敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 76 回  *** 第69番(その2)***
*****  能因法師ー能因歌枕  *****

目    次
<もみぢの竜田川> <歌枕陸奥> <その他の能因歌枕>

百人一首・第69番 あらし吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり


  前回は能因法師の活動の拠点である摂津国での縁りの地を二三か所当たってみました。
 能因法師は、非常に活動力のある人物であった事が想像されます。それは「能因歌枕」に残されて
いる歌が全国各地の旅先でのものがかなり多く、後世の西行法師の先人と言うことが出来ましょう。

 しかも歌道に係わって歌道書「能因歌枕」を残している点がもっとも端的に彼の歌道人生を
表していると云えます。
 多くの歌枕の中でも代表的な歌枕は、百人一首に採られた「もみぢば」の「竜田川」であり、
「袋草紙」に逸話が紹介されている「秋風ぞ吹く白河の関」ではないでしょうか。
<もみぢの竜田川>
 まず、畿内の名所竜田川から覗いてみましょう。
 「能因法師集」における竜田川周辺の詠は、

 「聞かせばやつれなき人に妻恋ふる竜田の山のさを鹿のねを」(下・19)

 また、近傍の歌枕として、二上山が詠まれて、

 「見渡せば夜はあけにけり玉くしげ二上山に霧立ちわたり」(下・195)

 したがって、後拾遺集に採られた百人一首の歌は、数少ない歌枕としての竜田川に関する唯一の
詠歌にして、かつ能因法師に千年の命を与えた歌になったのです。

  ー永承四年(1049)内裏歌合によめるー
 「嵐吹くみむろの山のもみぢばは立田の川のにしきなりけり」
                      (後拾遺集・巻五・秋下・366)

 因みにこの歌の前に菊の花の歌があり、紅葉の歌が続いております。
 この歌の一番前には、中納言定頼のかの有名な次の歌が並んでいます。

 「水もなくみえこそわたれ大井河岸のもみぢは雨と降れども」
                       (後拾遺集・巻五・秋下・365)

 即ち後拾遺集中のこの歌の周辺は、色鮮やかな紅葉に彩られた輝かしい「紅葉の名所」となって
います。
 なお後拾遺集で能因法師は師匠の長能(20首)、仲間の道斎(22首)、清原元輔(26首)、
大中臣能宣(26首)、伊勢大輔(27首)より多く31首も採歌されており、和泉式部(68首)、
相模(40首)、赤染衛門(32首)に次いで、重要視された歌人になっています。

 天王寺からJR大和路線(関西本線)を王子で降り、かって中世紅葉の名所竜田川を訪ねてみます。
 王子駅を降りて国道25号線を東北方向に法隆寺・大和郡山方面にとり、大和川を越えて、竜田
大橋で、竜田川に当たります。

竜田川の周辺
 「竜田川」は中世の歌人に多く詠まれた状況から想像する川と現実の川の風景には、それこそ雲泥の
差があり、初めて訪れた人は誰しもがっかりするような小さな川で、いわゆる田園風景の中の「村の
小川」といった感じです。

竜田川に架かる紅葉橋
 竜田川の環境変貌が中世ロマンの夢をぶちこわし、落胆した気持ちの所へ追い打ちをかけるように
さらに残念なことは、嘗ての紅葉の名所としての紅葉も見あたらず、紅葉鑑賞もさして期待できないと
いうことです。
 確かに千年も経てば環境は変化し、紅葉の森も無地になってもやむを得ませんが、残念なことです。
 平成現在の「紅葉の名所」は、どの程度長く、環境保全して、後世に伝承することが出来るので
しょう。ことに平成の世での環境は、酸性雨による樹木の劣化損傷が甚だしく進んでいる状態ですので、
なおさら懸念するところです。

 竜田大橋の上から竜田川堤を見ますと、公園になった「紅葉橋」の周辺のみが整備されています。
 公園にすると同時に紅葉樹も植林し、気長く育成して行かねばならないでしょう。一方では、竜田川
周辺と雖も、大阪のベッドタウン化による市街地化は進んでいく可能性があります。

 竜田大橋から川堤を南下しますと、三室山の麓に至ります。
 麓の上り口には、竜田川・三室山を歌題にした百人一首の歌で、業平と能因の二首が石版に刻まれて
います。

三室山登り口
  山頂には能因法師の五輪供養塔があります。法師は神南備集落の三室堂に住していたという言い
伝えがあります。

 わずかに標高82mのこの小山が千年以上にわたって日本人の和歌世界で有名な山であり続けたわけ
です。低い山で有名な他の山としては、阿倍仲麻呂の奈良御蓋山がありますが、それとても三室山より
数倍高い山です。まさしく「山高きを以て貴からず」の譬え道理です。
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<歌枕陸奥>

 「能因法師集・中」には東国及び陸奥の歌が多くあります。その一番手が次の「秋風の白河の関」で

 ー二年の春みちのくににあからさまに(一時的に)くだるとて、しら河の関にやどりてー
 「みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしら河のせき」

 この歌の後に次のような詞書きの歌が10首以上ほど連なっています。

 「(甲斐)しらねのみゆるを見て」        「ひたちの国にてつくばのやまを」
 「みちの国にいききて、しのぶのこほりにて・・・」「たけくまのまつ、・・・」
 「すゑのまつやまにて」             「しほがまのうちにやどりて・・・」
 「くははらのしほりにて・・・」         「いではのくにに、やそしまに行きて」
 「みちの国にかたらふ人なくなりにけりとききて、・・・・」

等々です。さらにはおまけに「東国風俗五首」の連作ができ、思い入れが深まってついには想像の
世界にまで奥州に及び、「想像奥州十首」を詠んでいます。このなかには、三江の浦、武隈、宮城野、
末の松山、塩釜、籬(まがき)、なでしこのやま、姉歯の橋、野田の玉川などです。
 能因法師の「みちのく」を憧れる気持ちが平素から如何に強かったかが分かります。

 栃木県最北部は那須高原山岳地帯になっていて、高原の北が陸奥になります。
 JR東北本線での陸奥への入口に白河市があり、昔この地は奥羽三関、白河関(磐城)、勿来関
(常陸)、念珠関(羽前)の一つであったのです。

白河市と白河関
 白河関に行くには、白河駅から白河関行きバスで約40分ほど走らねばなりません。
 白河市街を抜けて郊外の平野を抜けて、白河市街の南方山間部に入り、山間を辿って行くと、
白河関跡、および白河関森公園に至ります。山間部には行って来た感じが深い白河関跡付近の風景です。
今となっては、関が歴史の彼方に埋もれてしまわないようにくい止めるのが精一杯です。公園内には、
関の記念展示館も建てられています。

 白河神社の石碑のある道を森の中に入って行きますと、寛政十二年(1800)白河藩主松平定信公
によって建てられた「古関蹟」の石碑を見ることが出来ます。

白河神社参道
 またその傍らには、幌掛けの楓として、源義家が衣を掛けたとされる楓、源義経が平家追討の戦勝を
祈願して、立てた旗立ての桜、さらには従二位の杉として樹齢800年の家隆手植えの老木もあります。
 白河神社の境内には、古歌碑があり、次の三首が刻まれています。

 「たよりあらばいかでみやこへつげやらむ今日白河の関は越えぬと」(平兼盛)
 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(能因法師)
 「秋風に草木も露をはらわせて君がこゆれば関守もなし」(梶原景時)

古歌碑(左:梶原景時、中央:能因法師、右:平兼盛)
  芭蕉の「奥の細道」には、

 「・・・心もとなき日数も重なるままに、白河の関にかかりて旅心さだまりぬ・・・」

と述べているように、白河関は昔から都から見た場合、歌枕としてより、僻地の境界と考えられて
いたのでしょう。したがって能因法師にしろ、平兼盛にしろ、この白河の関に立ったとき両人とも
都の事を考えたのでしょう。

白河関記念公園内再現白河関

 白河の関が設置されたのは延暦十八年(799)で、承和二年(835)には存在することが
確認されており、廃止されたのは、12,3世紀頃と考えられています。

 現在の「古関蹟」を推定したのは、白河藩主松平定信公の考証による物で、具体的には、昭和34〜
38年頃の発掘調査で、空堀、土塁などの遺稿が一部残っていることが分かりました。
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<その他の能因歌枕>

  「能因歌枕」の内容から採りあげられている各地の名所を抽出してみましょう。
           (出典:佐々木信綱編「日本歌学大系第一巻」風間書房(昭和47年8月))

                                 自然の景物毎の歌枕

                      関ー逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関
                      河ー吉野川、竜田川、大井川
            橋ーはにはのはし、はまなのはし、さののふなはし
            山ー吉野山、朝倉山、みかさ山、竜田山
            森ー神奈備の森、生田の森、信太の森
            滝ーいはなみのたき、おとなしのたき
            野ー嵯峨野、交野、宮城野、春日野
            里ー信夫の里、伏見の里、生田の里

                  国々の所々名

  採りあげている国名ー山城以下62国にのぼります。
  その中で、最も多く歌枕を挙げているのが、山城(86か所)、大和(43か所)、
  陸奥(42か所)摂津(41か所)などです。

  ここでは、摂津国内の41か所を列挙しておきます。

  すみよし、けるみの浦、なからの浦、まのの浦、まつかぜ、いくたの森、みかみのうら、
  あまのわたり、あまの川、あこめの関、なが井の里、かへるやま、ほり江、さまのさき、
  たまさかの池、かめ井、みなと川、たまさか山、ぬのびきの滝、しまえ、たきののは、
  水のをか、まちかね山、なには津、みをつくし、はつかしの森、さくら井、ふぢの森、
  いはせの森、たまさかの松、ゆきの森、いはせの山、すみの江、せびえの原、神なびの社


 能因法師の頭の中には、地元の摂津や畿内に加えて、東国や陸奥の世界が大きく且つ広く、深く
展開していたのは確かです。
 さらに能因歌枕はそれにとどまらず、その他の地域にも歌を残しています。その地域を詞書きに
二三拾ってみますと、次のようになります。

 「春美濃の南宮にて、・・・」
 「美州に閑居五首」
 「長暦四年(1040年頃)春 いよのくににくだりて・・・」

 美濃、美作、伊予と、東に西に多方面に出歩いたことが想像されます。
 能因法師のこれらの諸国行脚は法師としての修業の旅人はとても理解できません。
 それは各地で詠んだ歌が仏道に基づく修養の心を表に出したところが全くないからです。むしろ、
気ままに思いつくままに旅を重ねていると言った方がよいような印象を受けます。
 これは多分に「都をば霞とともに」立って、数奇の逸話を残した奇人に誓い人物像から来る想像に
過ぎないかも知れません。

 それにしても西行に先行した旅の歌人能因法師の面目躍如たる「能因歌枕」の和歌世界を追求した
人生であったことは確かです。
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平成14年5月31日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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