敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 85 回 *** 第63番(その1)***
***** 左京大夫道雅ー荒三位の幼年期 *****
目 次
<道雅の周辺>
<枕草子の中の松君>
<道雅の娘>
百人一首・第63番 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
<道雅の周辺>
左京大夫藤原道雅の家系周辺をたどってみます。
まず、「中関白家」と称された元祖は、祖父の関白藤原道隆で、その室は百人一首第54番歌歌人
儀同三司母です。父は儀同三司伊周であり、その妹で道雅の叔母に当たる人は、一条天皇中宮定子で、
かの清少納言が女房として仕えたその人です。
道雅の周辺(祖母、大祖母)には、百人一首歌人は、二人いることになります。

藤原道雅の周辺家系
おじいさんの道隆が亡くなるとともに父親伊周の羽振りも悪くなり、元服はしたものの、境遇が
悪化するとともに若い道雅の心も荒び、現代で言ういわゆる「不良少年」に走ったようです。
この心の荒びは、彼の人生を通じて彼を拘束し、ついに「荒びのひと」のあだ名をもらいます。
一条天皇は「中の関白家」に同情し、道隆没後、その孫の道雅の後見を中宮彰子(後の上東門院で
かの紫式部が仕えた)に頼んだのですが、彰子も庇いきれず、従三位に叙せられながら、「荒三位」
「悪三位」などと、さんざんな陰口をたたかれました。
これらの元になっている悪行とは、法師隆範を手下にして花山院女王を殺戮させたこと、敦明親王
雑色長を凌辱したこと、博打場で乱行したこと(「小右記」による)、さらには、三条天皇皇女
当子内親王との密通などです。
(註)小右記:「小野宮右大臣」藤原実資(天徳元年・957〜永承元年・1046)
賢人右府と称されたように故実に通暁。
天元元年・978〜長元五年・1032の50余年にわたる日記。
藤原氏本流兼家・道長・頼通の政治を批判的立場で記述したもの。
拾遺和歌集以下の勅撰集に8首残る歌人でもある。
三条天皇を激怒させ遂に崩御させてしまった「荒三位道雅」を人間として救い、彼の名前を
永久に残したものは、やはり和歌であったのです。
伯父の御堂関白道長に如何に反抗しても敵わないと分かるとともに、自分が荒びの不良を演じる
のにも疲れたのでしょう。彼の後半生は、八条の山荘に閑居する風流の士に変身したのです。
万寿四年(1027)右京権大夫に貶められ、以降は、歌人に徹したようです。
勅勘から25年後、永承六年(1051)漸くに備中権守に返り咲き、少し名誉を回復しましたが、
天喜二年(1054)なくなるまでの晩年は、西八条邸に藤原範永、経衡、家経、兼房ら風流歌人
諸子との優雅な交流を楽しんだようです。

光琳かるたの「右京大夫道雅」((引用資料:別冊太陽「百人一首」平凡社(1972年))
天喜二年(1054)7月没するまで、63年の生涯の約半分27年間は、おばあさん(儀同三司母)
大祖母さん(道綱母)の才能を継承したり、真似たりの人生であったようです。
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<枕草子の中の松君>
一条天皇中宮定子に仕えていた清少納言は、百人一首では隣同志(62番清少納言ー63番道雅)で
ある道雅の幼年期を知っており、道雅の幼名「松君」を「枕草子」(104段淑景舎の君が東宮に
まいられるおりのこと)に言及しています。
(註)「淑景舎」は、第84回「大中臣能宣ー梨壺の五人」で言及した「昭陽舎(梨壺)」の北側
内裏の東北隅に位置している庁舎の一棟です。

内裏内の諸庁舎(引用文献:吉川弘文館「平安時代時点」平安図録より)
清少納言は「枕草子」で、中の関白家の繁栄が頂点に達しているときの親族集いの場の情景を後世に
伝えているのです。
「・・・・大納言さま(伊周)と三位中将(隆家)が松君を連れてお越しになった。殿さま(道隆)は
待ちかねたようにお抱きになってお膝の上におすえになったのがたいへんなおかわいらしさ。
狭い縁にものものしいご装束の下襲などがひろげられている。・・・・」
(田中澄江訳「枕草子」河出書房新社)
このあとまもなく道隆は長徳元年(995)世を去り、加えて父伊周や隆家が第65代花山天皇
暗殺事件で、それぞれ太宰権帥と出雲(出雲権守)へ流罪同様に追い落とされてしまい、伯父の右大臣道長にとって
替わられることになるわけです。松君・道雅5歳の時でした。
松君の絶頂期は幼年期の4〜5歳頃までで、後は坂道を転がるように不幸な人生に降下してしまい
ました。
どろどろした人の世では、純粋な気持ちの持ち主ほど思うに任せない状態に、絶えずいらいらした
気持ちを募らせるばかりであったと思います。憤懣やるかたない気持ちが彼の歌を激しく燃えさせた
のです。
それから、約10年後、道雅は長保六年(1004)従五位下に、寛弘二年(1005)侍従に、
寛弘六年(1009)従四位下に叙せられ、寛弘八年(1011)敦成親王(後の後一条天皇)に
仕えてから、左権中将になり、ついに長和五年(1016)正月、後一条天皇践祚とともに蔵人頭に
昇進できました。そのまま、堅実に宮仕えの道に励んでおれば良かったのに、若年期の「荒みの心の
ひと」が顔を出したのです。
長和五年(1016)2月従三位に叙せられ、有頂天になってしまったのでしょうか。それとも
若いときの「荒び」の性がよみがえったのでしょうか。同年9月、伊勢斎宮を退下して帰京した
当子内親王と密通し、寛仁元年(1017)三条院の勅勘を蒙りました。
万寿三年(1026)右京権大夫に左遷になり、右京大夫になる寛徳二年(1045)まで、
なんと19年も昇進無く、忍耐の謹慎のみとなりました。
自由奔放な心の欲するままの行動をとった道雅は、たとえ勅勘の身に落ちても62年の人生に何の
悔いもなかったのかも知れません。
和歌が彼を歴史にとどめました。中古三十六歌仙となり、小倉百人一首に永遠の名前をとどめ
ました。
道雅は、「今は思ひ絶え」なんとも、「人づてならで」和歌の言霊によって、後世に生き延びるため、
「百人一首の歌一首」のために、生き抜いた人生であったのかも知れません。
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<道雅の娘・上東門院中将>
このように激しい感情を持ち合わせた人物を父に持ったその子供や如何に。
道雅は、妻として平惟仲女がいたが、山城守藤原宣孝の娘も妻とし、上東門院中将をもうけたと中古
歌仙伝に伝えられています。これが事実としますと、かの紫式部の孫に当たることになります。
したがって、彼女は、お祖母さん・紫式部からの出仕の関係で、上東門院藤原彰子の女房に成れた
のでしょう。
彼女の歌人としての動向は「栄花物語」に語られているところによりますと、長元四年(1031)
43歳になっている上東門院・藤原彰子の石清水と住吉詣でに随行しているのです。
この頃彼女は、20前後であったとしますと、道雅が20前後の時の娘と言うことになります。
したがって、彼女は、1010年前後に生まれ、出仕した上東門院藤原彰子の没年(1074)前後
まで生きていたとしますと、60〜70歳の人生であったことになります。
勅撰集では、後拾遺集に5首入集していて、そのうち4首までが、現在の京都市東山区円山町、即ち
円山公園奥東山の麓近く、大谷祖廟の東山手に位置している「長楽寺」にて詠んだ歌です。

京都市東山区内の長楽寺周辺と長楽寺山門
長楽寺での詠歌4首を挙げておきます。いずれも後拾遺和歌集より。
「おもひやれ霞み籠めたる山里の花待つほどの春のつれづれ」(巻1・春上・66)
「にほふらん花のみやこの恋しくてをるにものうき山桜かな」(巻1・春上・92)
「このごろは木々の梢にもみぢして鹿こそは鳴け秋の山里」(巻5・秋下・344)
「思ひやれとふ人も無き山里のかけひの水の心ぼそさを」(巻17・雑3・1041)
「黄台山長楽寺」は、延暦24年(805)桓武天皇の勅命により伝教大師の開祖になる天台宗の
寺院ということですから、歴史は古いわけです。
「今昔物語」には、一条天皇朝(986〜1011)巨勢広高が地獄変相壁画を描いて有名に
なったことが書かれています。上東門院中将が関与する少し前ということになります。
それよりも現代までこの寺を有名にしているのは、上東門院中将より100年以上後世になる
文治元年(1185)安徳天皇生母建礼門院が、壇ノ浦の海中から救いあげられ都に帰ってきて、
この寺で僧印誓によって剃髪し仏門に入ったことに依るのです。

長楽寺の絵図(引用文献:竹村俊則編「日本名所風俗図会7/京都の巻I」角川書店
(昭和54年))
近世では、頼山陽、頼三樹三郎あるいは水戸烈士の墓所になっています。
祇園や清水と共に文人や墨客の格好の花見の場所ともなったのです。これは、すでに上東門院中将が
11世紀に歌に詠み込んでいるとおりです。
後拾遺集より大江嘉言(おおえよしこと)の花見の歌を引用しておきます。
ー長楽寺にて故郷霞みといふ心をよみ侍りけるー
「山たかみ都の春を見渡せばただひとむらの霞みなりけり」(後拾遺集・巻1・春上・38)
上東門院中将が関係していた11世紀の半ば頃より千年経った現在も幸いにして、円山公園という
花の名所に隣接し、花の見所であることには変わりありません。
(以 上)
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平成14年8月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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