敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 84 回  *** 第49番(その2)***
*****  大中臣能宣ー梨壺の五人  *****

目    次
<梨壺とは> <和歌所の仕事> <歌人仲間>

百人一首・第49番 御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつものをこそおもへ


<梨壺とは>
 大中臣能宣は「梨壺の五人」の一人にあげられています。
 梨壺そのものは、内裏内の一庁舎「昭陽舎」のことですが、ここが天暦五年(951)十月、
村上天皇の宣旨によって「撰和歌所」となり、藤原伊尹(ふじわらのこれただ、または、これまさ)
を別当(長官)とする大中臣能宣他計5名の撰者が出仕して詰めたところです。 

内裏周辺の諸門と内裏内の諸庁舎
 内裏内の地図によりますと、梨壺は内裏内後宮五舎の内の一舎で、北舎と本舎の二棟よりなり、
紫宸殿の北東方向で当面した嘉陽門の前に位置しています。
 元来女官の候所であり、東宮御所になることが多かったのとのこと。
 なお俗称の「梨壺」は庭に梨の木を植えた事によるとされています。

 どのような外観であったかを知るには、現在の京都御苑内京都御所の建物を見ることになります。
 一例を京都御所公開日の小御所の様子を添付しました。

明治維新時の小御所会議の再現
 「梨壺」の殿舎の内から夜は篝火の焚かれた邸内と衛士を眺めやりながら、能宣は恋歌を詠んで
いたのでしょうか。
 ちなみに能宣の歌の想いを同じくして、後世の人々も次の和歌を詠み習っています。

 「よるはもえひるはきえゆく蛍かな衛士の焚く火に何時習ひけん」
              (後拾遺集・巻3・夏・199・中務卿宗尊親王)

 同じ焚く火の連想でも、次の歌は悲しい思いです。

 「ありし世に衛士の焚く火は消えにしをこはまた何のけぶりなるらん」
              (玉葉集・巻17・雑4・哀傷・2333・藤原清輔朝臣)

 清輔と同じ思いを赤染衛門も詠みました。

 「きえにけるゑじのたくひのあとをみてけぶりとなりしきみぞかなしき」
              (後拾遺集・巻10・哀傷・592・赤染衛門)

 また、衛士の焚く火でも「煙り」を引用している歌もあります。

 「こころあらばゑじのたくひもたゆむらんこよひぞ秋の月はみるべき」
              (続古今集・巻4・秋上・392・順徳院御歌)
 「すみのぼる雲居の月にいとふかな衛士の焼く火のよはの煙を」
              (新葉集・巻5・秋下・323・関白左大臣)

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<和歌所の仕事>

 村上天皇宣旨による昭陽舎(梨壺)における撰和歌所の大きな業務は次の二点です。

 (その1)「古今和歌集」に継ぐ第二番目の勅撰和歌集「後撰和歌集」撰集
      (天暦九年一月・955〜天徳二年一月・958頃)
 (その2)万葉集読解・訓み付け作業

 これらの作業を命ぜられた藤原伊尹以下5名の歌人連は<歌人仲間>に言及します。


(その1)後撰集撰集作業

 後撰集の文学的意義としては、その名の通り、「古今集を祖述し、拾遺和歌集への橋渡しをした」
(引用資料:松田武夫・岩波文庫30−027−1)点にあると言われるものの、古今集と比較して、
序文が無く、和歌の分類や詞書きの記述方法に不備な点があり、加えて当集の成立経緯や上奏日が
つまびらかでない事などが挙げられます。

 また「撰歌は天暦当代に重きを置かないで、前時代を主としている点」あるいは「歌を多く採られた
歌人は古今集時代の貫之・兼輔・躬恒・忠岑など(註1参照)で、撰者五人の詠歌は一首も採られて
いない」(引用資料:同上)などにより、古今集の補遺あるいは付属と見なされます。

 一方、「後撰集」の特徴を「古今集」との比較を考え列挙しますと、次のように論評されています。
                              (片桐洋一「後撰和歌集」・新日本古典文学大系6/岩波書店)
 (1)贈答歌が180組と多い。
 (2)詞書きが長く物語風である。
 (3)恋部が巻六まである。
 (4)権門貴族や女性の歌が多い。(註2参照)
 (5)芸歌・色好み歌の集成
 (6)総合して、「宮廷女房社会の歌語り」風の歌集である。

 これらの家集の特徴は、とりもなおさず、編者5人の取り分け清原元輔、源順および大中臣能宣の
編集作業の結果と言うことになります。もっとも紀時文と坂上望城は、先祖の七光りで「梨壺の五人」
に加えてもらった背景が強いように感じます。(註3参照)

 (註1)後撰和歌集の歌人内訳
     専門歌人 貫之(79首)、伊勢(71首)、躬恒(23首)、忠岑(11首)
     権門貴族 贈太政大臣時平(14首)、右大臣帥輔(8首)、左大臣実頼(10首)
          太政大臣忠平(6首)
 (註2)女性の歌(約80名)が多い。
     二首以上採歌された女性 12名  一首のみ 60名
     伊勢(70首)、大輔(16首)、中務(7首)、土佐(7首)、
     右近(5首)、小町(4首)
     一首のみの代表的な女性 
     后、中宮、大将御息所、右衛門御息所、近江更衣、中将更衣、斎宮、斎院
     高津内親王、桂皇女、女童(「承香殿のあこき」「亭子院の今あこ」「いまき」)
 (註3)梨壺五人の後世に於ける勅撰集入集歌数
     清原元輔(131首) 大中臣能宣(127首) 源順(60首) 藤原伊尹(37首)
     紀時文(5首)    坂上望城(3首)
      

(その2)万葉集読解作業

 万葉集が現在の原型を表した八世紀末或いは九世紀はじめ以降、万葉集伝承の歴史が始まります。
 まず寛平五年(893)菅原道真「新撰万葉集(上巻)」が成り、菅家万葉集と称されました。
 下巻は、菅家が太宰府で没後、ほぼ10年経った延喜十三年(913)別人により、完成しました。
万葉集への取り組みの嚆矢というべきです。

 そしてこの国家的大事業を受け継いだのが約60年後の天暦五年(951)村上天皇勅命の
「梨壺の五人」による学問的に本格的な「万葉の訓点」作業(後世から見た訓点の歴史的経緯より
<古点>と称されました。)が開始されたのです。

 以後寛弘年間(11世紀初頭)の<次点>の時代を経て、建長年間(13世紀中頃)の仙覚による
万葉集校合・訓点・注釈の<新点>事業へと繋がれていくのです。

 これらの<古点><次点><新点>の読解作業がなかったら千年を越える長い期間に渡る「万葉集」
伝承が行われなかったでしょう。
 その意味でもそのきっかけになった「梨壺の五人」の国家的事業は画期的なものであったと評価
しなければなりませんし、千年昔の優れた先祖の文化行動に感謝せずにはおられません。

 これらの偉大な大先達に誘導されて万葉集の世界復興作業を続けた人々は、後を絶ちませんでした。
 文永六年(1269)仙覚による「万葉集註釈」(仙覚抄)がなってから、近世江戸時代は
<註釈の時代>と言われるように、多くの優れた国学者の注釈書が出ました。

  貞享年間(1680年代)北村季吟「万葉拾穂抄」 契沖「万葉代匠記」
  宝永年間(1710年代)荷田春満「万葉集訓釈」
  寛延年間(1740年代)賀茂真淵「万葉解」
  安永年間(1770年代)本居宣長「万葉集玉の小琴」
  天保年間(1840年代)香川景樹「万葉集新考」

 そして明治以降の近代に於いては、万葉集研究文献・参考資料類の題目を記しただけでも一冊の
冊子になるほどの研究隆盛期を迎え、加えて単に一部の国文学者のみでなく、一般庶民がそれぞれに
万葉集の世界を追求するようになり、まさに単なる訓釈に限定した文学世界に留まる事がなくなり
ました。
 
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<歌人仲間>

 大中臣能宣にとっての歌人仲間は、先ず梨壺の五人で、歌人仲間でも公的な集団ですから、
気の許した関係とはなりません。
 別当(長官)と作業グループの5名を纏めますと次のようになります。

梨壺の五人

歌人名役職(極位)親族関係生没年天暦五年
推定年齢
藤原伊尹摂政太政大臣右大臣師輔男924〜97227
清原元輔従五位上肥後守清原春光男908〜99043
源 順従五位上能登守嵯峨源氏挙男911〜98340
紀時文従五位上大膳大夫紀貫之男(910)-(970)(40)
大中臣能宣正四位下神祇大副神祇大副大中臣頼基921〜99130
坂上望城正六位下石見守従六位上加賀介
坂上是則男
(920)-(980)(30)

(勝川春草画(版本))
 (註)天暦五年(951)頃の役職
    源順の私家集「順集」内の第117番歌の詞書きには、次のように記されています。

    天暦五年、宣旨ありて、やまとうたはえらぶところ、なしつぼにおかせ給ふ、古万葉集
    よみときえらあしめ給ふなり、めしおかれたるは、
  
    河内掾清原元輔  近江掾紀時文  讃岐掾大中臣能宣  学生 源  順
    御書所預坂上茂樹

    らなり、蔵人左近衛少将藤原朝臣伊尹を、其のところの別当にさだめさせたまふ、
    かみなづきのへいはくにいはく、かみなずきかぎりとやおもふもみぢばの、とあり、
    おのおのうたをたてまつるに

   「かんなつきはては紅葉もいかなれや時雨とともにふりにふるらん」

 別当の伊尹は別格として、「梨壺の五人」をみますと、家柄や役職の面で、最も安定した高位に
あったのは、大中臣能宣です。
 
 勅撰和歌集宣旨時点で5名の年齢を見ますと、元輔、順、時文等は40歳前後で、能宣、望城は、
30歳を出たばかりと推測されます。
 元輔、順、時文らは既に実力派で専門歌人として、宮中でも、確たる地位と名声を博していた
と思われます。

 一方元輔、順と同年輩の時文は、多分に超然とした宮廷歌人であった父貫之の威光によって歌仲間に
参入できたのではないのでしょうか。
 或いは、「後撰和歌集」の名の通り、「古今集」と何らかの形でつなぎを付ける名目から、「古今集」
最大の実力歌人で貢献者であった紀貫之の関係者を取り込む目的から、時文が入っているのでは、とも
邪推せざるを得ません。

 この事情は坂上望城についても同様で、「古今集」での父是則の関わりと噂されたようです。
 こんな中にあって大中臣能宣は、自ら参画した後撰集には、自分の歌は、一首も意図的に入集
しませんでしたが、それ以後の勅撰和歌集では、127首も後世の歌人が評価してくれて、採歌されて
いるのに対して、望城の歌は、たったの3首しか撰歌されていないのです。

 したがって「後撰和歌集」の実質の編纂者は、清原元輔、源順、それに大中臣能宣で、なかでも
年長で宮中に幅広い名声を得ている元輔が総元締めで、専門学者的な立場から源順が補佐し、若手の
実力者代表の能宣が先輩の清輔の意見を配慮しながら、撰集に尽力したものと思われます。

 能宣が元輔を先輩と仰ぎ、歌仲間のつきあいをしたかは、「能宣集」に残っている詞書きを拾った
だけでも推測できます。
 元輔関係の歌5首は、次の通りです。

 ーひごのかみ元輔がくだり侍りとて、いひおこせてはべる
 「ともにおいてわかるるこひとおもはずはくさのまくらのつゆはむすばし」(391番歌)
 ー返し
 「ありとだちたがひにきかばいまよりのあふにかへたるいのちにはせん」(392番歌)
 ーまた、元輔が返し
 「とほくいきてありとかたみにききつつもなほなぐさまじあはでとしへば」(393番歌)
 ー元輔が枝の家にて、のちのよのために法事し侍る、とぶらひにまかりて
 「夏山のこぐらきみちをたづねきてのりのひかりにあへるけふかな」(443番歌)
 ーかへし、もとすけ
 「をしからぬいのちやさらにのびぬらむをはりのけぶりしむるやどにて」(444番歌)

 また、梨壺・撰和歌所の日常生活の一端を偲ばせる歌も残しています。

 ーなしつぼに和歌えらぶとて、これかれはべるに、かたはらなる内侍のつぼねより、藤花をものより
  うちこしてはべりしかば、なほあらじとて、
 「うしろめたすゑの松山いかならんまがきのしまをこゆるしらなみ」(164番歌)

 その他、歌人名を引用しているものは、恵慶法師(222番歌)、源順・藤原朝忠(447番歌)
さらに、沙彌満誓(242〜253番までの連歌)などです。
 順や時文をも巻き込んだ歌遊びとして興味があるのは、沙彌満誓歌の初句・二句取りの
替え歌群です。参考メモに要点を挙げておきます。
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平成14年8月10日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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