敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 86 回 *** 第63番(その2)***
***** 左京大夫道雅ー斎宮の群行と頓宮 *****
目 次
<当子内親王>
<野宮神社>
<斎宮群行>
百人一首・第63番 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
<当子内親王>
道雅の縁りの地をたどるとき、是非とも挙げておかねばならないのは、道雅の恋しい斎内親王である
当子内親王(まさこないしんのう)の周辺です。
ここでは斎宮の野宮神社とその伊勢への群行途上の頓宮に触れておきます。
なお、伊勢の地に於ける斎宮に関しては、次回に連載する百人一首歌人三条天皇や、在原業平と、
これまた業平との関係に於いて、見逃せない恬子内親王(やすこないしんのう)との密通事件に
関与して探訪することにします。
当子内親王は、第67代三条天皇(976〜1017,在位1011〜1016)と大納言藤原済時
(なりとき、貞信公忠平の孫)女せい子皇后の間に「女一宮」として生まれながら、その運命は不幸を
背負わされたものでした。
彼女は12歳の時、斎王にト定されたため、父三条帝は彼女を手元から手放しがたい気持ちも
こらえつつ斎王群行として見送ってしまいました。
斎王に赴くこと4年弱、16歳の時、父帝が当世に並ぶものなき権力者藤原道長の脅迫に近い、帝位
追い落としにあい、同時に当子内親王も退下して帰京しました。これだけでも不運な前半生と言うべき
であるのに、京には、さらに不幸が待ちかまえていました。
蔵人頭従三位藤原道雅との内通が噂され始めました。道雅は事もあろうに父三条帝を苦しめた道長の
政敵と目された藤原伊周(ふじわらのこれちか)(974〜1010)の息子であったのです。
道長(966〜1027)は、両人の仲を暗に悪用したとしても不思議ではありません。
当子内親王は恋の相手に周辺の人物の仲でも最悪の若者に選ばれてしまったのが、不幸の星の下に
生まれた彼女の運命だったのでしょうか。
この密通の噂に三条帝は激怒し、当子内親王を隔離してしまいました。父親として、公私の
いざこざに疲れた三条帝は、元々の健康不調と失明に追い打ちをかけるこのような過酷な運命の荒波に
飲み込まれて崩御し、同時に当子内親王も落飾し、その後僅か数年の不幸な晩年に、23歳の人生を
閉じてしまいました。
自分の不運が周囲の関係する人々にも不幸を伝染させてしまい、内親王として幸いを甘受すること
なく、この世を去って行きました。
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<野宮神社>
道雅の恋歌の対称になっている「斎王」とは、斎内親王のことで、賀茂神社の斎王を「斎院」といい、
伊勢神宮の斎王を「斎宮」と言われています。
斎(いつき)とは、正しくは、「齋」と書き、次のいろいろな意味を持っています。
(1)物忌みとして、神仏を祀るとき、または、畏れ多いことを為すとき、少しの間、飲食行為を
慎み、心身を浄める行為。
(2)へや、勝手の間(書斎)
(3)仏教語としての時(食事)
(4)訓読みとして「いつく」、けがれを去って神に慎み仕える。崇め祀る、かしこみ奉る。
ちなみに、斎の字に含まれる「示す」を基本にした漢字には、「神」に関係した文字が多いようです。
作家司馬遼太郎さんも「この国のかたち」の著述の中でそのことを言及されています。「神社」に
始まり、「祀」(まつり)、祇(くにつかみ)、礼(れい)、祈(いのる)、祐(たすく)、あるいは
祝(いわう)など全て神事に関係した漢字です。
百人一首の中で斎王に関係した歌は、2首あります。
63番歌 藤原道雅(当子内親王)伊勢斎宮
89番歌 式子内親王 賀茂斎院
伊勢神宮の斎王は、第10代崇神天皇皇女の豊鍬入姫命にはじまり、第96代後醍醐天皇皇女
祥子内親王まで約800年以上に渡り、おおよそ76人もの皇女が、その任務に就かれたわけです。
斎王の任を命ぜられた皇女は、天皇の即位後、一年間は宮城内の初斎院に入り、修斎され、その後、
宮城外の野宮で一年間潔斎に努めます。その翌年秋の「神嘗祭」を目指して、大極殿で天皇と対面して、
「別れの小櫛」さしてもらって伊勢神宮へと「群行」しました。
斎王群行の出発点である野宮神社の昔の戻って探訪してみましょう。
光源氏が六条御息所とその娘(伊勢斎宮)に会いに野宮神社に出向いたところです。
現地への特派員紫式部の報告を、千年後の解説者与謝野晶子によって発表いたしましょう。
「野の宮は簡単な小柴垣を大垣にして連ねた質素な構えである。丸木の鳥居などはさすがに
神々しくて、なんとなく神の奉仕者以外の者をはづかしく思わせた。神官らしい男たちが
あちらこちらに何人かずついて、咳をしたり、立ち話をしている様子なども、ほかの場所に
見られぬ光景であった。篝火を焚いた番所がかすかに浮いて見えて、全体に人少くなな
湿っぽい空気の感じられる、こんな所に物思いのある人が幾月も暮らし続けていたのかと
思うと、源氏はいたたましくてならなかった。北の対の下の目立たない所に立って案内を
申し入れると、音楽の声はやんでしまって、若い何人もの女の衣擦れらしい音が聞こえた。」
(与謝野晶子訳「源氏物語・榊の巻」・角川文庫(昭和63年2月)抜粋)
「野宮」は、平安時代以降、嵯峨野に設けられた現在の「野宮神社」です。
京福電鉄嵐山線嵐山駅前を北に向かい、野々宮バス停留所を西に入り、竹林をくぐる抜けて天竜寺の
北辺にでますと、立木の中にひっそりと潜むように埋まっている野宮神社が見えます。

嵯峨野周辺と野宮神社正面参道と鳥居
正面の黒木(切り出したままの原木で樹皮が付いたままの丸太の木材)の鳥居やその周りの小柴垣は、
当初の斎宮はさぞかしこのように素朴なもので正しく清浄な神域であったろうと思わせる風情の残る
神社で、一般に現代の日本人が持っている神社の原像とはかなり異なった印象を受けます。
昔は静かな嵯峨野の奥にあったと思われる野宮神社も実は、境内の北側をJR嵯峨野線や観光のための
トロッコ線が走っており、突然静寂を破られたような環境の不釣り合いさを感じます。

野宮神社境内北側のJR嵯峨野線の踏切付近
再度斎王群行祭典の現地特派員である紫式部に「別れの小櫛」の祭典の会場へ出向いてもらって
現地報告してもらいましょう。同じく千年後の解説者与謝野晶子に再登場願います。
「・・・斎宮は十四でおありになった。きれいな方である上に、錦繍に包まれておいでになったから
この世界の女人とも見えないほどお美しかった。斎王の美に御心を打たれながら、別れの御櫛を
髪に挿してお与えになるとき、帝は悲しみに耐えがたくおなりになったふうで悄然としておしまい
になった。式の終わるの八省院の前に待っている斎宮の女房たちの乗った車から見える袖の色の
美しさも今度は特に目をひいた。若い殿上役人が寄っていって、個人個人の別れを惜しんでいた。
暗くなってから行列は動いて、二条から洞院の大路をおれる所に二条の院はあるのであったから、
源氏は身にしむ思いをしながら、榊に歌を挿して送った。
ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖は濡れじや 」
(与謝野晶子訳「源氏物語・榊の巻」・角川文庫(昭和63年2月)抜粋)
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<斎宮群行>
斎王は野宮での潔斎を終えて、伊勢神宮に向かう群行に移ります。群行路は時代によって、次の
幾通りかがあったようです。
(その1)大和経由 奈良時代 大和ー伊賀ー伊勢 (官道)
(その2)近江経由 平安遷都後 山城ー近江ー伊賀ー伊勢
(その3)鈴鹿経由 仁和二年(886)以降
近江国府ー甲賀ー垂水ー伊勢国・鈴鹿・壱志ー多気
近江国甲賀郡を横切って鈴鹿峠に向かう道筋は、古い歴史街道になっております。
かっての斎宮行路は、近世では、東海道「あいのつちやま」道宿として、引き継がれています。

「あいの土山宿」周辺と垂水斎宮頓宮跡
かっての斎宮行路の名残は、現在の国道1号線道路脇の「垂水斎宮頓宮跡」に見ることが出来ます。
旧東海道名残の松並木道を土山から少し西に外れた小丘陵の一画に頓宮跡の社を見つけられます。
この地域一帯は、近江茶の産地で、頓宮跡周辺は、茶畑に囲まれていて東北側は鈴鹿山脈の山々を
遠望することが出来る開けた場所です。

「史蹟垂水頓宮址」(昭和19年6月26日史跡指定)
群行路を辿るとき、この道を「平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約380年間、
31人の斎王が伊勢参行」され、彼女たちはそれぞれに<定められた人生への歩み>をとった
ところであり、その途上に「宿泊された頓宮が建立された所」では、幾人もの斎王の運命が包み
込まれているわけです。
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平成14年8月18日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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