敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 83 回  *** 第49番(その1)***
*****  大中臣能宣ー衛士の篝火  *****

目    次
<伊勢神宮祭主> <薪    能> <衛門府の構成と役職> <衛士の焚く火>

百人一首・第49番 御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつものをこそおもへ


<伊勢神宮祭主>
 第81回、第82回で採りあげた名うての女流歌人伊勢大輔の父は、大中臣輔親(954〜1038)
で、祖父に当たる大中臣能宣(921〜991)も平安中期宮廷では実力歌人の名をほしいままにした
親族であったのです。

 伊勢大輔の血筋は次のようになっていました。
 かの藤原鎌足の父中臣御食子の弟国子を遠い祖先とし、それから8代後に神祇大副であると同時に
六代に渡る大中臣家歌人の祖に当たる大中臣頼基(884?〜958)が出て、さらに神祇大副・
祭主でかつ歌人の能宣が神祇職を継ぐとともに歌道も子孫へ伝承して行きます。
 したがって伊勢大輔の祖父の時代には既に大中臣家は神職の家柄であるとともに宮廷に重きを成す
専門家人の家系であったのです。

 大中臣能宣は天禄三年(972)神祇官の中で
次官(すけ)に相当する神祇大副
(じんぎだいふ・従五位下相当)、
続いて伊勢神宮祭主に就きました。
 この役職は、神祇官の長官である
伯(従四位下相当)を補佐する地位で、
古来この部署には、中臣・斎部・卜部三氏が
当たってきました。
光琳かるた(別冊太陽 NO.1 Winter’72)

 具体的な職掌は、勅使として神宮に参向すること、現地駐在して、行政する宮司、大神宮司として
務めること、中央にあって神宮行政に参与すること、神宮の守護宿直を監督することなどです。

 能宣の場合は、実際に伊勢神宮に参向したのでしょうか。
 しかし、歌の方の力もあり(六代に渡る大中臣家歌人の二代目)、その分野では名を成していた
(天暦年間和歌の第一人者、梨壺の五人)ため、彼にとっては宮廷社会(天徳歌合わせに出詠)は、
捨てがたい環境(「後拾遺集撰者)であったと思います。

 大中臣能宣が神宮祭主の役人にして且つ歌人としての立場を詠んだ歌を「能宣集」から拾って
みましょう。天皇言祝ぎの歌や神の寿ぎの歌歌です。

 (その1)114番歌
      ー冷泉院の御時、はじめて石清水の臨時祭おこなはせたまふにうたふべき歌
       たてまつれとはべりしに  
      「君がよにみなそこすめるいはしみづながれてちよにつかへまつらむ」

 (その2)332番歌
      ー斎宮より、うちに御あふぎたてまつりたまふに、かくべき歌とめせば、
      「草も木もおもふことあらじよろづよはきみがあふぎの風になれきて」

 (その3)92番歌
      ー十一月、神まつるいへ、
      「さかきばのしもうちはらひときはにてあれずまつらんわがやどのかみ」

 (その4)136番歌
      ー四月、いへの神まつるところ
      「みむろやまみねのさかきばよろづよにとりてまつらむわがやどのかみ」
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<薪    能>

 現代社会に於いて夜の照明は、当然電気による伝統即ち蛍光灯の白色光が主体です。よほどの
辺鄙な山中が離島でない限り、昔のたき火や篝火による照明に頼っている所はないでしょう。
 こんな明るい夜の社会で、篝火による照明効果を敢えて演出したのが近年各地で催されている
薪能です。

 大坂城の西の丸庭園でも毎年夏の宵に涼を求めて「大坂城薪能」が催されています。

平成14年度第22回大坂城薪能」(読売新聞平成14年7月30日付記事より)
  大中臣能宣の百人一首歌「御垣守衛士の焚く火」は、斯くの如きものであったと思われます。
 かって内裏及び大内裏周辺では、宮城、京師の守衛兵士である衛士が一夜に焚く幾基と知れない
多くの篝火による照明を維持し続けたことでしょう。
 
 普段の夜間、宮城に於いて、何らの異常な又特別の行事や政事がない限り、衛士の主たる職務は、
これらの「篝火」による宮城内照明の確保ではなかったでしょうか。
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<衛門府の構成と役職>

 衛門府に所属している「衛士」の職務は、近衛が内裏内紫宸殿周辺の宮門を警備するのに対して、
宮城各所の門(朱雀門以下14門)警備と京中の行夜、行幸時の警備が主で、衛門府400名、衛士府
1200名(延暦年間)で、担当していました。

内裏及び大内裏の宮門
 律令体制下の前半では、元々設置の目的である諸門の警備、出入りに管し、時間を定めて所部を
巡検する警備・警固の軍事力であったのですが、時代ともにその行動の目的や範囲が変化して、
遂に平安時代では、宮廷内下級雑務役としての任務が主体となり、軍事力の威力は薄れていった
ようです。

 「衛士」の所属している衛門府を見ますと、隣接地に左衛門、右衛門に分かれた大内裏の役所を有し、
その現地詰め所とも言うべき陣は、それぞれ次の所にありました。(上述内裏門図参照)
  左衛門は、建春門(内裏の宣陽門の東) 
  右衛門は、宜秋門(内裏の陰明門の西)

 (註1)律令体制初期の大宝令では、衛門は一つで、別に左衛士府・右衛士府があったのを
     平城天皇朝、併合して左右衛門とした。

 (註2)近衛府と衛門府の格差
     天皇の側近に仕える近衛と、宮城(大内裏)周辺を守る衛門に、いかほどの格差があったかは、
     次の壬生忠岑の詠嘆の長歌より推して知るべしです。

    「近き衛りの身なりしを」         (近衛府に勤めていたのに)
    「御垣より外の重守る身の御垣守」     (衛門府に転出した)
    「をさをさしくも思ほえず」        (職責に耐えられるとは思わない)
    「九の重ねのなかにては嵐の風もきかざりき」(近衛府勤務は安穏だった)
    「いまは野山し近ければ」         (宮中から離れたので)
    「春は霞みにたなびかれ」         (影が薄くなった)
    「夏は空蝉なきくらし」          (嘆き暮らしている)
    「秋は時雨に袖を貸し」          (涙で袖を濡らし)
    「冬は霜にぞ責めらるる」         (そぞろ寒い身となった)
    「斯かる侘びしき身ながらに」       (侘びしい身分になった)
                    (古今和歌集・巻第十九・雑躰・1003)

    内裏と大内裏のほんの僅かの守備領域の違いであるのに、斯くも長々と嘆き節を詠まずには、
    いられないほどに身分と職の格差(正に給与面まで)があったことが分かります。
    内裏の内と外では、正しく天国と地獄にも近い生活環境の差があったのでしょう。
 
  (参考メモ)衛門府の役職
官 職 名呼 び 方職  制  内  容
カミ左右各一人。従四位下相当。
中納言、参議が兼帯する例あり。
(右衛門督は左衛門督より軽い)
スケ
ユゲヒノスケ
左右各一人。権佐各一人。従五位上相当。
靫負佐(箭(や)を入れるものを負い、
弓を持っている)
ジョウ大小左右各二人、計八名でよいところ
後年三倍以上20数名にも達している。
従六位相当(五位の尉を衛門大夫という)
サカン大小各二人。正八位下から従八位上相当。
府生フショウ位階以下の地位
番長バンチョウ(壬生忠岑は、もと近衛府の番長であった。
府掌
門部
物部
衛士
フショウ
カドベ
モノノベ
エジ
衛士は正に現地に就く
守衛の役職と言うことになります。
    (註)兵衛府(靫負府)
     六衛府とは、左右近衛、左右兵衛、左右衛門の総称で、兵衛の守備範囲は、近衛と衛門の
     中間地帯を担当しています。すなわち内裏の外、大内裏の内側の建礼門以下9門を守衛する
     とともに、行幸啓時、供奉し、雑役を務めます。
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<衛士の焚く火>

 歌語としての「衛士の焚く火」(篝火の「かがり」とは、鉄製の火籠のこと)を眺めてみましょう。
 
 大中臣能宣の生まれる20年ほど前に完成した古今和歌集には、既に次のように、「篝火」が
鵜飼いを連想させつつ、詠まれています。

 「篝火にあらぬ我が身のなぞもかく涙の川にうきてもゆらむ」(巻11・恋1・529・読人不知) 
 「篝火の影となる身の侘しきはながれて下にもゆるなりけり」(巻11・恋1・539・読人不知)
                    
 当時の人々の「篝火」の光景とは、あくまでも鵜飼いの照火であったのではないでしょうか。
 後撰集の在原業平の次の歌の如くです。

  「大井川浮かべる舟の篝火に小倉の山も名のみなりけり」(巻17・雑三・1232)

 その他の八代集の仮名での歌も次のように「篝火」と「うぶね」あるいは「うかいぶね」が対になって
詠われています。

 「おほいがはいくせうぶねのすぎぬらんほのかになりぬかがりびのかげ」
                        (金葉集二・巻2・夏・160・中納言雅定)
 「さ月やみうがはにともす篝火の数ますものはほたるなりけり」
                        (詞華集・巻2・夏・74・読人不知)
 「うかひ舟たかせさしこすほどなれやむすぼほれ行く篝火の影」
                      (新古今集・巻3・夏・252・寂蓮法師)

 「篝火」に対する歌語のこの傾向は、二十一代集のほぼ終わりまで続いており、第20番目の
新後拾遺集でも次のように詠まれています。

 「鵜飼舟のぼりもやらぬ同じ瀬に友待ちそふる篝火の影」(新後拾遺集・249・惟宗光吉朝臣)
 「うかひ舟くだす早瀬の河波にきれて消えぬる篝火の影」(新後拾遺集・250・権大納言時光)
  
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平成14年8月4日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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