伊勢大輔が宮仕えしていた時期は、寛弘年間(1004〜1012)藤原道長全盛の時代に当たり ますから、平成現代よりほぼ千年以上前と言うことになります。 千年後の大輔の職場である「大内裏」を想像させてくれるものは、「京都御所」であり、「葵祭」で あるわけです。わけても毎年秋に行われる御所の一般公開は、宮中の様子を垣間見る絶好の機会で あるわけです。 現在の京都御所とかっての内裏を比較すると、主として紫宸殿と清涼殿のみ再現できているもので、 かっての大内裏は復元できていません。




<平安京の風景> 平成13年4月、京都市内の大学の公開講座に於いて、提供された平安京の風景の一例を添付します。 (仏教大学「永遠の都・平安京へー<ふるさと>の原風景」京都大学大学院高橋康夫教授)


<平安京の復元画展> 京都市中京区内にある花園大学では、文学部史学科情報歴史学コース開設記念企画展として、同大学 内にある「花園大学歴史博物館」で4月3日より7月6日まで、京都市埋蔵文化財調査センター副所長 梶川敏夫氏原画による遺跡復元画展を開催しました。

歴史学・典籍関係:平安京図ほか
美術禅文化関係:若松春草図ほか
民族学部門関係:奈良県大宇多町集落資料ほか

その他の主な復元図群
京都盆地復元図
長岡京東院復元図
平安京復元図
大極殿復元図ほか
寛弘五年(1008)春、「いにしへのならの都の八重桜」で華々しく宮中歌人世界にデビューした 伊勢大輔は、その後康平・治暦年間(1060年代末)頃まで約50年間詠歌活動を展開しました。 若くして夫に先立たれ、宮中出仕し、娘の養育に生活のエネルギーを割かねばならなかった寡婦経験の 紫式部や、溢れる恋愛心のもってゆきばに困り果て、男性関係で苦労し、あらぬ噂に涙した和泉式部 などの同時代女房仲間から比べますと、一条天皇中宮藤原彰子より絶対の信頼を得て、先輩女房で 辛口の紫式部の好人物評価を得て、三人の娘をもうけ、それぞれにまずまずの人生を送った伊勢大輔は、 中世中流貴族子女としては恵まれた80年の歌人人生であったと推察されます。 (注)紫式部の伊勢大輔人物評論(紫式部日記より) ー大輔・伊勢の祭主輔親がむすめー 「かたちなどをかしき若人の限りにてさて向ひつつゐわたりたりしは、 いと見るかひこそ侍りしか」 とほぼ最高の評価を与えています。紫式部好みの伊勢大輔であったのでしょう。 (清少納言は憎々しいものの) ちなみに、父親の大中臣輔親(954〜1038)も85歳の長寿を全うしていますから、大中臣家は 長生きの家筋かも知れません。 ただ一点彼女にとって不幸であったのは、万寿二年(1025)筑前守になった高階成順(たかしな なりのぶ)と結婚したものの、長元元年(1028)帰京後二三年して、出家してしまったことでしょう。 彼女はまだ35,6歳頃ですが、それから約12年後に父親を見送り、15年後長久元年(1040) 51歳の時夫を見送り、ついに本人も出家に踏み切ったようです。 しかし出家後も娘達のことを思いやりつつ、波風の立たぬ安穏な老年を送れたようです。それは 歌人としての一貫した人生のお陰です。 長年宮中歌人としての名声高く、歌合わせに周囲の人が放っておくはずがありません。 中古三十六歌仙、或いは女房三十六人歌合わせなどの立場を確保しました。 関与した生涯の歌合わせは次の数々です。その中から勅撰集に採られている歌を添付します。 (その1)上東門院菊合 長元元年(1032)10月(左方筆頭歌人として) 「めもかれず見つつくらさんしら菊の花よりのちの花しなければ」 (後拾遺集・巻第五・秋下・349) (その2)弘徽殿女御十番歌合 長久二年(1041)春 (その3)内裏歌合 永承四年(1049)11月 「さよ更けてこころしてうつ声きけば急がぬ人もねられざりけり」 (後拾遺集・巻第五・秋下・336) (その4)正子内親王絵合 永承五年(1050)4月 「うのはなのさけるかきねは白波の立田の川のゐせきとぞみる」 (後拾遺集・巻第三・夏・176) (その5)祐子内親王家歌合 永承五年(1050)6月5日 「ききつともきかずともなくほととぎす心まどはすさよの一こゑ」 (後拾遺集・巻第三・夏・188) (その6)皇后宮春秋歌合 天喜四年(1056)4月 「さよふかく旅の空にて鳴く雁はおのが羽風や夜寒なるらん」 (後拾遺集・巻第四・秋上・276) 「秋の夜は山田のいほにいなずまの光のみこそもりあかしけれ」 (後拾遺集・巻第五・秋下・368) (その7)志賀大僧正九十賀 康平三年(1060)(関白頼道主催)目次に戻る
私家集「伊勢大輔集」に見る家族関係あるいは歌の女房仲間とのやり取りの歌々を二三挙げて おきます。 (家族関係) (その1)父輔親とのやり取り ーむまごのいそかなりし日、ちちすけちかがもとより、− 「うれしきは千代のこまつのつくづくとさかえはじむるいそかなりけり」(109番歌) ーかへしー 「君がかく二葉のまつをいのりてはいかに久しくよろずよをみん」(110番歌) (その2)夫成順関係の歌 ーなりのぶとまだうちとけざりしころ、いし山にこもりて、ひさしくおとせざりしかばー 「みるめこそあふみのうみにかたからめ吹きだにかよへしがのうらかぜ」(148番歌) ー入道うせて又の年、き日のあはれなりしかばー 「わかれにしそのひばかりはめぐりきてゆきもかへらぬ人ぞかなしき」(138番歌) (その3)むすめたちとのやりとり ーむすめのとりこして、ひさしくおとせざりしかばー 「たらちねのおやをばすててこはいかにひとのこをのみ思ふわがこぞ」(99番歌) ーかへしー 「ひとのこのおやになりてぞ我が親の思ひはいとどおもひしらるる」(100番歌) (女房関係) 才気煥発で、生き生きした女房達の和歌世界が展開しています。 伊勢大輔は勅撰和歌集に51首入集していますが、その多くは後拾遺集27首で、和泉式部 67首、赤染衛門31首とともに主要な女流歌人に位置付けられています。 (その1)和泉式部と 「思はむとおもひしひととおもひしにおもひしこともおもほゆるかな」(85番歌) 「君をわれおもはざりせばわれをきみおもはむとしもおもはざらまし」(86番歌) (その2)赤染衛門と ー三ゐうせて後、世のなかつれづれにおぼえしころ、あかぞめがもとにー 「あとくれてむかしこひしきしきしまのみちをとふとふとづねつるかな」(128番歌) ーかへし、あかぞめー 「やへむぐらたえぬる道と見えつれどわすれぬひとはなほたづねけり」(129番歌) (その3)相模と ー入道がうせたるころ、しぐれせしに、さがみー 「みし月のひかりなしとやなげくらんへだつるくもにしぐれのみして」(132番歌) ーかへしー 「月がげのくもがくれにしこのやどにあはれをそふるむら時雨かな」(133番歌)目次に戻る
「伊勢大輔集」に見られる歌枕は、次のようなところです。 浅香沼(28番歌)、和歌浦(37番歌)、かさとり山(74番歌)、伏見の里(75番歌)、 住吉(78番歌)、三島江(79番歌)、長柄の橋(80番歌)、石上(131番歌)、 難波(144番歌)、天橋立(147番歌)、石山(148番歌) これらの中で、本当に自分の足で確かめたのは、「すみよし」、「ながらのはし」などでしょう。 そんなに全国あちらこちらではなかったわけです。殆どは、絵を見たり、人の話を聞いたりでは、 なかったかと思われます。目次に戻る
|
|||
|
|