<平 城 京>古代の朝廷が長らく拠り所にしていた飛鳥の山里を出て、奈良盆地の平地に進出して、本格的な 都城を造営し、藤原京となったのが、持統天皇朝です。 この時期は、桓武天皇による山城盆地での平安京都市造形の丁度100年前694年になります。 それから16年後、710年にはその後長らく「旧都」と呼称される平城京遷都がなされています。 すなわち、来る2010年は、平城京遷都1300年を迎えるわけです。 平城京は、現在の奈良市西方東西4.2km、大和郡山市南北4.7kmの四方に展開された古代 大都市で、現在奈良市は平城京域の外城に当たる部分としてほぼその四分の一規模の都市として、 かっての面影を一部に残しています。 本連載では、すでに第81回 伊勢大輔ー八重桜と平城宮址のところで、現在の奈良市周辺を 探索しています。
平城京図とその模型(出典:第一学習社「日本史図表」(平成6年2月))ここを都とした710年〜784年までの74年間に、元明天皇から桓武天皇まで7代の天皇が 即位されたまさに旧都です。 復元された平城京模型を見ますと、整然と東西南北に区画された通りが奈良平野に展開しています。 築都後1300年経った現在、奈良の地名に名残を認めるものは次のような通りです。
| 条名 | 現在の通り・町名 | 場 所 | 備 考 |
|---|---|---|---|
| 一条 | 一条通 | 正倉院・転害門から 西に法華寺まで | 一条高校 |
| 二条 | 二条大路 | 奈良県庁前から阪奈道路に繋がり 生駒山を越えて大阪側に貫通する大通り | 国道359号線 |
| 二条町 | 西大寺地区で、平城京旧跡西隣接地域 | 新興商業地域 | |
| 三条 | 三条大路 | 興福寺南春日大社参道から奈良駅周辺で、 一昔前の町並みが残っている所。 三条通は、正に1300年間の旧都の中心地 | 国道308号線 |
| 四条 | 四条大路町 | 平城京左京区中心を北東から南に流れている 佐保川西地区で、三条大路に南接し東西に長い町域。 | 三条川西町の西隣 |
| 五条 | 五条町 | 旧都の右京五条に相当すると思われる 唐招提寺周辺 | 五条、五条西もあり。 |
| 六条 | 六条町 | 薬師寺の東西両側 | 六条、六条西もあり |
| 七条 | 七条町 | 薬師寺の南西地区 | 七条、七条東、七条西など |
| 八条 | 八条町 | 七条町の東側、佐保川沿いの一部 | 八条1〜5丁目 |
| 九条 | 東九条町 西九条町 | 旧都の左京九条に当たると思われる (とうくじょうちょう、さいくじょうちょう) 九条町は、近鉄橿原線九条駅の遙か西にあり。 | ほぼ旧都の条域を カバーしている |
かっての平城京域との対比で現在の奈良市周辺を見ますと、外京であった奈良市及びその西側の 一条通に沿った大極殿辺りまでは、かっての平城京の名残を伝えている地域でしょう。 因みに一条通を東から西に寺院仏閣、遺跡を追うと多くの平城京の名残やそれ以前の古墳時代まで 次のようにさかのぼれます。 正倉院、 転害門、 聖武天皇陵及び皇后陵、 不退寺、 海龍王寺、 法華寺、 平城天皇陵 平城宮址、 歓喜寺、 西大寺 また、六条町辺りまでは、なんとかかっての平城京の区画が辿れるのに対して、七条や八条 地区は、もはや単なる名称のみの地区と言えましょう。目次に戻る
桓武天皇が794年に都を平安京に移して後、その後の皇位を継いだのが、旧都名の第51代 平城天皇です。この天皇名は、崩御の後、後世の人々がお送りしたものでしょうが、いかに 桓武天皇皇太子安殿親王(平城天皇)は、平城京に思い入れがあったかを思わせるものです。 思いめぐらすところ、明治維新で東京へ遷都された明治天皇からは、父君孝明天皇へは、別称として 「平安天皇」とお送りするようなものでしょう。 平城天皇の「旧都平城」への懐旧心が側近のおもねりと絡まって思わぬ人心騒乱に発展し、自らの 立場も窮地に落とし込むことになるのです。 日本歴史上に「薬子の乱」として記されている反乱には寵臣藤原薬子一人の身勝手な行動とのみは 言えない平城天皇ご自身の心情も関係しているようです。 大同四年(809)4月1日、「風病」で皇太弟(嵯峨天皇)に譲位し、12月に平城旧宮 (大極殿跡地に宮殿を建てた物)へ遷居した平城上皇は、寵臣藤原薬子とその兄仲成と謀って各種の 詔を発して、平安京の朝廷と二所朝廷体制にしてしまい、政を混乱させてしまいました。 弘仁元年(810)9月6日、遂に平城旧京への遷都命まで発してしまったために、朝廷は上皇に 武力で対抗し、仲成を射殺、薬子を自殺、上皇を出家に追い込んでしまいました。僅か3日間の反乱に 終わっています。 実の事情はともかくとして、反乱分子を処分する朝廷の姿勢として、これに関与したとして上皇側の 長子高岳親王(真如法親王)は廃皇太子、在原兄弟の父阿保親王は太宰権帥として左遷・流罪と しました。阿保親王は14年間に渡る辛い流人生活を送ったと伝えられていますが、しかし、実地に 太宰府に西下せず、実際は芦屋の采地に謫居して遙任したものとも考えたくなります。 在原行平は弘仁九年(818)生まれ、業平は、天長二年(825)生まれで、平城上皇が天長元年 (824)7月7日崩御後になりますから、在原兄弟は長じてからお祖父さんの「平城上皇・薬子の 乱」の事情を知ったことになります。お祖父さんの謫居あとへの思いが不退寺造営に繋がって行きます。目次に戻る
僅かに残っている平城京の大路に1300年前の旧都を偲びつつ、一条大路を正倉院前転害門から 西に歩を進めましょう。佐保川沿いの法蓮町を通り抜け、国道24号線奈良街道の手前JR関西本線 北側に業平ゆかりの不退寺があります。 旧都平城京の北辺に位置することになりますが、現在では、奈良市の西郊外、奈良坂丘陵山際の 村里です。

真言律宗不退寺は、仁明天皇が「衆生済度のため法輪を転じて退かず」と発願された後勅願所であり、 平城天皇の「旧萱の御所」であり、さらには、在原朝臣業平建立の阿保親王御菩提所です。 四季折々の花々に囲まれた「南都花の古寺」でもあるのです。春のれんぎょうは500本、椿は 300種もあるそうです。

平城上皇が崩御されてから23年後の承和14年(847)孫の業平は、自ら聖観音菩薩立像を 刻んで本尊(重要文化財)とする不退転法輪寺の開基になりました。 現在の本堂(重要文化財)室町初期の建造物で、多宝塔や舎利塔(いずれも重要文化財)鎌倉時代の 1317年頃のものですが、環境としては平城上皇が「萱の御所」としたころの素朴な閑居を彷彿と させます。




境内の池の回りに多宝塔があり、その前には昭和55年在原業平1100年御遠忌記念の石碑が 立っています。業平は、元慶四年(880)5月28日56才でなくなりました。


伊勢物語第87段の和歌を刻んでいます。 「於ほ可たは津きをもめて新古礼曽こ能徒裳れは人のお伊登奈る毛乃」 (おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの) (古今集・巻17・雑上・879)


業平忌の5月28日には多宝塔を特別公開し、伊勢物語の世界に係わる各種の法事を執りおこない
業平を供養しています。
この地に祖父の面影を求めた業平の思いは、毎年のはなばなの開花と共に今も生きているのです。
なお、平城天皇陵(楊梅陵)は平城宮北辺の円丘市庭古墳とされています。
(以 上)
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