敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 79 回  *** 第19番(その2)***
*****  伊 勢ー難波潟  *****

目    次
<伊勢の京邸> <難波の江と潟> <長柄橋> <なにわ筋となにわ宮> <難波宮1350年後> <大阪新開発地帯>

百人一首・第19番 難波潟短き葦の節の間もあはでこの世をすぐしてよとや


<伊勢の京邸>
  京と難波の中間地点である高槻の古曽部に隠棲したかも知れない伊勢ですが、宮廷女流歌人として
宮廷に名を馳せていた頃は、京のいず方に住まいしていたのでしょうか。
 伊勢が宮中の出仕から里下りしてくるときの邸宅は、藤原清輔が歌学書としての著書「袋草紙」に
能因法師の話として次のように指定しています。

 「・・・能因、兼房車後ニ乗テ行之間、二条東洞院ニテ俄ニ下テ、数行歩行ス。兼房驚キテ
  コレヲ問フ。答ヘテ曰ク、伊勢ノ御ノ御家ノ跡也。・・・」
           (出典:「新日本古典文学大系・袋草紙」岩波書店(1995))

 すなわち、二条東洞院付近に「伊勢の御」の「御家」があったことになります。

京都市中京区二条東洞院付近、(左)北側・(中)東側・(右)南側
 二条東洞院は、かっての平安京大内裏南正面である朱雀門を出て、そのまま東方へ二条大路を進んで
現在の京都御所の南正面に至るところです。

 (注)牛車の能因に同行していた「兼房」とは、彼より若干若輩と思われる次の人物です。

     藤原兼房 長保三年(1001)生れー延久元年(1069)没。
      父中納言兼隆 母左大弁源扶義女 祖父粟田関白道兼(藤原道長の兄)
      正四位下 備中・播磨・讃岐・美作・丹後守歴任、中宮亮
      歌人として、歌合わせに出詠、自らも主催した。
      後拾遺集以下16首入集。
     ちなみに、兼房なる人物は、九条家の家祖兼実の弟で、天台座主大僧正慈円の兄に当たる
     太政大臣を歴任した(兼房)もいる。 

 平安京に於ける二条東洞院通りは、人や牛車の頻繁に行き交う大路であったのでしょうか。
 現在では車一台が通行することさえやや窮屈な市街地の「四つ辻」に埋没してしまっています。
 この京中の景観で民家や商店がひしめく現在と異なる点といえば、この付近は大内裏に近いため、
多くの貴族邸が延々と土塀をめぐらしていたことでしょう。
 このような邸宅の一画にあって伊勢の歌詠みの世界は難波潟に下っていたのでした。
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<難波の江と潟>

 百人一首の88番歌では、「難波江」と詠まれ、この歌では「難波潟」と詠まれている難波津周辺の
「中世の地形」は、自然の砂州が造りだした入り組んだ干潟から成り立っていたのでしょう。現在で
こそ、埋め立てによる人工島からなる複雑な入り江が大阪港を形成しているわけですが。

 平安朝より遙か以前の難波の地は、南北に横たわって茅渟(ちぬ)の海と河内の海を区切っている
上町台地を中心とした古代人の生活の場であったのです。
 さらに台地には、仁徳陵以前の多くの古墳群の存在が確認されています。

 たとえば上之宮古墳、帝塚山古墳などです。これらの台地の周りは多くの島と潟が存在したわけで、
現在でも島と付く地名が上町台地の周りに残っています。その典型的な地名は「島之内」という
大阪商人の中心地の名称です。

 「潟」とは漢和辞典に依りますと、「遠浅の海岸で、潮のさし引きによって隠れたり現れたりする
ところ」ですから、百人一首か88番の「江」よりは陸地に近い所を指しているようです。
 また歌に詠まれた葦はどちらかと言いますと、「潟」より「江」に繁茂しているのが通例と思います。
昔は難波潟のあちこちに繁茂していたと思われる「葦」も言葉として残っている例としては、浪速区に
「葦原橋」「芦原町」の駅名があります。

 昔は一面の葦の原であった「難波潟」も今では「四方に穂が飛び出したコンクリート製の葦のような」
「テトラポット」の防波堤と変わっています。

大阪南港の防波堤
  
 こころばかり残っている淀川の葦も河川の汚染が進むことによって姿を消していくののではないで
しょうか。そうなれば「難波潟」と「葦」の関係もなくなってしまうかもしれません。

 「難波」の古地名だけでも少し残しておきたいものです。
 現在「なにわ」は「なにわ区(浪速区)」に「なんば(難波)」が残っていると共に現代社会らしく
かつ目立つ名前は、自動車のナンバープレート(車番板)に、「なにわ」が登場してきたことです。
 「大阪」よりも、ひらかなの「なにわ」の方が何か親しみのある和らいだ感じを受けます。

 「難波橋」は北浜から大川(旧淀川)を渡して、西天満に架かっていて、橋袂でライオンが橋守を
している橋です。

「なにわはし」周辺の地図とその上空からの写真(西から大川の上流を望む)

中之島公園の案内図と難波橋のライオン像
 現在の橋は全長187mで、1975年竣工になるものです。
 「浪速808橋」といわれる多くの橋の中でも重要な橋の一つになっています。
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<長柄橋>

  「伊勢」にとって、また「伊勢集」にとって、忘れてはならない歌枕は「長柄橋」でしょう。
 「伊勢集」では、「長柄橋」が3首ほど残っています。

  ー長柄の橋作るを聞きて
 「津の国の長柄の橋も作るなりいまは我が身を何にたとへむ」(伊勢集・153)

 ー長柄の橋作るを聞きて
 「難波なる長柄の橋も作るなり今は我が身を何にたとへむ」(伊勢集・452)


 ー七条の后宮、みかども入道せさせ給ひけるころ
 「人渡すことだになきを何しかも長柄の橋と身の成りにけむ」(伊勢集・312)

 ーかへし
 「古るる身涙の河にみゆればや長柄の橋にあやまたるらん」(伊勢集・313)
 
 いずれの歌も「長柄橋」は、古いものの代表名として使われています。
 伊勢の見た長柄橋も、それから千年後も名前のみ受け継がれた「長柄橋」が、新淀川にかけられて
います。その意味では、「長柄橋」は大変古い橋で、千年の命を永らえていることになります。

古今和歌集に歌われた長柄橋
橋柱の躯体面には、縁りの歌が刻まれています。
***********************************
「難波なる長柄の橋もつくるなり
今は我が身をなににたとへん」
(巻十九・雑躰・1051・伊勢)
***********************************
「世の中にふりぬるものは
津の国の長柄の橋と我となりけり」
(巻十七・雑歌上・890・読み人知らず)
***********************************

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<なにわ筋と難波宮>

 「難波橋」に連なっている道筋は、「難波筋」ではなしに、「堺筋」です。
 大阪市の旧市街地を南北に通じている町筋は、東の大坂城前「上町筋」から、「谷町筋」「松屋町筋」
「堺筋」「御堂筋」「四つ橋筋」そして「なにわ筋」「あみだ池筋」と2本の道路がひらかな名称に
なっています。
 ちなみに南北の道路を「筋」というのに対して、東西の道路を「通り」といって、大きな「通り」は
北から「土佐堀通り」「本町通り」「中央大通り」「長堀通り」「千日前通り」などです。

難波京遷都1350年フェスティバル風景
 「なにわ」の古い名称は当然の事ながら、次の古代天皇各代での宮殿名に残っています。
 「難波長柄豊崎宮」(第36代孝徳天皇・645〜654)、「難波京」(第45代聖武天皇・
724〜749)などの宮々で、いずれも現在の大阪市中央区に残っている「いにしへ」の都跡です。
 年代のはっきりしている孝徳天皇の「難波長柄豊崎宮」でも今から1350年前に創都されたわけ
です。飛鳥の里と同様に上町台地の北端「難波潟」の歴史は古いわけです。

 平成7年10月、難波京遷都1350年のフェスティバルが催されました。題して「難波宮(なにわ
のみや)遷都1350年ーいにしえの都、ふたたびー」というものです。

大坂城と難波京旧跡周辺
 難波京跡の発掘は昭和29年以来続けられ、古代の状況が少しづつ判明されつつあります。
 難波京遷都1350年の平成7年(1995)も発掘は続けられています。

難波京大極殿跡と大坂城の遠景

発掘調査作業状況
  発掘された難波京前期(645〜694)と後期(710〜793)に別れた難波宮は、古代の
約150年間に重要な役割を果たしたわけです。それ以来、難波津は首都ではなかったものの港町
或いは商人の町として、日本歴史に少なからぬ関係を持ち続けてきたわけです。

 難波京時代よりさらに遡って5世紀代の倉庫址も宮の隣接地から発掘されています。
 これらの事実より難波津は1500年以上の歴史を有しているかも知れません。

5世紀代の倉庫建築物の再現
  当該区域には再現倉庫に隣接していた大阪市立体育館を撤去して、大坂城内から「大阪歴史博物館」を
移設しました。併せて同敷地内には「新NHK大阪放送会館」もオープンしました。
  大坂城の南西堀端の一画に大阪府警察本部の新建屋(建設中)、新NHK、大阪歴史博物館などの
高層建造物が林立することになります。

(左)右から大手前町の高層ビル群、大阪府庁、新大阪府警察本部、新NHK、大阪歴史博物館、大坂城
(中)大阪歴史博物館内から手前大坂城内および大阪ビジネスパーク内の高層ビル群
(右)大阪歴史博物館内から東隣の旧NHK大阪放送会館跡地を見下ろす

大阪歴史博物館内の展示物例(難波宮殿内の再現)   目次に戻る

<難波宮1350年後>

 孝徳天皇の長柄豊崎宮から約1350年経った宮址一帯の風景は、かっての難波潟を想像することが
困難な高層ビルと商業街と変貌し、さらにそれらの間に民家が詰め込まれた地域になったために樹木の
生育する場所も、まして葦の群生する岸辺さえも見出しがたい所となってしまいました。

 かって長柄豊崎宮から西方は八十島群と葦原の地帯であったことを念頭に置きながら、「なにわ」の
町はずれであった梅田一帯を上空から眺めてみます。

「梅田スカイビル」屋上からの展望
(左)新淀川河口方面(中)大阪駅南側西地区新開発地区の高層ビル群(右)新大阪駅方面
 北方には約百年前の明治20〜40年代に付け替えられた淀川(新淀川)が流れ、その両岸には
高層ビル群や鉄道路線やさらには自動車道などの交通幹線が網目を張り巡らしております。

 難波宮のあった上町台地を中心に周辺の土地では街区を形成する十分な広さの土地が確保できず
ついに難波潟を新規に開拓せざるを得なくなりました。
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<大阪新開発地帯>

 大阪港(天保山)の南側は平成塔とも言うべき高層建造物が林立しています。
 平成9年現在西日本一の高さを誇る「ワールドトレードセンター」を中心に新築造の企業ビル群、
公共ビル群が集中してきました。

「難波潟の新規開発地帯」

(左)左から「ミズノタワー」「ワールドトレードセンター」(中)「ハイエットリージェントホテル」
(右)桜並木から「ワールドトレードセンター」を望む
 伊勢によって詠まれた「難波潟」は今から約1100年前の難波の世界でした。
 難波潟の「短き葦」も今や「新淀川」の人口的川岸の一部に残っているのみで、辛うじて歌にいう
「葦」とはどんなものであるかが分かる程度です。

 上町台地に立って西の方を望むと波間に沈む夕陽の彼方まで葦が延々と続いていた「難波潟」は想像の
世界となってしまいました。
 葦に代わって高層ビル群が現代の葦の群生のように、にょきにょきと「生え育って」きました。

 果たして、次の千年後に葦原は、いや、葦一本でも残っているのでしょうか。
 そのとき、伊勢の「短き葦」とはどんなものであったか、それこそ、葦原を探索して日本国中を
探がして回らねばならなくなっているかも知れません。

 伊勢は、百人一首の「難波潟短き葦」と共に、もう一首「難波潟」の歌を詠んでいます。
 
 「難波潟玉江の葦を踏みしだき鳴くらむ鶴のわがためにかも」(伊勢集・418)
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平成14年6月22日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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