敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 77 回 *** 第69番(その3)***
***** 能因法師ー生業と歌仲間 *****
目 次
<馬の生業>
<歌仲間>
<大江嘉言のこと>
<高砂の嘉言>
百人一首・第69番 あらし吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり
<馬の生業>
橘永ト(たちばなながやす)は26歳前後にわけあって出家し、摂津国古曽部に隠居して
「古曽部入道」の能因法師となり、官途の拘束を受けず、自由な立場で、敷島道へ邁進した
わけですが、その残された「能因法師集」なる和歌世界から判断する限り、じっと里に籠もって
仏道一筋の精進生活ではなかったようです。
歌集の上の部では青年期、中の部では出家前後から、漂泊の旅の壮年期、下の部では歌人と
しての名声を確立した晩年期にわたる歌の人生遍路の記録です。
元々出家して古曽部に住まいしたのも、歌道の先達伊勢女御の後を慕ったとされていますから、
出家後も彼にとっては和歌が生き甲斐であったことは確かです。
一方で生きていくための生業(たつき)となったのが、どうも「馬」に関係していたらしいことが
推測され参考資料に言及されています。
「・・・目崎徳衛氏は能因の隠棲地古曽部に注目、同地が古来、牧場だったことから、能因は
馬の交易を営んでいたと推定された。(「能因に於ける二、三の問題」芸林(昭和34年・上、
6月・下))
傾聴すべき説で、「能因法師集」にはなるほど、馬を詠んだ作品が多く、再度の奥州下向の
目的も釈然とする・・・」(犬養廉「百人一首100人の歌人」(別冊歴史読本)
新人物往来社(平成四年一月))
「陸奥」と「馬」を次のように詠んでいます。
ーみちの国にかたらふ人なくなりにけりとききて、ゆきてみればあれたる家にあらきむまを
つなぎたりー
「とりつなぐこまとも人をみてしかなつひにはあれじと思ふばかりに」(中・117)
ーみちのくにひょりのぼりたるむまのわづらひて、この国にてしぬるをみてー
「わかるれどあさかのぬまのこまなれば面影にこそはなれざりけれ」(下・210)
高槻市広報誌「たかつき」に連載されている「いにしえ物語拾遺」(その6〜9)にも、次のように
能因法師と馬の関係を言及しています。
「・・・(高槻市域の地名)「上牧」は、古代官営の牧場が展開した・・・
・・・淀川右岸の上牧から芥川左岸にかけては絶好の牧場立地でした」(その6)
(注)「延喜式」官営牧場 (1)御牧(おんまき)皇室直属の牧場
(2)諸国牧(しょこくまき)兵部省管轄の牧場
(3)近都牧(きんとのまき)左馬寮・右馬寮管轄牧場
高槻市域には、この「上牧」の他に「三箇牧」という地区が地名として残っており、南隣の
摂津市域には、「鳥飼の牧」という地名が、上牧の淀川対岸枚方市には、「牧野」という地名が
残っています。
「・・・二度の奥州旅行で若駒を調教する現地の牧司と親しくなった能因は、陸奥の駿馬を
都に連れ帰り、親しい官人に贈ったり、また他の官人から求められたりしているのです。・・・」
・・・東北からの馬の入手ルートの確保は、必然的に飼育の場所の確保を伴います。
これが能因が古曽部に住んだ最大の理由・・・」(その8)
であったわけで、伊勢女御を慕っての移住は、あくまでも結果的なことであったことになります。
ではその「能因牧場」はどのあたりにあったのでしょうか。

高槻市上牧の周辺
「・・・近都牧にあったのか、あるいは安満庄の中に私牧があったものか
・・・萩之庄檜尾川左岸に「河原牧」の小字があり、高垣町・緑町にそれぞれ「西之川原・
河原田」の小字、また八幡町にも「牧戸」の小字がある・・・
・・・上牧、つまり「上の牧」に続いて「中・下」が、三ヶ牧とは別に、檜尾川から芥川
左岸にあった・・・・」(その8)
かって檜尾川・芥川および淀川右岸流域一帯が牧場であったことを彷彿とさせる地名が現在でも
僅かながら残っているということです。
上述の上牧の対岸即ち淀川左岸の枚方市域における「牧野」の地名も、その北側が交野で
古代天皇家の御陵地に続いていたことから、この一帯は馬との関係が深かったことがわかります。
能因法師の住まいからは南方に淀川周辺まで見渡せ、馬を飼育するには格好の場所であったことに
違いありません。
「能因牧場」の時代から千年経ち、牧場には「馬」の代わりに「車」と「電車」が往ったり来たり、
しております。能因法師が現代で生活生業を求めた場合、自動車に関係した職業を選んでいたかも
知れません。
それよりも能因法師にしてみれば、牧場が消えて、民家が立ち尽くし、その間をあわただしく
行き交う鉄製の車と列車を見て、如何に敷島の世界から遠い騒然とした社会であることかと嘆いた
事は確かです。
のんびりと淀川河岸で草をはんでいる馬の群を見ていることの方が北摂の風景に適していることは
確かです。せいぜい後鳥羽上皇の水無瀬離宮の環境までが北摂の地の風光に受け入れ得たのでしょう。
時の流れとは言え、この変貌振りは極端といわざるを得ません。
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<歌仲間>
「能因法師集」の中には、彼の多くの歌友達関係が記録されています。
能因法師(988〜1050?)は、先ず、官途についていた文章生の頃、藤原長能(949?〜
1009?)の門を叩き、師弟関係を結びました。
その後、同時代人ながら歌道の先達になる源道済(960?〜1019)、大江嘉言(970?〜
1010?)、藤原保昌(958〜1036)等と親交を深め、さらには次の諸子とも交遊を
拡げました。
藤原輔尹(?〜1021)平安中期官人、歌人で詩才にも恵まれる。藤原興方男。
正暦四年(993)蔵人式部丞、藤原道兼の家人、伊賀守、右少弁、左少弁、山城守、
大和守を歴任。拾遺集以下に7首入集。漢詩文「江談抄」に詩才を愛でられる。
藤原広業(977〜1028)平安中期公卿。父は参議藤原有国(平惟仲とともに関白藤原兼家の
左右の眼と言われた人物)母は周防守藤原義友女。子は家経、広算(権大僧都)。
寛弘五年(1008)文章博士、この官職は子孫の世襲となる。
長元元年(1028)従三位参議兼勘解由長官で、薨去。
大江公資(?〜1040)平安中期歌人、薩摩守大江清言男。
従四位下兵部権大輔、遠江守。女流歌人相模を室として自身も歌人として知られた。
後拾遺集以下勅撰集には7首ほど入集。
橘 則長(982〜1034)従四位上陸奥守橘則光の子息、母は清少納言。
進士、蔵人、図書権助、修理亮、式部丞を経て、叙爵。
長元七年(1034)四月越中守、53歳で任地没。
歌道に於いて一廉の成果が得られた頃には「和歌六人党」など受領層歌人群の中で指導者的立場に
立ち、ついには「玄玄集」を編み、歌学書「能因歌枕」まで編纂する活動力を示しました。
これらの歌仲間の中でも、私家集・上では嘉言と、私家集・中では道済と、私家集・中から下に
かけては保昌と特に関係が深かったようです。
彼らは能因法師より年齢が一回り以上上ですから、当然三人とも能因法師にあの世へ見送られて
いるのです。とりわけ、大江嘉言の任地で没した知らせには能因法師も相当精神的打撃を受けた
のです。
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<大江嘉言のこと>
「能因法師集」上部には嘉言に関した歌が4首ほど残されています。中でも次の贈答が印象的です。
ー嘉言、対馬になりて下るとて、津の国のほどよりかくいひをこせたりー
「いのちあらば今かへりこむ津の国の難波堀江の葦のうら葉に」(上・32番歌)
かへし
「難波江の葦のうら葉もいまよりはただ住吉の松としらなむ」
と言い交わして、お互いに別れていったのに、
ー嘉言、対馬にて亡くなりにけり、とききてー
「あはれひとけふの命をしらませば難波のあしに契らざらまし」
大江嘉言の略歴は、次の通りです。
1.大隅守大江仲宣の子息として970年頃生まれる。
正暦三年(992)(22歳頃)文章生。
長保三年(1001)(31歳頃)弾正少忠(一時、弓削姓を名乗る)
寛弘六年(1009)(39歳頃)対馬守
寛弘七年(1010)(40歳頃)任地で没。
2.中古三十六歌仙として関与した歌合わせ
正暦四年(993)5月東宮帯刀陣歌合
長保五年(1003)5月左大臣道長歌合
寛弘四年(1007)1月および寛弘五年(1008)2月後十五番歌合
3.勅撰集には拾遺集以下計35首入集。
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<高砂の嘉言>
大江嘉言集・24番歌に次の歌が残されています。
ーいをといふ所にあかつきがたに千鳥のなくをー
「春の夜に寝覚めて聞けばはりま潟いをの湊に千鳥鳴くなり」
(またのほんに、初句は ふかきよに とも)
加古川の西側を北の方から流れ下っている法華山谷川は、その源を西国三十三札所の一寺一乗寺の
麓として、伊保港に至っています。
港の方から、山陽電鉄、山陽新幹線、国道250号線が、谷川を渡っております。
高砂市役所は右岸千鳥大橋の袂に伊保小学校は左岸にあり、さらにその北側に架かる雁南橋の
袂に、大江嘉言の歌碑が建っています。かっての「いをの湊」の遺跡になるのでしょう。

JR加古川駅周辺

JR加古川駅舎(大阪桜島線・現夢咲き線桜島駅舎が移設されたもの)
駅前の道標(西国街道加古駅)

雁南橋とそのたもとにある「大江嘉言」歌碑
ここでも仲のよかった能因法師に登場してもらいましょう。
能因法師も「高砂の歌」を詠んでおります。
ー高砂の松ー
「いたづらに我が身も過ぎぬ高砂の尾上にたてる松ひとりかは」(下・235番歌)
平成14年6月4日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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