと、
田畑の中の丘陵であったのです。

往年の親王墓周辺の風景(引用資料:「西摂大観」および「摂津名所図会」)
当時の案内書には、次のように紹介されています。
「打出村の電車停留場より下車し正北に向ひ少しく歩すれば田圃の間に樹木鬱蒼なる森あり。
是れ問はずして阿保親王の御陵たるを知るなり。陵域広大にして、甚だ森厳、遙かに之を
拝すれば中央後方に一封土あり、之れ其奥津城なるべし、・・・・・」
(「西摂大観」(郡部・武庫郡東部より))
また摂津名所図会の挿し絵でも山麓の「阿保親王墳」の南側に天神(打出天神社)を描き、さらに
その南側に金津山(金津山古墳・黄金塚)をまた打出浜近くには「親王寺」を映し出しています。

金津山古墳と打出天神社
金津山は、摂津名所図会(寛政八年・1796刊行)の解説に依りますと、
「打出村の西端に一堆の塚丘あり、・・・むかし、阿保親王この地に殿舎ありし時、黄金千枚、
金瓦万枚をこの塚の中に藏め置きて、この里人飢渇におよぶ時、これを掘り出して、五穀に
交易て、飢えを凌ぐべしとなり。・・・・
朝日さす入り日にかがやくこの下にこがね千枚瓦万枚
按ずるに、親王の御陵にして、別荘もこの地にありしか。この辺の字に御所内・堂の上といふ
所あり。・・・」 (「摂津名所図会 巻之七」(菟原郡)より)
明治始めまでは、墳丘は昭和7年図面に依りますと、金津山に相当する所は、「天神社址」に
なっていて、その上に厳島神社の石祠があったが、現在は打出天神社内に移されているとのこと。
かって宮川の東部丘陵地帯全体が阿保「親王の御陵にして別荘もこの地にあり」在原家の采地で
あったと想定されます。
偶々その所領内に古墳時代から存在したらしい古墳や黄金塚がありそれら全てを包括する広大な
陵域に在原家の「御所内・堂の上」があったと考えた方が采地を想像しやすいようです。
因みに親王塚から出土した遺物は親王寺に保存されています。
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<親王寺>
阿保「親王塚古墳の南方一キロ、打出南宮町に阿保親王の菩提寺として建立されたと伝えられる
親王寺」があります。

阿保親王の菩提寺親王寺正面
「元禄四年(1691)阿保親王850回忌にあたり毛利綱元が墓域を改修した際に発見された
と伝える鏡四面と石製帯飾り具五個が保存されている」(現在は二面と二個とのこと)わけです。
なお、毛利家は阿保親王の嫡孫大江朝臣音人の裔になるので親王を遠祖として尊崇しているのです。
(「芦屋市史」(第四節古墳時代の芦屋より))

阿保親王像
何れの業平ゆかりの遺跡も現在は一般住宅の密接した市街地と化して、辛うじて旧跡としての記念碑
的な存在でしかなくなりました。
行き着くところは石碑一本と伝承のみとなるのでしょう。ますます業平朝臣の息吹く歴史的時代が
遠のいてゆきます。
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<業平の芦屋>
芦屋川と宮川、それに六甲の山々、打出浜を背景にして、在原別業を阿保親王墓周辺に配置してみた
在原家采地の風景に戻りましょう。業平を通して語り継がれてきた芦屋の地とは、伊勢物語に語られる
次のような藻塩焼く海人の住む海辺でした。
「むかし、をとこ、津の国、うばらの郡、芦屋の里にしるよしして、いきて住みけり。昔の歌に
芦の屋のなだの塩焼いとまなみ黄楊の小櫛もささず来にけり(新古今集・巻17・雑中・1649)
とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ芦屋の灘とは、いひける。・・・・」(第八十七段)
かって摂津国菟原郡の境界とは、現在の芦屋市より広範囲で、東は武庫、西は八部、南は海浜、
北は有馬の各々の郡でした。
伊勢物語は、日本文学史上でも、物語文学の先駆を為す重要な語り物であるわけですが、芦屋を
その舞台の一か所に選定されていることも、注目したいところです。後世の文学上の縁りを探りますと、
近代日本文学史上に名を成している谷崎潤一郎は、この芦屋の周辺を居として、何度か邸宅を変えて
名作を発表し続けました。
その谷崎旧邸は、阿保親王墓のほぼ南の海浜側伊勢町に記念館として残っています。
周辺には、芦屋市の文化面の諸施設、市立美術館、市立図書館などを集中させています。

谷崎潤一郎記念館
又この地は文学面の関係者のみでなく、音楽関係の分野でも、名を成した戦前1930年代までの
時代に生きた名ヴァイオリニストにして、名指揮者の「貴志康一」(1909-1937)の生家があった
ところでもあるのです。
現在、彼の活躍振りは、母校の甲南高校に記念室に残されてます。
(注)貴志康一関係情報は、学校法人甲南学園貴志康一記念室のホームページを参照下さい。
転載やリンクは禁じられていますので、URLを大文字で記載します。
HTTP://WWW.KONAN.ED.JP/~ART/KISHI/HTML/HOME.HTML
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<布引滝へハイキング>
在原家の兄弟の所へは、「それをたより、ゑふのすけ(衛府佐)どもあつまり来」たので、
兄の「衛府の督(かみ)(行平のこと)」ともども、「その家の前の海のほとりに遊びありき」
していたのです。
ある日、「いざ、この山のかみにありといふ布引の滝見にのほらむ」ということになって、
「長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩をつつめらむように」滝を見物しました。


布引の滝
山陽新幹線は、在来の山陽本線のように芦屋や神戸市街地を貫通することが出来ず、すべて
六甲山の下を潜っていますが、新神戸駅に当たる一か所だけ、山麓に顔を出しています。
この駅の北側に接して、業平達の一泊二日のハイキング先である布引の滝があるのです。
したがって現在では、大阪の町中からでも新幹線に乗れば15分ほどで布引の滝見物に出かける
ことが出来るのです。
布引の滝周辺は、新幹線建設の折、整備が進み、現在の駅の周辺は新幹線利用客で人通りが多く
なっています。

生田川下流から見上げた新幹線新神戸駅周辺
駅のガード下から真っ直ぐに細い滝見道が出ており、道の両脇には、布引の滝に関わる和歌の碑が
多く建てられています。たとえば、紀貫之、源俊頼、寂蓮法師、藤原良経、藤原俊成・定家、順徳院
九条内大臣兼実などです。
和歌を詠みながら、滝見をしようというわけです。

在原行平と業平の歌碑の例
布引の滝は、雌滝、鼓ヶ滝、夫婦滝、雄滝からなっており、一般に観光写真に撮られているのは
二段になった高さ43mの雄滝の方です。
見物した貴公子達は滝を見て、感興の上、詠歌となり、
「かの衛府の督先ず
我が世をばけふかあすかと待つかひの涙の滝といづれ高けむ
あるじ、次によむ。
ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに

在原行平の歌碑
因みに古今和歌集に採られている「布引の滝」の歌は、上記の業平の歌以外に、次の2首です。
ーぬのびきのたきにてよめるー
「こきちらす滝の白糸ひろひおきて世の憂きときの涙にぞかる」
(巻17・雑上・922)(在原行平朝臣)
ー布引の滝ご覧ぜむとてー
「ぬしなくてさらせるぬのをたなばたにわが心とやけふはかさまし」
(巻17・雑上・927)(橘ながもり)
現在の滝の水量は、「布」ではなく「糸」の如しです。
しかし滝の細道を上り詰めて、滝を眺めるとき、1200年前同じこの滝壺の淵に立ち、
業平兄弟達も見た風景であることを思うとき、千年の時が縮まり、ごく身近かな過去のように
感じられます。
さて滝見が終わって、在原采地に戻ろうとしても、
「かへりくるみちとをくて、うせにし宮内卿もとよしが家のまへすぐるに日暮れぬ。
やどりのかたをみやれば、あまのいさりする火多く見ゆる」時になりました。
芦屋の采地(芦屋市翠ヶ丘町)から布引の滝(神戸市生田区)までの距離は大凡12kmほどです
から貴族連の一泊二日のハイキングには丁度手頃な物見の場所であったことがわかります。
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平成14年9月25日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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