敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 91 回  *** 第17番(その3)***
*****  在原業平朝臣ー高倉御池  *****

目    次
<京の邸宅> <吉田神社の業平塚> <二条后高子との恋> <母伊都内親王>

百人一首・第17番 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは


<京の邸宅>

 「薬子の変」に連座して、太宰員外帥で14年間の流人生活を余儀なくさせられた在原業平の父
阿保親王が、平城上皇が天長元年(824)崩じて後、許されて都に戻ってきました。
 そして桓武天皇の皇女伊都内親王を妻として迎え、業平が誕生しました。

 阿保親王は、伊都内親王とその子が暮らす京の邸宅へ通える約18年の平穏な人生の一時が
得られました。
 都の居宅は、現在の京都市中京区高倉通御池下ル、すなわち京都市の中央をJR二条駅から
鴨川まで東西を貫通している御池通りと南北に通る高倉通りの交差点の東南角地に当たるとされて
います。
   この辺りは、JR二条駅、京都市役所など京都市の正面玄関とでも言うべき所で、烏丸御池交差点の
東隣に当たります。


高倉御池付近図と業平邸址石碑
 (参考メモ)<都大路>
        御池通りは、京都市内でも最も幅員の大きい大路です。
       かって平安京の朱雀大路は、幅員が28丈(約84m)あったそうですが、現代都市
       街区においてはその道路を、平安京に見合う幅には、設営しにくい状況にあります。
        御池通り並みの広幅道路は、東西方向では他に五条通がJR丹波口北側から五条
       大橋を渡ったところまで、南北方向では、堀川通りが二条城から西本願寺辺りまで
       です。
        平安京の大路は、朱雀大路以下、二条大路(17丈・約51m)、大宮大路と
       九条大路(12丈・約36m)、その他の大路(8丈・約24m)などの大路と
       小路(4丈・約12)からなっていました。

        かっての平安京と現在の京都市の道路を比較しますと、その幅員は概して狭く
       なっているのではないでしょうか。平安京の人口はせいぜい20万人以下
       (江戸時代で35万人)であったのが、現在その数倍の人口に膨れ上がった
       過密地帯になっていて、市民一人一人に充分なゆとりの空間がとれなくなっている
       のです。
        さらに千年の時間経過で、都内の往来する物も変わってきています。
        業平邸の周辺には、牛車が列をなして、牛歩していたものが、現在は、自動車が
       並行して行き交う街角のなってしまいました。

 業平没後、約130年ほどして業平邸隣接地に三条天皇晩年の後院である三条院がありました。
 (「三条院ー心眼の憂き世三条院」参照方)

 現在の街角の大都会風景は、三条院址を偲ばせる物は全くありません。
 ただ、かって京の街角の一つであったと思われる風情は、業平邸址の東側隣接地(亀甲屋町)に
ひっそりと鎮座している竹中稲荷社と天満宮の存在です。

竹中稲荷社(中京区亀甲屋町内)

<吉田神社の業平塚>

 業平邸近くの竹中稲荷社の本社は、吉田山の吉田神社の裏山にあり、その山腹に業平塚があります。
 旧制第三高等学校歌<紅もゆる岡の花>の歌詞の中に<月こそかかれ吉田山>と詠まれているように
京都大学の東側に隣接しているのが、吉田神社を麓に抱く吉田山です。 


吉田神社周辺・参道の鳥居と本殿
 京都大学本館前通りを東にとりますと、厄除け参り発祥の吉田神社へ参詣する事が出来ます。
 当該神社境内東側丘陵の山腹に吉田神社の末社「竹中稲荷社」があり、この境内西北側隣接地の
雑木林の中に殆ど雑草に隠れそうになった業平塚を見つけることが出来ます。

吉田神社の末社竹中稲荷社と境内の業平塚
 吉田神社の関連神事の中には、毎年11月3日に催される「竹中稲荷社秋季大祭」があり、町内
有志による民謡などの奉納があります。業平の和歌の世界を慕っての後世の人々による歌の供養なの
でしょうか。
 「業平塚」が何故吉田神社境内にあるのか、「業平が吉田山の奥に墓を造るように遺言したことに
よる」と言うのが神社の伝承です。(吉田神社ホームページ参照方)

  この「業平塚」のように、市内や郊外のあちこちには、業平に関係した場所が探せましょう。
 「伊勢物語」によって拡大された業平の歌物語世界は、京都市内のみでなく、物語に出てくる関連の
全国各地にも縁りを広げました。

 (参考メモ)<吉田神社>
       吉田神社は、貞観元年(859)、中納言藤原山蔭が奈良春日大社から天之子八根命
       ほか、四神を勧請したことに始まっています。都東北・表鬼門の守護神として吉田山
       別称神楽岡に創建されました。

       在原業平が没したのが880年ですから、その時この神社は、創建20年目のいまだ
       まだ京の都の人々には、新しい神社であったわけです。したがって、御加護が多い神
       として注目されていたのかも知れません。

       境内の山の中腹には、全国の神3132座を一堂に祀る大元宮(重要文化財)もあり、
       日本国中の神の御加護が一度に得られえるというありがたいものです。
       当社宮司吉田家は吉田流神道の総本家として近世まで神社界の宗家として全国の神主に
       影響を及ぼしていた権威ある神式家柄であったのです。
       かの有名な「徒然草」の吉田兼好もその縁者の一人です。

       主な神事としては毎月一日の全国の神をまつる大元宮の月詣があり、4月18日、
       10月14日に勅祭が盛大に行われます。
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<二条后高子との恋>

 業平邸の周辺で業平の動きに関与した場所として東五条第址(二条后殿址)を挙げることが出来ます。
 この場所は業平邸の南側(現在の四条烏丸交差点の四条通に北面した銀行ビルの一画)に当たり、
歩いても10分ほどの所で、正に南隣の邸宅であったことになります。

 現在記念碑と銀行ビル北面壁に案内レリーフが掲示されています。京都市街で一番人通りの多い
道筋にありながら、誰一人としてこの案内板を振り向く人もおりませんし、まして貴族邸を偲ぶ
遺物は全く見あたりません。

 高子は藤原冬嗣長男権中納言正三位長良(802〜856)の娘で、同母兄に伯父良房の養子と
なった基経がいます。
 高子との密会は、古今集(巻15・恋五・747)および伊勢物語(第四段・第五段)に次の
名だたる歌 「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」 とともに紹介されて
います。

(参考メモ)「伊勢物語」第四段
      むかし、東の五条に大后の宮おはしましける、西の対に住む人ありけり。
      それを本意にはあらで心ざしふかかりける人、行きとぶらひけるを、
      正月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、
      人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。
      又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、
      見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月の
      かたぶくまでふせて、去年を思ひいでてよめる。

      月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

      とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。

<母伊都内親王>

 業平は成人するまで母伊都内親王の所有になる平安京内の邸宅に生活したと思われます。
 母方の実家は、藤原南家従三位中納言乙叡(たかとし)(761〜808)の娘平子で、葛井氏
一族のかなりの財力があり、業平母子はゆとりある暮らし向きであったようです。同腹の兄弟はおらず
腹違いの兄仲平、行平とは年齢的に7〜9年以上離れている(業平が元服したとき、行平は既に
蔵人の官職に就いているし、業平が蔵人になったのは、その7年後)ため、大切な一人子としての
愉しい、また意のままになる子供の日々を送れたわけです。

 高倉御池に構えていた伊都内親王宅がどの程度の広さの建て物であったか、確たる推定資料や情報は
与えられていませんが、参考になる類推事例は、時々都内から発掘される街区の遺跡群の中にある
邸宅の事例でしょう。
 一例として、西ノ京・東中合町西京商業高校グラウンドの発掘された現場例を示します。

  業平の時代から200年ほど経過した平安中期の貴族の邸宅例としては、業平邸のあった南隣接地に
ある「京都文化博物館」にも模型展示されています。
 さらに参考になるイメージ情報は、西本願寺東側にある神職衣裳や時代衣裳を扱っている商店の
一画に設置されている源氏物語世界を再現した「風俗博物館」などでも見ることが出来ます。
 館内に展示されている貴族生活の一例を示します。実は、源氏物語を想定した模型ですが、当時の
貴族邸内の様子がよく想像できます。

風俗博物館内の「源氏物語」模型としての貴族邸内の様子
 (参考メモ)長岡京の母との別れ
       業平の母伊都内親王は、業平を養育した京の邸宅以外に父桓武天皇が遷都した長岡京
       にも別邸を構え、夫阿保親王没後(承和九年・842)そこで晩年を過ごし人生の
       終わりを迎えたことが「古今集」や「伊勢物語」などから子息業平との別れの贈答歌で
       わかります。

       二つの原典の詞書きを比較してみますと、「古今集」(巻17・雑上・900)は
       きわめて簡潔に要点のみ記しているのに対して、「伊勢物語(第84段)の方は、
       正に物語風に説話として書き替えられています。

 「伊勢物語」第84段
       むかし、をとこありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。
       その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮づかへしければ、
       まうづとしけれど、しばしばえまうでず。ひとり子にさへありければ、
       いとかなしうし給ひけり。さるに、十二月ばかりに、とみのこととて
       御文あり。おどろきて見れば、歌あり。

       老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな

       かの子、いたううち泣きてよめる。

       世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため

 (参考メモ)長岡京遺跡発掘の貢献者・中山修一氏
       業平の実母伊都内親王の終いの地・長岡京遺跡発掘に尽力した中山氏を記念した
       「中山修一記念館」が本文を執筆中の平成14年9月に開館しました。


                                                                  (以      上)

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平成14年9月16日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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