敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 78 回 *** 第19番(その1)***
***** 伊 勢ー伊勢寺 *****
目 次
<古曽部の里>
<伊勢廟の再興>
<百人一首歌碑>
百人一首・第19番 難波潟短き葦の節の間もあはでこの世をすぐしてよとや
<古曽部の里>
第75回能因法師ー古曽部入道で言及しましたように、
能因法師は、敷島の道の大先達「伊勢の御」に惹かれて、出家の後、古曽部の里に隠居を構えました。
能因法師古墳から西側丘陵地の林に「伊勢の御」の縁りの地が伝承されています。
百人一首第19番歌伊勢の縁りの地とは古曽部の里にある「伊勢寺」です。
JR高槻駅を降りて、北側の通りの正面に「上宮天満宮」の鳥居を遠望できます。天満宮の西側の
道を登ってゆきますと、天満宮北側の裏山には乾性寺があり、隣接したその北側が「伊勢寺」に
なっています。
この地域は周りの住宅土地開発が為されるまでは、静かな丘陵地で、東麓の林に位置した寺院で
あったのが、今や住宅地に化してしまいました。

伊勢寺周辺(参考資料:伊勢寺発行観光案内パンフレット)

伊勢寺参道

伊勢寺境内(筆塚からの本堂堂宇、本堂前の竹林)
竹林の間の石段を登りますと、伊勢寺の山門に至ります。「伊勢の御」の硯や銅鏡を寺宝として
収めている山内の本堂の西側には「伊勢廟堂」があり、亀型の台座に慶安4年(1651)に
建立された顕彰碑があります。
毎年1月には百人一首カルタ会が、12月には伊勢姫忌が催されています。
伊勢の御は、877〜933年頃の三十六歌仙の歌人とされていますから、伊勢寺の前の天満宮の
菅原道真(845〜903)とほぼ同時代の女性ということになります。しかも伊勢は宇多天皇の
御息所であり、醍醐天皇、朱雀天皇の三代に渡って活躍した歌人です。
一方菅原道真もその宇多天皇に取り立てられて、右大臣にまで栄進できたわけですから、この
古曽部の里の二歌人は、偶然にも宇多天皇に関係したわけで、しかもその二人が京の地を離れて、
この高槻の地で相隣る場所に祭られているというのも偶然ではないのかもしれません。
この二人の旧跡の周りには弥生時代の古墳や昼神車塚古墳があり、伊勢をしたって京より当地に
住まいを構えたおなじ百人一首の歌人能因法師の関連遺跡(古墳、文塚、不老井など)があり、
さらに時代が下って、天正10年(1582年)豊臣秀吉が山崎の合戦で、明智光秀を破った
本陣跡、近世では幕末高槻藩士で漢詩人として知られている藤井竹外縁りの乾性寺(元和五年・
1619)など歴史の流れがこの二人の縁の地周辺に感じられます。
併せて、西国街道沿いには継体天皇・今城塚古墳、山際には藤原鎌足の古墳まで連なっています。
上宮天満宮の前には西国街道が走っていることからもこの古曽部の里も古くから人が住みつき、
時代の情報が里の中を西に東に行き交っていたことが感じられます。
現在では、西国街道に代わって、JR東海道線、新幹線、高速自動車道・名神高速道、国道、府道
が淀川に並行して走っており、時代の情報を流しているわけです。

「摂津名所図会」の中の伊勢寺と能因法師墳
伊勢が住みついたかも知れないと想定されている頃、或いは能因法師が住みついた頃でも古曽部の
里は、京から見れば鄙の地であったであろうし、田畑や牧場の類は淀川の辺りまで、伸びていた
ことでしょう。
しかし、千年たった現在、古曽部の里は人の密集する住宅地と化し、田畑さえも残り少なくなって
きた感じがします。市街地かは田畑も丘陵地もますます取りつぶす勢いで、南側から北に向かって
進んでいます。
特に大阪の郊外に当たる高槻での市街化の勢いはすさまじく、ここ40,50年の間に一挙に
都市化に拍車がかかり、40万人近くが住まいする大阪の衛星都市となってしまいました。
この調子で、次の千年を待たずとも、百年の近未来にはどのような変貌が見られるのかも、想像が
つきません。さらに市街化が拡大し、道路網が密になり、便利な環境になる一方、落ち着いた中世の
里古曽部の雰囲気は変わることになるのでしょう。
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<伊勢廟の再興>
「伊勢姫」を祀った廟で建立時に古い鏡がでてきたとのことで、これが、寺宝になっているのです。
廟の横に建立されているのが、高槻藩主永井日向守大江直清が慶安三年(1650年)撰文を
朱子学の学者林羅山に執らせた顕彰碑です。

伊勢廟と伊勢廟から遠望した生駒山

伊勢寺境内の「伊勢桜」と「文塚」
「見る人もなき山里の桜花ほかのちりなんのちにさかまし」(伊勢)
平成10年2月12日付けの産経新聞記事に依りますと、平成7年1月の阪神大震災で半壊した
伊勢寺で、伊勢姫を祭祀した伊勢廟が再興され、それを記念して、同寺に縁りの伊勢関係遺品
(古硯一個、古鏡一面、蜀江錦一片など)を一般に公開することを伝えています。

(出典産経新聞記事より)
伊勢寺は、金剛山象王窟伊勢禅寺と称し、大本山総持寺直末曹洞禅寺で、伊勢姫隠棲跡と伝えられて
きましたが、一方で、「伊勢の御」の次の経歴から見て、鄙の地に隠棲する必然的理由が見つからない
とする説もあります。
(注)「伊勢貞国創建、京師東山極楽寺縁起文に見ゆ」あるいは「伊勢の御の家集伊勢集を紐解いても
晩年に京外に隠棲した形跡は全く見あたらない」、さらに「近世にいたって高槻城主永井氏の
文化政策の中で、この伊勢寺という寺名と近くの能因塚が結びつけられ」たものとする諸説を
引いている。(出典:「高槻市史」第三章より)
伊勢は、宇多天皇の寵愛を受け、行明親王を生みましたが、親王は早世し、天皇崩御後に古曽部に
引きこもったとされているのです。その命日12月20日が前述の毎年催される「伊勢姫忌」の法事で
姫を偲ぶというものです。
なお、伊勢寺は、天正年間に織田信長に攻められた高槻城主高山右近の時、兵火にかかり焼失
しましたが、江戸初期の元和年間再興され、現在に至っているのです。
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<百人一首歌碑>
伊勢寺の参道から山門をくぐったところの左手に平成十一年一月、百人一首の歌碑が建立されました。
この歌碑は、近郊の有志の方で、小倉百人一首歌碑を、歌人に縁りの地に建てることを続けている
のです。

百人一首歌碑
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平成14年6月13日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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