敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 81 回 *** 第61番(その1)***
***** 伊 勢 大 輔ー八重桜と平城宮跡 *****
目 次
<神職家系の歌人>
<いにしへの都>
<平城宮跡・朱雀門>
<不滅の八重桜>
<東大寺現状実況>
百人一首・第61番 いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな
<神職家系の歌人>
前回までは「伊勢の御」の縁りの地を追い、大和国内の竜門寺や国衙のあった高取町を訪ねました。
「伊勢」と「大和」の組み合わせより百人一首歌人の中で連想させる人物に「伊勢大輔」と
「いにしへのなら」が浮かんできます。「伊勢の御」の場合の伊勢国は彼女の生涯に於いて、その関係は、
稀薄な物であったのですが、「伊勢大輔」の場合は、まさにお家代々の神職として関与した「伊勢国」
であったのです。
百人一首歌人大中臣能宣が祖父に当たり、その子息で、同じく祭主神祇伯(治安二年・1022・正月
伊勢大輔33歳頃)となった輔親が父親に当たります。
伊勢神宮と父親の名前まで一字拝借して、宮中出仕時の姓名としていたわけですから、これ以上彼女の
氏素性を表す名前はないわけです。平安中期に於いて、曾祖父頼基から数えても代々相伝の歌人家系の
真っ直中に位置しています。
百人一首歌(詞華集・巻一・春・27)は、一条天皇中宮彰子の元へ出仕しだした頃の歌であり、
彼女に残されている初期の歌として、また彼女の最も有名な歌になりました。奈良の都からの桜受け
取り役という晴れがましい舞台を提供したのは先輩女房(ほぼ15歳年長)紫式部だったのです。
この頃、和泉式部(13歳ほど年長)も出仕し始め、さらに周囲には、大先輩女房赤染衛門(32歳
ほど年長)、後輩女房相模(7歳ほど年下)など綺羅星の如き平安朝女流歌人連が揃っていました。
いずれの女房とも歌の贈答をしていたことが、自撰とされる私家集「伊勢大輔集」に記録されて
います。まさに和歌を通しての機知の応酬です。
さて、彼女の百人一首歌の八重桜は、「いにしへの都」のいずれにある桜が京の都へ献上されたの
でしょうか。
既に当時平城宮跡の周辺に桜の名所があったのかも知れませんし、南都の大寺から贈られてきた
のかも知れません。
伊勢大輔が既に桜の一品種として「八重桜」を詠んでいるわけですから、歴史の長い名桜という
ことになります。
(注)桜の品種についての参考情報を添付します。
(第1節 締めくくりの万葉歌)
「あをによしならのみやこは咲く花のにほふがごとく今盛りなり」
(巻第三・雑歌・328・太宰少弐小野老朝臣)
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<いにしへの都>
「いにしへの奈良の都」(平城京)は、710年から784年の74年間(聖武天皇の時5年間ほど
遷都が繰り返されたため、実質的には、70年間)「青仁よし」の都として栄えたわけです。
(参考メモ)「あをによし」を初句とする万葉歌4首をそれぞれの節の文末に添えております。

平成現代の平城京旧跡の航空写真(出典:奈良文化財研究所史料より)
奈良の都を詠んだ伊勢大輔は11世紀の人ですから、その時代から見ても奈良の都は既に300年
前の「いにしへの都」のことになるわけです。当時の奈良の都の人口は既に10万人と考えられて
いました。それから約1250年後の現在奈良市の人口は約35万人で、奈良県の県庁所在地として
蘇りつつあります。あと数年で奈良遷都1300年を迎えいろいろな行事が計画されつつあるようです。
一方市街の中心地は、「いにしへのみやこ」の中心より東の三笠山・若草山の方に移動し、かっての
都の中心街の大極殿や朱雀門は、鉄とセメントの高層建築群に変わり、「あをに」の色合いに変わる
ものは、赤い灯、青い灯のネオンサイン広告灯群になってしまいました。

平成現代の奈良市の朱雀大路というべき県庁前登大路の夕景
大宮人や牛車の変わりに自動車が往来しています。
現在の「奈良」京の入口即ち昔の羅城門に当たるのが、鉄道の駅になり、JR奈良駅および近鉄電車の
奈良駅ということになります。その奈良駅の位置は、平城京の外京のほぼ中央に当たります。
東大寺、興福寺、元興寺が外京の東側を押さえていたわけですが、1300年経った時点で、「奈良」
京の中心で繁華街に変貌したことになります。
近鉄なら駅前に下りたちますと、近接している南北方向の商店街、東西方向の大通り(平城京時代の
二条通に相当)に繋がります。西の方向に直進しますと、阪奈道路を経由して、大阪に結ばれます。
大通りの周辺に、商工会議所、県庁、大仏殿、国立博物館、春日大社が集まっています。
21世紀には、「いにしへ」の都も時流に乗り遅れないように都として再生しようとする意欲が
見られます。すなわち「平城京遷都1300年(2010)」「リニア中央新幹線奈良駅実現」
「京奈和高速自動車道早期実現」などの近未来のいずれも国家的プロジェクトの推進に「いにしへの都」
の未来をかけているのです。

奈良市街地周辺の近未来都市交通網計画
平城京を始めとする1300年の「いにしへ」の文物や風土を壊すことなく、新しい時代の機構を
上乗せすることが出来るでしょうか。過去の人間の歴史に於いては、文明の建設には、徹底的な文明の
破壊が先行するのが通例であっただけに、未来に対する一抹の不安も隠せないところです。
(第2節 締めくくりの万葉歌)
「あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れどあかぬかも」
(巻第十五・古歌・3602・読み人知らず)
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<平城宮跡・朱雀門>
近鉄西大寺駅は平城京跡の西の玄関口となっています。
駅前の道を真っ直ぐ東方に伸びている旧二条通を東大寺と三笠山の方向に向かって歩いて行きますと、
平城宮跡資料館、奈良国立文化財研究所、さらには遺構展示館が見えます。

(左)朝堂院前の平城宮跡石碑(中)遺構展示館内(右)復元された宮内省建造物部分と三笠山
近鉄奈良線とこの旧二条通の間が平城宮の遺跡になるわけです。
中央に大極殿、朝堂院などが、東隣には内裏、東の大極殿、朝堂院、朝集殿院などが南北に連なって
います。朝堂院の南側の線路脇に朱雀門が再建されました。

朱雀門再現の新聞記事(平成10年4月16日付け産経新聞)
朱雀門は約2m高さの基壇の上に高さ20m、間口25m、奥行10mの壮大な建造物として再建
されました。この門のはるかの奥にこの建造物の数倍の大極殿が建てられ、元明天皇以下数代約70年
にわたる奈良朝廷が存在したのです。

再建された朱雀門と近鉄電車の線路脇から見た朱雀門

(左)兵部省・式部省跡から見た朱雀門再建工事建家(右)朱雀門再建工事内部
(第3節 締めくくりの万葉歌)
「あをによし奈良の都に行く人もがも草枕旅行く船の泊まり告げむに」
(巻第十五・旋頭歌・3612・大判官)
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<不滅の八重桜>
何が千年の時の流れに不滅などでしょうか。
784年桓武天皇によって長岡京への遷都が行われてから1200年が経った平成現代でも、
平城京当時の物として存在しているのは、完全ではないにしても東大寺を始めとする大寺院と
もっと完全に近い物は、若草山や三笠山でしょう。
本当に完全な物は、伊勢大輔が歌に詠んだ「いにしへの奈良の都の八重桜」です。
伊勢の歌の八重桜に代表された花鳥風月の大自然は、奈良の昔と変わることはありません。
人の作るものは変貌を遂げ、神の造るものは、永遠に姿も動きも変わることがありません。
神の目から見た千年ーーー何と短いことでしょう。
ちなみに伊勢大輔は、衝撃的デビューの「八重桜」の詠以来、八重桜は彼女の好みの歌題で
あったのでしょう。私家集には次の歌が収録されています。
ー皇后宮よりならのやへざくらをたまはせてかくー
「これやこのならのみやこのやへざくらにほひもかずもしられざりけり」(17番歌)
ー御かへしー
「おもかげは見しにかはらでやへざくらいろはむかしの心地こそすれ」(18番歌)
ー山のさくらをたづぬー
「いづこともしらぬ山ぢにいりにけり木ずゑのさくらたつねこしまに」(19番歌)
(第4節 締めくくりの万葉歌)
「あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに」
(巻第十七・3919・大伴家持)
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<東大寺の現状実況>
<<伊勢大輔さんへ! 東大寺関連ニュース>>
前述の第四節で、「いにしへのならのみやこ」で昔と変わらぬ物に「東大寺」を挙げました。
あなたが、八重桜を通して「いにしへの奈良」を偲んでからほぼ千年たった平成年間の
東大寺現状をお伝えしましょう。
ご安心下さい。ともかくも、何とか「東大寺」は平成年間へも伝承に成功して存在しています。
東大寺以外の南都六大寺の主要な物は、世界の国から人類の遺産として認められ、「世界遺産」と
して、保存されるように指定されました。
それらの名跡を「定期観光バス」で巡回しようというのが、平成現代人の楽しみであるのです。

(参考資料:奈良交通定期観光バス案内パンフレットより)
あなたが歌を詠んだ時点でも既に、東大寺はその大仏開眼式典(天平勝宝4年・752)より
250年以上経っていましたね。それから千年。平成年間に大仏開眼1250年の年を迎えました。
只今、奈良国立博物館(大輔さんの時代の方々には、どのようにお伝えすればいいのでしょうか?
そうですねえ、正倉院を大きくした建物)で「東大寺のすべて」を展示しているのです。

「奈良国立博物館・東大寺」周辺の平成現代地図と「東大寺展」の入場券
高級官人だけが見るのでなく、むしろ庶民一般が列をなして、観覧に参集しています。それだけ、
一般庶民も経済的に、精神的に、奈良や平安時代の庶民よりも豊かな文化社会になっているのです。
しかし、大輔さんの時代のように和歌がすぐに詠めるほど一般庶民の文学的能力が高い
文化社会かというとかというと、そうではありません。
いわゆる大輔さんの時代の「雅」の精神的状態には、ほど遠い、がさつで、雑ぱくな状態なのは、
やむをえません。(これは、かなり自虐的暴言ですね。この辺の実態は、別のホームページに
落書きしましょう。)(迷想録第2集・平成の人々の動きを参照願います。)
ともかく、日本人もこの千年間で、いろいろ変遷を遂げてきました。ただ一部の人々は、
「短歌」と称して「三十一文字の歌」らしき物は、真似て歌っています。(これも、短歌界の
人々から言わせれば、猛烈なお叱りを受けるでしょうね。)
さて、「東大寺のすべて」は、次のような展示物が公開されています。
大輔さんの時代の人にもその一部は、ご存じと思いますが。このリストの中に「海外からの出品作品」
という展示物群があります。これは、本朝から海の外の外国へ流出したものを再度借り出してきて、
展示しているのです。
「東大寺」の正倉院には、聖武天皇朝の「もろこしからの輸入品」が収蔵されていたのは、
大輔さんもご存じと思いますが、その「シルクロード交易」の逆の事例になりましょう。
展示物の一例を示しましょう。平安朝の人々も一部はご存じのはずです。

「東大寺のすべて」展の代表的展示物(出典:同博覧会案内パンフレットより)
大輔さん!驚かれたことでしょう。あなたの後世の人々も、奈良朝や平安朝で蓄えられた民族的
文化遺産の継承に務めています。その前に少しでもあなた方の時代を理解し、忘れないことが
肝要です。次のような勉強会も意欲的に行っていますので、ご安心下さい。

(出典:JR東海奈良学文化講座案内パンフレットより)
奈良の都の八重桜も形を変えて、咲き誇り続けられる社会でないといけません。
「いにしへのならのみやこ」と詠っていただいたので、その大和文化の遺産の伝承に少しでも
貢献するように務めます。
いずれまた数百年後に1500年、或いは2000年後の「いにしへのならのみやこ」の現状
報告が、大輔さんに届くことでしょう。素晴らしい世界が展開していることを期待して下さい!
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平成14年7月4日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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